書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

侯外廬 『中国思想通史』 第5巻 「清:十七世紀至十九世紀四十年代中国早期啓蒙思想史」

2012年09月27日 | 東洋史
 再読

 少しく修正する。明末清初の中国思想情況における西洋科学および技術の影響には言及はある。しかしそれは中国の“啓蒙思想”の源泉あるいは影響元になったという記述はあまりない。あることはあるが全面には押し出されない。それではなぜ中国に啓蒙思想が興ったか、あるいは著者がそうみなすかといえば、レーニン・マルクス・エンゲルスの史的唯物論に従えば、“啓蒙思想”が出現する時代がなければならないからである。だから西洋であったように中国でもあったのである。資本主義萌芽論争と同じ論法である。あらかじめ決まった結論のために、何心隠も、李贄も、黄宗羲も、顧炎武も、阮元も、戴震も、みな啓蒙思想家として最初から決めつけられ、その著作が都合の好いように断章取義されて引用される。彼らはみな農奴制度をとそれにまつわる一切のものごとを仇のように憎み、人民の教育を重視し、自治と自由を擁護し、人民とくに農民の利益に同情したそうだ。なぜならそれが西洋史の否世界史の基本法則における啓蒙思想家の特性だからだ。本当の彼らが聞いたら「それは自分のことか」と仰天するだろう。阿呆か。

(北京 人民出版社 1956年8月第1版 1958年1月北京第2次印刷)

オブホフ 『失われた楽園 ロシア人の新疆史』

2012年09月27日 | 地域研究
 原題 Обухов В.Г. - Потерянное Беловодье. История Русского Синьцзяна.

 人民革命前から“新疆”=カシュガリア、小ブハーリア、中国トルキスタン、東トルキスタン、に商人・職人さまざまな形で入り込み定住していたロシア人たちの歴史。革命成立後今日までの部分になるとソ連・ロシア=中華人民共和国外交史のようになってしまうのだが、革命直後のロシア人の海外移民・新疆脱出体験の聞き書きがあったりして面白い。もちろん東トルキスタン共和国関連の記述もある。そこはこれからゆっくり吟味するつもり。注こそないが、巻末出典・参考文献リストはしっかりしている故。

(М.: Центрполиграф, 2012.)

ポチェカエフ 『オルドのツァーリたち ジョチ・ウルスのハーンと実権者たちの伝記 第2版』

2012年09月26日 | 西洋史
 原題 Почекаев Р.Ю. - Цари ордынские. Биографии ханов и правителей Золотой Орды. 2-е изд.

 オルドは黄金のオルド=金帳ウルス、即ちジョチ・ウルス(キプチャック・ハン国)のこと。その代々のハーンあるいはハーン号を名乗らなかったが実質的なハーンの地位を占めていた者の列伝。大部で464頁もあって、とても詳しい。注と引用・参考文献も完備しており、学術書である。とりあえず、ママイの伝を熟読した。いうまでもなくママイは、チンギス・ハーンの男系子孫ではなかったため、ハーン位に就けなかったが、実質的には黄金のオルドを一時期支配した人物である。この書によると、チンギス・ハーンの又従兄弟にあたるキヤト・ジュルキン氏族のサチャ・ベキの子孫だという(注415に引くレフ・グミリョフの説)。
 なお「オルドのツァーリたち」というタイトルは奇を衒ったものではない。ロシア語(史)では、ツァーリ(царь)とハーン(хан)は通用する。これをどう説明するかで、もともとローマ(東)帝国の皇帝を意味したツァーリが次にハーンをも意味するようになったという説が一般的であるが、もともとハーンを示すロシア語だったという説もある。この書では冒頭解釈が示してあり、元来はローマ(ビザンチン)皇帝(インピラートル、バシレウス)を示すロシア語における言葉だったが、1204年の一時滅亡、その後の半世紀におよぶ皇帝ひいては帝国不在の混乱にくわえ、強大なモンゴル帝国の来襲、その占領という未曾有の新事態を迎えて、ツァーリ царь という概念――天の帝という意味――の対象が、より切実に接しより強大なモンゴル(ジョチ・ウルス)のハーンへと移ったという説明が行われている。
 
(СПб.: Евразия, 2012.)

