書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

藪内清訳注 『墨子』

2013年06月20日 | 東洋史
 再読。大学の講義中、中国の論理について訊ねられて答えたのだが、その場に『墨子』がなかったので、帰ってきてあらためて調べた。孫詒譲の『墨子間詁』を看、ついでこの訳注を見る。
 墨家の論理学が説かれているとされるのは「経篇」「経説篇」(正確にはそれぞれ上下に分かれる)だが、藪内先生の訳を見ても解らない。論理学と言うが、個別の用語の定義(とされるもの)が並んでいるだけで、背後にある筈の体系が掴めない。突如凹凸鏡の原理が出てくるところなど意図が全然不明である。文脈というものがないのである。
 本当にこれは用語の定義なのか。そして凹凸鏡の原理の話なのか。
 孫詒譲の『墨子間詁』を読んでも、この二篇は、全く解らない。
 孫の注釈が原文からかけ離れて飛躍がありすぎるからである。そしてその論拠は薄弱である。根拠として自身が挙げる他の用例も、判断材料として引かれる諸家の説も同様である。
 これは本当に論理学の内容なのだろうかとさえ思える。
 孫は自分の問題意識と目的とへ、『墨子』の「経篇」「経説篇」を、無理矢理引きつけて解釈していないか。西洋の形式論理学を初めとする科学が、わが中国にも本来あったのだ、だからわが国人よ自信を持てと主張するために。
 そもそも漢時代以降、墨子の学は衰滅し、その経典としての『墨子』も顧みられなくなり、読まれなくなるとともに、かろうじて筆写されて伝わっていたテキストには、次第に錯簡脱落が生じてゆき、清時代に考証学が興隆してまた『墨子』が史料として研究対象となった時には、文章の混乱が著しくなっていた。この二篇は、とくにその弊が甚だしく、最初はとうてい読めない状態だった。それを幾人かの先人の考証を経て、孫がそれを集大成したのだが、彼は、これはもと上下二段に分かち書きされていたものを、後生の筆写の際に誤って上段行から下段行へ続けてしまったためだとして、全文の語順を総入替した。
 さらにその際、自分の判断で内容を幾つもの段落に分割した。ついで、本来別章として独立していた「経説篇」を、これも同じように大幅に再編成の上、「経篇」の解説文だとして、これも自分の判断で、寸断して「経篇」の各段落の後に配した。この過程で既に、先に触れた自身の先入主による恣意が入りこんではいなかったか。
 ちなみに、大正時代に出た有朋堂文庫の塚本哲三編『墨子』は、「解題」(小柳司気太)において『墨子間詁』の名を挙げながら、「難解」という理由で、本文中の「経篇」「経説篇」では編者による訓点を施した原文だけで、他の篇のような訓み下し文や注釈は一切付さない。孫の解釈を信用していなかったのではないか。

(平凡社 1996年4月)


2 コメント

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Unknown (大磐利男)
2013-06-20 21:49:41
孫詒譲の『墨子間詁』よりも、呉毓江の『墨子校注』(新編諸子集成にはいっています)のほうが、校訂や錯簡脱落の処理をうまくやっている気がします。今見るといろいろいたらぬ点がありますが(『群書治要』をつかうのはいいけど『四部叢刊』とおなじ尾張本をつかっているとか)、間詁に比べるとかなり改善されている所も多いです。『墨子校注』は、ほんとうは、墨子集成本所収の油印刷板と作者が死ぬまで手を入れていた原稿を整理した 西南師範大學出版本を見比べながら読むのがいいのですが、西南師範大學出版本はいまはちょっと手に入りませんね。『墨子校注』でも「経篇」「経説篇」は分かるかと言えば依然として分からないのですけどね…
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Unknown (Joseph)
2013-06-21 00:14:10
ご教示ありがとうございます。呉毓江の『墨子校注』、さっそく看てみます。
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