書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ワリス・ノカン著 中村ふじゑ他訳 『台湾原住民文学選 3 永遠の山地』 

2005年03月31日 | 文学
 著者はタイヤル族。
 この人は凄い文学者だ。なかでも「霧社(一八九二~一九三一)」という詩には衝撃を受けた。差別・迫害される少数民族の精神史としてこれほどまで心を刺す作品は、他に回族ジャフリーヤ派の苦難の歴史を内側から綴る張承志『心霊史』(中国、花城出版社、1991年)しか知らない。原文で読みたい。

(草風館 2003年11月)

熊月之著 依田憙家訳 『中国近代民主思想史』 

2005年03月30日 | 東洋史
 無かったということは分かる。しかし、その理由としてあげている内容については今月25日欄杜石然ほか編著『中国科学技術史』上下の末尾に記した感想と同じ。本気でこんなことを書いているのなら、体制ではなく精神としての民主主義がなぜ中国で発展しなかったかなど、永久に解らないだろう。

(信毎書籍出版センター  1992年3月)

田中浩 『イギリス思想叢書 3 ホッブズ』 

2005年03月30日 | 政治
 そもそも民主主義とは何なのか。

 板倉聖宣『原子論の歴史』下において、ホッブズの国家論はエピクロスの原子論を適用したものだという主張のくだりがある(第10章「ガリレオの時代と原子論」 53-55頁。なお『原子論の歴史』については「東瀛書評」2004年10月6日欄参照)。

“西欧でも,ホッブス以前は〈一人の人間〉を中心において政治を考えることがなかったのに,彼はその〈人間=個人〉を中心にして国家を考えるようになったというのです。(略)ホッブスはエピクロスの原子論から,〈個人を中心に社会の問題を考え直す視点〉を得ていたのです” (『原子論の歴史』下 55頁)

 田中氏のこの本のあるくだりが、専門家の意見として引用されている(54頁)。板倉氏が引いた箇所を、前後を含めて田中氏の原書からあらためて引用してみる。

“都市国家の登場した(古代ギリシアの)時代には、ポリス(都市国家)と個人の利害は一致していたから、ポリスの生活と人間(個人)の生活とは一体のものであり、近代国家におけるほどに国家と個人の緊張関係は強く意識されなかったから、個人が全面に出てくることはなかった。(略)続く中世キリスト教社会においては、人間(個人)は、神の子として扱われ、そこには個人主義が生まれる基礎はなかった。そのため、古代ギリシア・ローマ、中世キリスト教世界において政治を考える最小単位は、アリストテレス・マキャベリ・ボダンの政治学をみてもわかるように、せいぜい家族どまりであり、人間や個人を基本単位として、人間社会の在り方を考えることはなかった。こうした政治的思考に根本的変革を与えたのが、ホッブズの政治思想であった。(略)ホッブズの政治論には、実は、重要な先行思想があった。ホッブズ自身はどこにも述べていないが、(略)ホッブズの政治学には古代ギリシア末期の、都市国家が危機状況にあった時代に、ストア派と並び称せられたエピクロスの強い影響がみられる。事実、エピクロスの政治思想を検討すると、そこには、「人間の本性」からはじまって、自然状態、自然権、自然法、(社会)契約、政治社会の成立に至る論理プロセスがみごとに展開されている。とすれば、ホッブズはエピクロスを剽窃した、と思うかも知れない。たしかに『リヴァイアサン』第一部の「人間論」の部分で、ホッブズはエピクロスの方法をそっくり、そのまま借用しているが、エピクロスとホッブズの生きた時代状況はまったく異なるから、もとより、エピクロスの政治思想とホッブズのそれとは明らかに内容的に異なる。この点については、ホッブズがキリスト教社会以前の世俗的ギリシア政治思想を用いることによって、中世的・封建的思想を近代的政治思想へと転換させた点をこそ重視すべきであろう” (94-95頁)

