書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Geoffrey Ernest Richard Lloyd, "Demystifying Mentalities"

2016年04月30日 | 人文科学
 出版社による紹介

 古代ギリシャにおいて、主張にはかならずそれを裏付ける証拠、また議論(および他者の説得と第三者による判定)においては客観的証明という過程が必要であることが明確な概念として認識されたのは紀元前 5-4世紀の由。それ以前の古代エジプトやバビロニアのたとえば数学においても証拠の提示や証明は見られるが、それはいまだ十分に意識的に行われていたとはいいがたいという。この点に関して、アリストテレスは発明者ではなく、それまでの無自覚あるいは半自覚的な習慣を自覚的に概念化して人間の知性活動のなかに位置付けた存在であって、いわば祖述者と見るのが正しいらしい。('3. The conception and practice of proof', pp. 73-97)

(UK: Cambridge University Press, 1990)

梶山智史 「北魏における墓誌銘の出現」

2016年04月30日 | 抜き書き
 『駿台史学』157、2016年3月掲載、同誌23-46頁。

 本稿で明らかにしたことをまとめると、以下の通りである。
〔①②略〕
③南朝墓誌銘の体例を北魏に伝えた者の一人として、王粛が想定される。493年に南斉から北魏に亡命した王粛は劉宋の王球の孫であり、その一族には墓誌銘の元祖たる顔延之撰「王球墓誌銘」に関する情報が継承されていたとみられる。
④王粛と孝文帝の密接な関係、および王粛が孝文帝の改革に大きく貢献したことを勘案すると、王粛が孝文帝に墓誌銘の体例を教えた可能性が考えられる。
  以上により、北魏における墓誌銘の出現をめぐる実情の一端を明らかにしたと思われるが、しかしまだ考察すべき問題は多い。
 (「結語」、42頁)


余英時 『方以智晩節考』

2016年04月30日 | 東洋史
 方以智の「物理」観(倫理原則と切り離して完全に自然法則として捉えている)の由来について、西洋の学術の刺激によるのか、それとも宋明以来の理学と中国の伝統科学の自律的発展の結果であるのかという問いを自ら立てながら、結局、「これは極めて複雑な理論的問題である(此是一極複雑之理論問題)」として(?)、自身の解答を出していない(「三、晩年思想管窺」84頁)。見ようによっては避けているようにもみえる。

(香港 新亜研究所 1972年9月初版、繁体字)

Jean Aitchison, "Teach Yourself Linguistics (2nd ed.)"

2016年04月30日 | 人文科学
 チョムスキーの主張は生成文法および普遍文法の旗手としてほぼ一章が割かれているが、サピアはギリシア語・ラテン語を最高級としその他の言語を崩れて劣ったものとみなす従来の言語学説を批判したという点だけが数行で言及されるにすぎない(p. 65)。ウォーフにいたっては名すら出てこない。すごい概説書だ。

(UK: Hodder and Stoughton, 1978)

今西春秋 「明季三代起居注考」

2016年04月25日 | 東洋史
 田村実造編『明代満蒙史研究』(京都大学文学部 1963年10月)、同書587-662頁。

 その論題に拘わらず、歴代起居注の沿革から説き起こす内容である(大部なのはこのためもある)。
 文中、起居注では日付は数目日次と干支とを併記することをその特色としてあげる。

 実録でも正史でも、その他中国の書物は殆ど皆といつてもいいことだが、干支だけで日付を記入する。 (623頁、原文旧漢字、以下同じ)

 その理由として、筆者は、「年次を数えるには、改元の多い年号数字を用いるよりは、干支による方が正確でもあり便利である」が、「しかし日次となると、干支は吉凶の占いに役立つくらいで、実生活の上には使っておれるものではない」からだとし、その非実用性の証として、「起居注が到る処で日子の干支を誤つているのは、史館などでも日常普段には干支などを用いていなかった証拠である」と、主張する(623-624頁)。

 また詔勅や上奏などを記録の主体とする起居注が数目日次を採つているのに不思議はない。詔勅や上奏などはすべて数目日付になっている。 (624頁)

 つまり、起居注は実録や正史とは文体的にことなる(=詔勅や上奏とおなじ)形式と、その背景となる思想的原理によって、動いているわけである。
 筆者は通常的理解にそって、起居注を実録の資料、そして実録は正史の資料と、捉えておられるのだが、実録―正史の関係はさておき、起居注―実録の関係は、一直線にそう言えるものか、この点から再考に値するかもしれない。
 

嶋田さな絵 「東晋南朝における山水観の展開」

2016年04月20日 | 東洋史
 『中央大学アジア史研究』40、2016年3月掲載、同誌31-59頁。

 従来は、「山の水」「山と水」という自然状態を示す語であった「山水」の語が、南朝になると「山と水のある風景と、その趣き」という、今日いう風景(landscape or scenery)の意味を持つようになるのである。
 (「おわりに」、47頁)

 当時の「山」と「水」は、どういうものとして捉えられていたのだろう。またここで使われる「自然状態」という形容の「自然」は、当時においては、具体的にはどのような内容であったのだろう。
 古代漢語の「自然」の意味はこんにちのそれ(nature, natural)とは異なる。この議論は、こんにち言うところのnatureの概念が当時の中国に存在したということが、前提になっている。

神学 - Wikipedia

2016年04月13日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%A6

 神学(しんがく、英語:theology、ドイツ語:Theologie、ラテン語:theologia)は、信仰を前提とした上で、神をはじめとする宗教概念についての理論的考察を行う学問である。

 方法論的には哲学とほぼ同一であり、哲学の部門視されることもある。しかし神学は理性によっては演繹不可能な信仰の保持および神の存在を前提とすることで、一切の思想的前提を立てない理性の学としての哲学とは異なるとする見方が一般的である。このような立場に立つ思想家の例としてトマス・アクィナスなどが挙げられる。

籾山明 「爵制論の再検討」

2016年04月13日 | 東洋史
 『秦漢出土文字史料の研究』(創文社 2015年12月)の「付篇 第10章」。

 完膚なきまでの西嶋説の問題点の指摘と全否定とがある。具体的には同書378頁からその前後にかけて。
 かの西嶋定生氏の説は、少なくとも秦漢に関してはトンデモだろう。件の「中国古代帝国形成の一考察 漢の高祖とその功臣」だけでなく、その後の二十等爵制(=個別人身支配)をも含めて。前提となる民爵授与の例が典型的でない(その典型的例であることの論証がなされていない)点で、論として成立していない。