書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

王柯 『東トルキスタン共和国研究』 から

2009年11月28日 | 抜き書き
 一九三〇年代に「ウイグル」という民族名ができあがる以前、ウイグル人には統一した民族名はなかった。十八世紀半ば、清朝が新疆南部を占領した当時、現地の住民はすべてイスラム教徒であったために「回子」と呼ばれていた。その後、中国内部のイスラム教徒と区別するために、ターバンで頭を包んでいたウイグル人は「纏頭回」もしくは「纏回」と呼ばれていた。 (「第二章 反日・親ソ路線の表と裏」注(76) 本書55頁)

 「回」とはイスラム教徒のことである。子は一種の指小辞で、意味はない。つまり「回子(フイズ)」は「イスラム教徒」というだけの意味である。「纏頭回」「纏回」は、「頭に布を巻き付けているイスラム教徒」である。ちなみに「纏頭」になると、「頭に布を巻き付けているヤツ」になる。侮蔑語に近かろう。
 それにしても、「一九三〇年代に『ウイグル』という民族名ができあがる以前、ウイグル人には統一した民族名はなかった」といいながら、その舌の根も乾かぬうちから「ターバンで頭を包んでいたウイグル人は」とは、著者はここにおいて少々不注意ではなかったか。

(東京大学出版会 1995年12月初版 1999年8月第2刷)

佐口透 「19世紀中央アジアの変容」 から

2009年11月28日 | 抜き書き
 ロシアのイリ占領に対して強硬な態度をとり、新疆再征服を達成した左宗棠は太平天国革命の抑圧者であったにも拘わらず、「イギリス帝国主義とその手先」ヤクーブ・ベクを滅ぼした功績者として、現代中国の史学者の一部から高く評価されている。しかし、左宗棠は別の観点から見れば、新疆の少数民族ウイグル人を中国支配のもとに屈服させ、新疆の中国植民地化に決定的な役割を演じた人物であるともいえよう。
(「2 清朝の東トルキスタン再征服 二 イリ問題」 本書271頁)

 コメント1. ヤークーブ・ベクは「イギリス帝国主義」の「手先」ではない。少なくともその主張を支える証拠はいまだに見つかっていない。ラビア・カーディル氏を「東トルキスタン・テロリスト勢力の一員」とし、2009年7月5日のウイグル騒乱を、同氏と世界ウイグル会議の手先の煽動によるものとするのと、同じくらい無根拠で無意味(問題の分析にも解決にもまったく役に立たないという意味で)である。
 コメント2. 左宗棠はヤークーブ・ベクを倒し、それまで藩部(保護領)であった新疆を省として清王朝の内地同然の直轄支配下に置かせた。これは確かである。しかしこれが中国の植民地化したことになるかどうかは立場によって異なるだろう。清朝は満洲族の王朝だから漢族の居住する内地(すなわちいわゆる中国)がすもそもすでに植民地である。だがもっとも重要なことは、当時はウイグル族というものは名称もなければ実体もなかったことだ。存在しないものを屈服させることはできない。
 当時存在したのは、“自分はムスリムである”という自己認識をもった、オアシスごとに分かれて住み、「~~人」と住むオアシスの名を冠して自他ともに呼びあう、土地ごとにすこしづつ異なるテュルク語を話す人々の集まりであった。彼らの目には東西トルキスタンの区別などなかったはずである。ヤークーブ・ベクがそうであったように。

 一三年間にわたるヤクーブ・ベク国家はどのような歴史的意義を帯びていたであろうか。〔略〕すなわち、それはカシュガル・ホージャ家の権威を最初は利用したイスラム・トルコ族の反満運動であり、民族運動でもあったことであり、〔略〕 (「2 清朝の東トルキスタン再征服 一 ヤクーブ・ベク国家の崩壊」 本書268頁)

 ヤークーブ・ベクは、西トルキスタンからやってきた。
 
(荒松雄ほか編『岩波講座世界歴史』 21 「近代 8 近代世界の展開 V」、岩波書店 1971年8月、第7章)

Andy Chang 「台湾人の独立宣言」 から

2009年11月28日 | 抜き書き
▲「AC論説」No.300(2009/11/27)。  (部分)
 〈http://www.melma.com/backnumber_53999_4686091/

 2009年11月24日「Andy Chang 『ロサンジェルスの『台湾人生』上映会の感想』 から」より続き。

 林志昇はアメリカが台湾の暫定占領権をもつ、日本は台湾人民を保護する義務があると主張する。しかし林志昇の主張は外国に対しいろいろ要求しているのであって、台湾人の独立声明ではない。外国がやるべきだ、外国は台湾人に対する義務や責任があると言いながら独立宣言をしない。これもまた依頼心の表れである。  (「台湾人の主張と意思」)