 ちなみに、ホッブズの国家論においては人間(個人)はそれぞれ生まれながらにして普遍的な判断能力(理性)を持つものと措定されている。

“ホッブズの言う理性とは、(略)人間が快適に安全に生きていくための最良の判断能力を言い、人間は生まれながらに、このような能力をもっているのである。そして、各人の最良の判断能力を集大成するところに、人類共通の普遍的価値が生まれるが、そのような基準やルールとなるものを、ホッブズは、理性の戒律すなわち自然法と呼び、人間は「この自然法の声〔すすめ〕」に従って、平和で安全な人工国家=「リヴァイアサン」を構築していくことになる、と述べている” (105頁)

 騎虎の勢いで、続きも書き抜いておく。

“したがって、ホッブズのいわゆる最良の判断能力としての理性とは、ギリシアのストア哲学に代表されるような、人間の外部にあって、人間がよりよい生活を享受するために準拠しなければならないとされる宇宙・自然の法則や道徳規範ではないし、中世キリスト教世界において支配的であった聖書の文言から聖職者が引用して人びとに与える権威主義的な宗教道徳の束や、大学の教授たちが古典書や聖書のなかからひきだした倫理基準のリストでもない” (105頁)

“そして、ホッブズによれば、こうした人間を主体とする感覚の生起が積み重なるなかで、経験が増大し、それが言葉や推論を通じて結び合わされ、次第により高度な知性や思考や理性(正しい判断能力)が形成されていくとされる” (107頁)

“(ホッブズの社会契約的コモン―ウェルス論は)基本的には、自己保存(自然権)を基礎にした理性の戒律(自然法)という普遍的価値・道徳を前提とする人間の結合体(力の合成)の創出を目指したものであった” (175-177頁)

 民主主義とは金科玉条として教えたりドグマとして信奉したりするものではなく、各自が自らの置かれた環境における自由で種々多様な経験の結果はぐくまれる、自分独自のものであると同時に普遍的な性質をも有する悟性や理性によって、途中紆余曲折はあってもいずれは選択される――あるいは選択されるはずの――価値ということである。
 そして、人間の平等とは、突き詰めれば生命の価値の平等だと言えはすまいか。

(研究社出版 1998年11月)

板倉聖宣 『社会の法則と民主主義 創造的に生きるための発想法』 

2005年03月28日 | 社会科学
●「最後の奴隷制としての多数決原理」から抜き書き。

 ・基本的人権は民主主義の原理に優先する。
 ・いかなる社会の法も、自然法に反してはならない。自然法はあらゆる法に優先する。
 ・「大多数の人々が支持し賛成したことでも間違いがあるし、それに従わなくてもいいことがある」という考え方をとらないといけない。
 ・多数決では真理は決まらない。
 ・つまり、民主主義で多数決で決めたことでも間違っていることがある。
 ・多数決とは、少数派を奴隷的な状態に置く決議法である。
 ・決議をするときは、少数派を奴隷にしなければならないほどに切実なことだけ決議すべきである。
 ・民主主義の絶対性を口にする人々は、少数派を奴隷状態に置くことに心の痛みを感じない多数派的奴隷主義者である。

●「人間の法則と社会の法則」から抜き書き。

 ・社会科学と人文科学との違いの基準の一つは、そこに統計的な法則が見出されるかどうかということに置くことができる。

(仮説社 1988年6月)

▲いつもご教示をいただく方から送っていただいた、板倉氏の「間接民主主義を見直す」(『たのしい授業』 仮説社 2004年12月号)をも合わせ読む。

 ・間接民主主義(代議制)は直接民主主義よりも優れた(あるいはましな)制度である。
 ・「世の中は善意の人が多いとよくなって悪意の人が多くなると悪くなる」という考え方はまちがっている。
 ・正義や善意を基に行動することは時として恐ろしい結果となる。きちんと勉強しないで自分の正義感や善意を振りかざす人が時として一番恐ろしい結果をもたらすことになるのである。
 ・政治は心のきれいな人=素人ではなく賢い人=専門家に任せなければならない。
 ・直接民主主義制の古代ギリシアが混乱に陥って専制君主制のマケドニアの支配を受けることになってしまった原因は、直接民主主義によって政策の決定だけでなく政策の提案まで専門知識のない一般市民が行っていたことにある。「人々の直感的な判断によって政治が動くために、専門的な議論や長期的な見通しよりも、言葉たくみな人の意見に従って政策が決められていくようになって、政治は混乱してしまったのです」。
 ・善意や悪意に関係ない“社会の法則”というものが存在していることを認識するのが一般人の務めであり、その“社会の法則”が何かをよく見極めたうえでそれに則した政治を行うのが“賢い政治家”の務めである。

