再読。
少しく修正する。明末清初の中国思想情況における西洋科学および技術の影響には言及はある。しかしそれは中国の“啓蒙思想”の源泉あるいは影響元になったという記述はあまりない。あることはあるが全面には押し出されない。それではなぜ中国に啓蒙思想が興ったか、あるいは著者がそうみなすかといえば、レーニン・マルクス・エンゲルスの史的唯物論に従えば、“啓蒙思想”が出現する時代がなければならないからである。だから西洋であったように中国でもあったのである。資本主義萌芽論争と同じ論法である。あらかじめ決まった結論のために、何心隠も、李贄も、黄宗羲も、顧炎武も、阮元も、戴震も、みな啓蒙思想家として最初から決めつけられ、その著作が都合の好いように断章取義されて引用される。彼らはみな農奴制度をとそれにまつわる一切のものごとを仇のように憎み、人民の教育を重視し、自治と自由を擁護し、人民とくに農民の利益に同情したそうだ。なぜならそれが西洋史の否世界史の基本法則における啓蒙思想家の特性だからだ。本当の彼らが聞いたら「それは自分のことか」と仰天するだろう。阿呆か。
(北京 人民出版社 1956年8月第1版 1958年1月北京第2次印刷)
少しく修正する。明末清初の中国思想情況における西洋科学および技術の影響には言及はある。しかしそれは中国の“啓蒙思想”の源泉あるいは影響元になったという記述はあまりない。あることはあるが全面には押し出されない。それではなぜ中国に啓蒙思想が興ったか、あるいは著者がそうみなすかといえば、レーニン・マルクス・エンゲルスの史的唯物論に従えば、“啓蒙思想”が出現する時代がなければならないからである。だから西洋であったように中国でもあったのである。資本主義萌芽論争と同じ論法である。あらかじめ決まった結論のために、何心隠も、李贄も、黄宗羲も、顧炎武も、阮元も、戴震も、みな啓蒙思想家として最初から決めつけられ、その著作が都合の好いように断章取義されて引用される。彼らはみな農奴制度をとそれにまつわる一切のものごとを仇のように憎み、人民の教育を重視し、自治と自由を擁護し、人民とくに農民の利益に同情したそうだ。なぜならそれが西洋史の否世界史の基本法則における啓蒙思想家の特性だからだ。本当の彼らが聞いたら「それは自分のことか」と仰天するだろう。阿呆か。
(北京 人民出版社 1956年8月第1版 1958年1月北京第2次印刷)