 これが、この人個人の林志昇氏の行き方に対する本音か。

「Time for action」 から

2009年11月28日 | 抜き書き
▲「Economist.com」Nov 27th 2009 | TOKYO。 (部分)
 〈http://www.economist.com/businessfinance/displayStory.cfm?story_id=14996669&source=features_box1

  Fears of a renewed bout of financial turbulence caused by Dubai World’s debt standstill this week drove the yen to a 14-year high against the dollar on Friday November 27th, its strength exacerbated by thinly traded markets because of America’s Thanksgiving holiday. The rally, which coincided with a slump in Japanese and other Asian stockmarkets, as well as a decline in most of the other widely traded currencies, forced Japan’s new government to convene to discuss its impact on the economy and, possibly, to reconsider its non-intervention line. (太字は引用者)

  Intervention to weaken the yen would carry a cost in terms of irritating Japan’s main trading partners. As Mr Fujii has noted, currency interventions can quickly lead to a round of competitive devaluations. But if he does raise the issue with his G7 counterparts, which he should, he should also stress the price impact of an excessively strong yen. If Japan were to fall into a deflationary trap, it would not suffer alone. Markets might quickly worry that over-indebted, slow-growing economies such as those of America and Britain were headed in the same direction. (太字は引用者)

 Don't worry, be happy.

司馬遼太郎 『歴史の舞台 文明のさまざま』

2009年11月27日 | その他
 私は、一九七七年の西域ゆきのときは、ウルムチでもイリでも、会うひとごとに、
「ダフール人を知らないか」
 と、たずねびとをさがすようにきいてまわった。
 この極端に少数な同言語集団については、漢字表記で達呼爾(ダフール)などと書く。清朝のころ満洲の黒竜江のほとりで原始的な農業狩猟で食っていた部族である。ついに――つまりは私のしつこさ――に、イリの宿のほとりで、酔ったカザフ系の役人(幹部)から、
「私はダフール人を見たことがある。あなたに似た顔の連中だ」
 と、からかわれるまでになった。ダフールは少数でもあり、貧しくもあって、この天山北路でも決して尊敬されていないということが、その役人の表情や言葉のにおいから察せられた。 (「イリ十日記」 本書74頁)

 日中友好日中友好の1977年ないしこのエッセイの発表された1981年の時点で、控えめな筆致ながら中国の兄弟民族間に差別が存在することを指摘したところは、やはりさすがと言わざるを得ない。世のいわゆる中国研究者のなかには、1976年どころか1989年まで「中国には蝿はいない」式の迷妄から醒めなかった人がいることを思えば、これは凄いことである。天安門事件のあと、「ボクはもう学生たちに中国を教えられない」と、同僚に暮夜泣きながら電話をかけた大学教授がいた。
 ちなみにダフール人(またはダウール人・達斡爾族)は、近年、DNA調査の結果、契丹族の末裔であることが明らかになったという。最近知って、驚いた。これも最近知ったことだが、普通満洲族(女真族)の一派とされる(現在の中国では別の民族とされているが)シボ族は、自分たちの祖先は鮮卑であると、彼らの間では言い伝えているという。ますます驚く。彼らに会ってみたいものである。

(中央公論社 1984年3月 中公文庫版 1986年11月初版 1991年1月4版)

「【中国ブログ】中国に変化の兆し『抗日戦争の日本軍人が人間らしく』」 から

2009年11月27日 | 抜き書き
▲「Searchina 中国情報局」 2009/11/26(木) 20:56、編集担当:畠山栄。 (部分)
 〈http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1126&f=national_1126_036.shtml

 抗日戦争を扱ったドラマや映画に出てくる日本人像に変化があっただけでなく、近年、中国の中央電視台(中国の国営テレビ)では、客観的な角度で『現在の日本』を紹介する番組が放送されはじめ、日本に対する扱いそのものにも変化が見られるという。

 だから最近はそういうことですよ、いろいろな意味で。

『Discoveries on the Turkic Linguistic Map』

2009年11月27日 | 人文科学
 Lars Johanson 著。
 〈http://turkoloji.cu.edu.tr/DILBILIM/johanson_01.pdf