桑原三郎 『福澤諭吉と桃太郎 明治の児童文化』 

2005年03月27日 | 日本史
 明治四(1871)年、36歳の福沢諭吉は、毎朝朝食後に8歳の長男一太郎と6歳の次男捨次郎を書斎へ呼び、毎日一箇条づつ、半紙に毛筆で書いた「ひゞのをしへ」を与え始めた。
 著者は、当時福沢を始めとする洋学者が攘夷派の暗殺対象になっていた状況から、「ひゞのをしへ」は福沢にとって子供たちへの遺書がわりだったのではないかと推測している。おそらくそうであろう。

“もゝたらふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにいくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたらふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたらふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゞさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり”  (「福澤諭吉と桃太郎」 10-11頁の引用から)

 深刻な成立事情を弁えていてもやはり笑ってしまう。「桃太郎盗人論」(桑原氏の命名)である。平易ではあるが極めて論理的な行文であるにもかかわらず、巧まざるユーモアに溢れている。
 これはもちろん著者も指摘するように、『学問のすゝめ 初編』の有名な「他人の妨を為さずして我一身の自由を達することなり、自由と我儘との界は、他人の妨を為すと為さざるとの間にあり」という、一身の独立とは何かを幼い子ども向けに言い換えた内容であることは言うまでもない。
 そしてこの話はまた、同じ『学問のすゝめ 七編』のこれも有名な「楠公権助論」とも思想の根底において通じている。

“元来文明とは、人の智徳を進め人々身躬から其身を支配して世間相交り、相害することもなく害せらるゝこともなく、各其権義を達して一般の安全繁昌を致すを云ふなり”

(慶應義塾出版会 1996年2月)

桑原三郎 『諭吉 小波 未明 明治の児童文学』 

2005年03月27日 | 文学
 収録されている「福澤諭吉と子供の本」によれば、福沢の児童向けの文章は、元来、幼い自分の子供たちのために書いたものだったらしい。「ひゞのをしへ」はまさしくそうであるが、『訓蒙窮理図解』『世界国尽』『童蒙教草』『文字之教』などもみなそうだという。これは最初から世間一般に読まれることを想定して執筆・出版されたものではあるけれども、『学問のすゝめ』でさえ“小学の教授本”、つまり子供向けだったことを知って驚く。

(慶應通信 1979年7月)

藤村道生 『日清戦争前後のアジア政策』 

2005年03月26日 | 日本史
 日清戦争が日本の国内においては軍国主義、対外的には帝国主義路線を決定したという主張。そうかもしれない。
 ところで、「明治初期における日清交渉の一断面(上)」(『名古屋大学文学部研究論集 史学』16、1968年3月、1-8頁)が収録されていないのはどういう訳だろう (「東瀛小評」欄2004年10月9日「『大東亜共栄圏』の起源に関わる一事実――リゼンドル『第四覚書』の存在―― 」参照)

(岩波書店 1995年2月)

丸山眞男 『「文明論之概略」を読む』 

2005年03月26日 | 政治
 『文明論之概略』の理解に役立ちそうでもあり、役立たなそうでもある。

“福沢の様にその方法論なり認識論なりを抽象的な形で提示することのきわめてまれな思想家の場合には、その意識的な主張だけでなく、しばしば彼の無意識の世界にまで踏み入って、暗々裡に彼が前提している価値構造を明るみに持ち来さねばならない” (「福沢諭吉の哲学」、『福沢諭吉の哲学 他六篇』所収、岩波書店、2004年5月第4刷、67頁)

 こんなことを平気で言う人のテキスト解釈をそのまま受け入れるのは無理である。

(『丸山眞男集』 13・14 岩波書店 1996年9・10月)