書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

法務省入国管理局 『平成23年における難民認定者数等について』(平成24年2月24日)

2012年02月28日 | 現代史
 〈http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri03_00085.html

 「別紙」までふくめて眼を通したが、状況がよくわからない。難民申請の数の激増は判る、だがその内容・内実がわからない。申請の数に比例して認定の数が増加するのが当然とはいちがいには言えまい。これはつまり、問題についての基礎知識が私にないためなのだが。

志筑忠雄 『暦象新書』

2012年02月27日 | 自然科学
 三枝博音編『日本哲学思想全書』6「自然篇」収録。
 2010年09月10日『蘭学のフロンティア 志筑忠雄の世界』より続き。
 原典を通読してみる。眼目は、気一元論とニュートン力学を、どう折り合いを付けて両立させているか、いないのかの点。
 “分子”の概念と用語が使われているのに驚く。ところが、“気”の字がいたるところに現れる。はては、“気の分子”などという言葉が見える。つまり、彼は気を分子から成り立つものと解釈した。陰陽五行説が世界のなり立ちを説明される際に確かに使われているが、「気には引力があり、その引力が強くなるにつれて気の分子が結合し、構成は密となって、気体→液体→固体へと変化する」となると、これはすでに原子論の読みかえであろう。ちなみに志筑の五行説の解釈は、火は気分子の密度が疏であるがために物質としての剛性が足らず、それにおいて勝る土や金を焼けないのだ、といった体のものである。
 この意味においては、同時収録されている安藤昌益『自然真営道』の気や五行理解のほうが、よほど観念的で立ちおくれている。“18世紀日本の唯物論者”の名は、安藤(1703-1762)よりも志筑(1760-1806)にこそふさわしい。
 
(平凡社 1956年8月初版 1980年2月第2版)

Know thyself!

2012年02月26日 | 
 匿名言論は言論に非ず。つまり twitter も、匿名が通用する以上、普通のネットブログや 2ch と、基本は権威や信用性や品位において何ら変わらぬということである。匿名の輩が実名を露している人間に対し、後ろめたく感じることもなく、対等の立場で物を言い振舞う奇妙さ。何か勘違いしていないか。名乗らない(或いはすぐに自分の正体がわかるヒントをどこかに残していない)時点で、君達はすでに格下なんだよ。

胡適 『胡適全集』 第七巻

2012年02月24日 | 東洋史
 『墨経新詁』上下(1916-1917)
 『「墨経」合読』(二種)
 『「公孫龍子」三篇校読』(未刊) 
 収録。

 先考の研究を踏まえつつ、自らの解釈を打ち出そうとしていることは解る。だが難しくて(細かすぎて)、よく分からない。さすが国学大師。これまでの意見は取り下げなければならないか。

 (安徽教育出版社 2003年9月) 

胡適 『胡適全集』 第伍巻

2012年02月24日 | 東洋史
 「先秦名学史」(もと「中国古代哲学方法進化史」1922年刊、もとコロンビア大学博士論文、1915年。
 
 『大学』の「修身斉家治国平天下」の一節を、儒教経典のなかでは唯一まだ論理的な言説として捉えている。
 ただ、朱子学の「格物」を、人事に限ったものとして。自然法則探求への科学的方法がついに見られなかったと慨嘆している。
 これらを踏まえた著者の結論は、中国の未来のために、儒家以外の諸家から中国の埋もれた伝統を掘り起こさねばならないというものである。
 本書第三編「墨翟及其学派的邏輯」、第三巻「別墨的邏輯」で、墨家の論理学について詳説されている。
 だがそれは、孫詒譲を初めとする諸先達の注にのっかっただけの敷衍に過ぎない(とくに「経」「経説」の部分)。
 第四編「進化和邏輯」では、『老子』には進化論があるし、『列子』『荘子』もまたしかり、『荀子』や『韓非子』にも同様、とくに法家の著作にはリーガルマインドがあると。
 つまり西欧に現在あるものは中国にはもとよりあったのだという論旨。というよりその結論のために都合のいい事実が都合のいい解釈を施されて列挙されたという印象。
 
(安徽教育出版社 2003年9月)

賽福鼎等著 『周総理永遠和我們在一起』

2012年02月17日 | 現代史
 某大学図書館で閲覧。セイプディン(サイプディン)・エズィズィほか著とあるので、この人が主役を張って周恩来を追悼しているのか、これはいささか妙な構図だなと思って手に取る。
 追悼詩文集である。セイプディン・エズィズィのべつに主著・主編ではなく、排列がその第一番であるにすぎない(それもおかしな話だが)。
 詩文の内容自体はべつにたいしたものではない。というか、この本は、周恩来没後一周年を記念しての出版と、巻頭「内容説明」に書かれているとおり、出すこと自体に意味があるからである。この本の目的はこの「内容説明」のみにあるのではないかと思えた。それは、周総理は四人組に迫害されてそのためもあって死んだ、そしてその凶悪なる四人組は“英明なる領袖”“華(国鋒)主席によって粉砕された”と頌(うた)っている。