 'Eastern Turki dialects'(東テュルク語諸方言)または'dialects of Eastern Turkistan'(東トルキスタンの諸方言)という言葉遣いがなされており、ウイグル語(the Uyghur language)という言葉はあまり使われていない。現代ウイグル語(modern Uyghur)は、東テュルク語(Eastern Turki)の後身であるという。
 トゥルファン方言には、古代ウイグル語の音素、語彙、形態変化が見られるという。
 とすれば、すくなくともトゥルファン周辺の現在ウイグル人とされる人々に関しては、いにしえのウイグル族の真の末裔である可能性があるということになる。トゥルファンは天山ウイグル王国(11-13世紀)の都が置かれた場所である。

  The Turfan oasis is the most important old center of Eastern Turkistan. The ruins of the cultural center of the West Uyghur Empire established here can still be seen at the Yarkhoto and Iduqut shähri sites. The local Uyghur variety spoken in the area of Turfan is of special interest, displaying some important features in phonology, lexicon and morphology. It has preserved numerous Old Uyghur words, e.g. some unique words not used in other dialects. With the wave of Islamization following the collapse of the Yuan dynasty, the Turkic language of Eastern Turkistan was probably strongly influenced by the Karluk varieties used in the Karakhanid kingdom. Although the development of the spoken language is largely unknown, there are some documents that are thought to mirror certain stages from the fõfteenth century on.  (「The Turfan dialect」)

 エイヌについても項目が立てられている。

  The Eynu may be compared with various .Abdal. groups in Uzbekistan, Afghanistan, Iran and Turkey, formerly nomadic groups which combine a local Turkic morphosyntax with a vocabulary that is partly of Persian and partly of unknown origin (Tietze & Ladstätter 1994). (「Eynu」)

 東西トルキスタンのオアシス社会では、後来の遊牧民は差別されたものらしい。「アブダル」とは彼らのことだった。

(SVENSKA FORSKNINGSINSTITUTET I ISTANBUL, Stockholm, 2001)

「エイヌ」について

2009年11月27日 | 思考の断片
 新疆ウイグル自治区に居住するウイグル人のなかには、「エイヌ(Äynu)」という名の被差別民がいるという。
 クチャ、カシュガル、ヤルカンド、ホータン、カラカシュ、ロプ、ケリエ、チェリエなど、タクラマカン砂漠周辺の都市部に居住しているが、一般の住民とは離れて、町はずれに彼らだけの集落を作って住んでいるらしい。彼らの伝統的な職業は乞食および割礼者であった。現在では農業や商業に従事しているが(注1)、彼らはこんにちでも「割礼者のカースト」と呼ばれている(注2)。人口は自治区全体で三千(注3)とも、一万(注4)とも、あるいは三万(注5)ともいわれる。宗教はイスラム教で、新疆ウイグル自治区のムスリムが大抵そうであるようにスンナ派とされる(注6)が、シーア派という資料もある(注7)。
 研究者の説くところによれば、彼らはもとはテュルク系ではなくペルシア系で、数百年前にペルシアからこの地へやってきて定住した遊牧民の子孫であるという。例えば彼らの話す言語は、他のオアシス住民(ウイグル人)のものとは異なり、文法・音素はウイグル語だが、語彙はペルシア語のそれであることがその論拠とされる。研究者によっては、ペルシア語に分類する人もいる。
 彼らの話す言葉は彼ら自身以外、誰にも理解できない。よって彼らは例外なく家庭もしくは集落内でのみ使われる自身の言語と、そこを一歩出ると使用することになるウイグル語との二重言語生活者である。しかしながら、彼らが独自の語彙を用いるのは外部の者に会話の内容を知られたくない時だけであり、また、この言葉は主に男性同士で用い、女性はこの語彙をあまり知らないようだという調査結果もある(注8)。
 一般のウイグル人やそのほかの民族からは、彼らは「アブダル」と呼ばれている。これは非常に侮蔑的な呼称で、彼ら自身は決してこの名で自らを呼ばない(注9)。
 中国政府は彼らをウイグル族として分類し、独立の民族としては扱っていない。