張岱年 「中国古典哲学概念範疇要論」

2012年09月25日 | 東洋史
 『張岱年先生全集』4(石家庄 河北人民出版社 1996年12月)所収のテキスト(同書449-702頁)。1987年12月の日付のついた序文あり。
 「理」「気」をはじめ、夥しい中国伝統哲学の主要な概念および用語の実例文集として役立つ。
 語義の解釈は、唯物論でばっさばっさとなでぎりで、役に立たない。歴史感覚がないのと、テキストを読めていないせい(あるいはよめても唯物論の教義にあわせて読まねばならなかったせい)であろう。引用文は文言文のままで解釈はついていない。
 (32)の“故,所以,因”(596-599頁)で、これらをすべて“原因”と解釈しているのだが、同時に「因」“~を使って(依)”の意味であるともしていて、奇妙である。アリストテレスの四原因説ならともかく、現代の普通の原因の意味からすれば矛盾している。質量因を原因に入れるのならまさか目的因(~するために)も原因に数えているのではないかと例文を探してみたが、これはさすがになかった。
 とにかく解釈部分は怪しい。


柏艪舎編著  『根岸の里と子規と律』

2012年09月25日 | 日本史
 内容は古き良き明治の根岸風物詩だが、そのなかに陸羯南の四女・巴女史の談話があって、そこに子規と律の話が出てくる。巴女史は子規と律の両方を直に知る人であり、後者からはのち日参して裁縫を習いもしたという近しい関係にあった。律から聞いたという子規の看病の様子など、とても詳細であるが、ここに書くには忍びない。

(柏艪舎 2011年8月)

王前 『中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』

2012年09月24日 | 人文科学
 宮崎駿監督の言う「脳味噌の表面で書く」とはこういうことかと思う。それとも、“現代”で”思想”という剣呑なテーマ柄、あちこちの地雷を避けての結果なのかもしれないが。福澤を論じて「脱亜論」の名は出しても内容には踏みこまないという、苦心の徐行運転である。

(講談社 2011年6月)。

安大玉 『明末西洋科学東伝史 「天学初函」器編の研究』

2012年09月24日 | 東洋史
 徐光啓は、ユークリッドの翻訳の『幾何原本』では冒頭定義の翻訳を間違えていた(「第4章 『幾何原本』と公理的秩序」)。李之藻は『渾蓋通憲図説』を訳述したが根本原理を理解しきれていなかったため、読んだ人間はそのままではアストロラーベを造ることができなかった(「第8章 『渾蓋通憲図説』」)。それでも明末清朝の中国の知識人・科学者は、当時の西洋科学をかなりの水準まで理解体得できたのだが――暦学がその代表である――、その後次第に経学の枠組みで理解する風にいわば退行してゆく。徐も西洋科学の中国起源説を著書で唱えているが、それはあくまで中国人に受け入れやすくするための便法であったというのが、安氏の主張である。
 ところで、安氏によれば、徐は『簡平儀説』(1611年)で、「理」という語を、どうやら特別の説明なしに自然法則の意味で使っているらしい。安氏はその証拠として、「理をいうに、所以為の故を言わないのは、似て非なる理」(序文)という彼の言葉を証拠として引いている。さらに安氏は、この「故」は「原因」の意味であると注釈している(「第9章 『簡平儀説』、本書277頁)
 とすれば、徐は、福澤諭吉の『訓蒙 窮理圖解』(1868年)より250年以上以前に、「理」を概念として「倫理原則」と「自然法則」の二つに分離していただけでなく、後者のみの意味で「理」字を使用していたことになる。これがもし本当であれば、私にとり驚愕に値する。検証すべし。

(知泉書館 2007年8月)

寒川鼠骨 『正岡子規の世界』

2012年09月24日 | 文学
 「もっとも少ない報酬でもっとも多く働く人が偉い人ぞな」と子規が言ったという逸話の原典を確かめる。原典では、「最も多く最も真面目に働く人が」であった。鼠骨は子規のこの言葉を、「少ない報酬に甘んじ人類に多くを貢献するのが立派な人間である」と理解した(「子規居士追憶」「忘れえぬ忠告」本書166頁)。

(六法出版社版 1993年11月)

まつばら とうる 『「子規唖然」「虚子憮然」―『仰臥漫録』自筆稿本始末記』

2012年09月21日 | 文学
 司馬遼太郎『坂の上の雲』そして『ひとびとの跫音』と続く、正岡子規とその周辺の人々を描く作品群の正当な続編第二部というべき作品。ただしノンフィクションであり、物語としてはかなり基調が辛くなる。五十年間行方不明となっていた『仰臥漫録』の原本が、不思議にもいくら探してもなかった子規庵の土蔵から“再発見”された事件に始まり、そしてさらに不思議なことに、所有権を放棄した故・正岡忠三郎や子規庵側関係者の希望に反して、国会図書館にも、松山の子規記念博物館でもなく、いったん預かった形になった正岡家(忠三郎の御子息たち)から、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館へと寄贈されたその経緯を正岡家と子規庵の間にたって仲介役となった、当事者の一人として描く。
 いま第二部と言った。第一部は同じ著者による『隣の墓 子規没後の根岸・子規庵変遷史』(文芸社 2001年9月)。これはいわゆる昭和20年代半ばの子規庵事件(『ひとびとの跫音』でほんのわずか触れられている。『仰臥漫録』もこの時紛失した)を描くものの由。次に読む。

(文芸社 2003年10月)