 さて、追悼文寄稿者の最初の三人が今日から看て、いろいろな意味で豪華である。

 1. 賽福鼎(セイプディン・エズィズィ)「剛強的雄鷹」・・・散文。
 2. 郭沫若 「懐念周総理(二首)」・・・詞「念奴嬌」七言律詩「七律」、各一首。
 3. 茅盾 「周総理挽詩(二首)」・・・七言絶句、無題二首。

 セイプディン・エズィズィも茅盾も、拒める立場ではなかったろう。だが郭沫若は違う。みずから是非と志願したのであろう。なぜなら本来ここに顔を出せるはずもない人物だからである。反右派闘争が始まると毛沢東に媚び、文革が始まると「私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」といち早く見得を切って尻尾を振り、さらに曹操を持ち上げて毛の専制を言祝いだ。ついで四人組が台頭してくると江青に擦り寄り、べんちゃらの限りを尽くした。当然批林批孔運動でも周の側には立たなかった。そのお前が、四人組が“粉砕”されるとこんどは華国鋒に乗り換えて何もなかったかように周総理を懐かしんでみせる。いったいお前は人間か。

(北京:人民文学出版社 1977年3月)

鷲見秀芳 『中央アジア・トルコ語 カシュガール方言の研究』

2012年02月17日 | 人文科学
 別冊テキスト付き・全2冊。
 本冊表紙著者名の上に“北京師範大学講師”の肩書。
 文中著者の曰く“「中央アジア・トルコ語」とは支那領トルキスタン即新疆省内において話されるトルコ語、就中カシュガール地域のウイグル人のトルコ語方言を指す”とある。
 そしてそのウイグル人だが、西トルキスタン・ソ連領中央アジアでこの名称が創りだされたのは1921年、東トルキスタン・新疆省で使用が始まったのは1935年、この書の出版から10年乃至20年ほどしか経っていない。したがって、この書を読む上での私の第一の興味は、この「ウイグル人」という現在の呼称(民族名)を、はたして鷲見氏は使っているか、使っているとすればどのような定義を、学術上専門家として下しているかにあった。
 第一の興味につき、使用しておられることはすでに述べた。ではいかなる意味を以て使用されているか。
 氏の答えはこうである。「ウイグル人」の名は通称であり、中央アジア・トルコ人を総じて呼ぶものであると(12頁)。民族名としては認めておられない。
 ならば、「ウイグル語」なるものは存在しないであろう。故に氏は、「中央アジア・トルコ語」(=中央アジア・トルコ語方言)に属する方言として「タランチ方言」「カシュガール方言」「ヤールカンド方言」「サルト方言」「ウズベック方言」に分類している(8頁の表。なお「サルト」は著者の注によれば「トルコ化したイラン人」)。現在の「ウイグル人(族)」に相当するのは、「タランチ方言」「カシュガール方言」「ヤールカンド方言」の話し手か。
 
(龍文書局 1944年10月)

玄容駿 『済州島巫俗の研究』

2012年02月17日 | 地域研究
 どうも論旨がよく追えないと思ったら、「序」で大林太良氏が指摘しているように、中国本土のシャーマニズムとの比較が脱け落ちているせいだった。東アジア地域のシャーマニズム(シベリア・満州・韓国本土・日本・沖縄)との比較を唱い行いながら、中国のそれとの比較がなされていなければ、パズルの一片それも大きな一片を欠落させていることになる。それを平気で上梓する理由と神経がとても解らないので、なかなか読み進められなかったのであった。
 そのうえ結論として、“北方のシャーマニズムが流入して基本的な枠がつくられ、南方の信仰的要素の一部が流入・習合して形成されたのが済州島ないし韓国の巫俗である”(要旨)と言われても、納得できるはずもない。
 前出大林太良氏は、やはり「序」で、この結論を紹介しているが、これは基本的に正しいと思うが作業仮説である、とさりげなく断っている。一個の大部の著作の結論が作業仮説というのはどういうことであろう。研究というのは作業仮説を検証あるいは立証する過程であろう。大林氏のこの言は、史料および現場の調査報告としては別として、研究書としては無意味無価値といっているに等しい。
 ただ、興味深かったのは、済州島および韓国本土のシャーマニズムのフィールドワーク結果として、同島と本土のそれは、他地域と対象比較した場合、基本的な性質において差異は認められないとしている点である。
 
(第一書房 1985年7月)

金奉鉉 『済州島流人伝』

2012年02月17日 | 地域研究
 奥付では1981年9月出版、「まえがき」もそうなっているが(同年1月)、「あとがきにかえて」では1956年1月の日付になっている。(?)
 まさに書名通りの内容。済州島は、歴代朝廷での政争に敗れたあるいは党禍に巻き込まれた士人たちの流刑の島だった。
 以下は、泉靖一『済州島』(2011年12月07日)の続きになるが、『東史会綱』という史書に、「済州は元人の子孫多し」の記述ありという指摘。
 同島へのモンゴル人の入植は、元時代だけでなく、元の滅亡後にも続いている。明太祖によって雲南の梁王の一統がこの島に移住させられているのがその一例。
 
(国書刊行会 1981年9月)