注1 『ウィキペディア』「エイヌ語」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E
注2 『Äynu profile from Christian organization Asia Harvest』 (http://www.asiaharvest.org/pages/profiles/china/chinaPeoples/A/Ainu.pdf)
注3 林徹「エイヌ語彙の言語学的特徴」(周縁チュルク国際コロキアム(1999年12月20日)) (http://www.gengo.l.u-tokyo.ac.jp/hayasi/PeriTurk/peri.html
注4 『Äynu profile from Christian organization Asia Harvest』 (http://www.asiaharvest.org/pages/profiles/china/chinaPeoples/A/Ainu.pdf
注5 『Wikipedia』「Äynu people」 (http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%84ynu_people
注6 『Äynu profile from Christian organization Asia Harvest』 (http://www.asiaharvest.org/pages/profiles/china/chinaPeoples/A/Ainu.pdf)
注7 『Wikipedia』「Äynu people」 (http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%84ynu_people
注8 林徹「エイヌ語彙の言語学的特徴」(周縁チュルク国際コロキアム(1999年12月20日)) (http://www.gengo.l.u-tokyo.ac.jp/hayasi/PeriTurk/peri.html
注9 林徹「エイヌ語彙の言語学的特徴」(周縁チュルク国際コロキアム(1999年12月20日)) (http://www.gengo.l.u-tokyo.ac.jp/hayasi/PeriTurk/peri.html

大石真一郎 「テュルク語定期刊行物における民族名称『ウイグル』の出現と定着」 ②

2009年11月26日 | 東洋史
 〈http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/89/contents-49.pdf

 前日より続く。

 一方、中国側でも1935 年に「ウイグル」が採用されるが、その対象はカシュガルを含むタリム盆地周辺のオアシス住民であり、イリ地方のタランチは含まれていなかった。中国側でタランチをウイグルとみなすようになるのは1945年の解放後のことである。

 その理由について、いま理由をつまびらかにしないが、ただこれには、「ウイグル」の民族名を提唱――というより「ウイグル」という名の新たな民族の創出およびそれによる新疆オアシス定住民の一体化を提唱――したのがソ連側のムスリムであり、しかも清の支配から逃亡したタランチであったこと(ムスリム反乱に加担していたタランチには反乱の収束後、清政府の報復を懼れてロシア側のセミレチエ地方へと逃れた者が多かった。「ウイグルの子」ナザル・ホジャも、たぶん本人あるいは親がその一人であったろうと思われる)と、何か関係があるのかもしれない。
 当時の新疆省の支配者だった盛世才は、ソ連の人的・物的な援助を惜しみなく受け入れたが、内心はソ連が新疆を中国から独立させて外モンゴルのように自国の付属国にしようとしていると疑っており、ソ連寄りの内部集団(とくに少数民族関係)を、「日本帝国主義のスパイ」「トロツキスト」といった罪名で密かに逮捕・粛清していた。
 だが、ここにおいて、政治的思惑とともに「漢族」だけでなく「サルト」からも「タランチ」に対して向けられた差別の目を感じるのは私の勘ぐりすぎであろうか。とくに1935年の時点において。
 
(『東欧・中央ユーラシアの近代とネイションⅡ』 スラブ研究センター研究報告シリーズ No.89(2003.3.20)、第5章)

「ダライ・ラマ法王2009年来日レポート」 から

2009年11月26日 | 抜き書き
▲「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」2009年11月、(訳:熊谷惠雲)。 (部分)
 〈http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2009japan/report/index.html

 法王は日本滞在6日目の朝、海の前でゆらめく永遠の火の前に立った。周囲には一連の壁が光を反射して立ち、第二次世界大戦中、この島で命を落とした 24万人の名前が刻まれていた。その日、法王は何度も、アメリカ人やイギリス人の兵士の名が日本人とともに壁に刻まれていることを称賛した。なぜなら、彼らもまた、日本人と同じように苦しんだ一人の人間だったからだ。

 この合葬の理由について、日本には御霊信仰があって、非業な死を遂げた死者は祀らないと祟りをなすから、日本人はそれを恐れて敵を丁重に弔うのだと断言する、一知半解で、まるで林治波氏のように脳内な中国人が、そういえばいたな。自分の物差しで他人を計るべきではない。そういう人間は、自分の物差し以外に物差しがあること自体、そもそも理解できないのかもしれないが。

 沖縄平和祈念公園に集まった聴衆の輪の前で、法王はこう語った。
「人間の歴史の中には、利害の不一致は暴力や戦争によって解決できるという信念のようなものがありました。しかし20世紀の後半、ベルリンの壁は、暴力ではなく民衆の平和的運動によって崩壊しました」。それに、暴力による方法は、常に予測できない結果を招くものである。法王はさらに、「日本は、核爆弾による苦しみを受けた唯一の国として、過去の大きな苦しみを踏まえ、平和運動の先頭に立つべきです」と語った。 

 事に処するにはよろしく現実主義者たらざるべからず。しかしなおかつ理想を忘るる勿れ。

(「2009年11月5日:沖縄訪問レポート」)