そもそも民主主義とは何なのか。
板倉聖宣『原子論の歴史』下において、ホッブズの国家論はエピクロスの原子論を適用したものだという主張のくだりがある(第10章「ガリレオの時代と原子論」 53-55頁。なお『原子論の歴史』については「東瀛書評」2004年10月6日欄参照)。
“西欧でも,ホッブス以前は〈一人の人間〉を中心において政治を考えることがなかったのに,彼はその〈人間=個人〉を中心にして国家を考えるようになったというのです。(略)ホッブスはエピクロスの原子論から,〈個人を中心に社会の問題を考え直す視点〉を得ていたのです” (『原子論の歴史』下 55頁)
田中氏のこの本のあるくだりが、専門家の意見として引用されている(54頁)。板倉氏が引いた箇所を、前後を含めて田中氏の原書からあらためて引用してみる。
“都市国家の登場した(古代ギリシアの)時代には、ポリス(都市国家)と個人の利害は一致していたから、ポリスの生活と人間(個人)の生活とは一体のものであり、近代国家におけるほどに国家と個人の緊張関係は強く意識されなかったから、個人が全面に出てくることはなかった。(略)続く中世キリスト教社会においては、人間(個人)は、神の子として扱われ、そこには個人主義が生まれる基礎はなかった。そのため、古代ギリシア・ローマ、中世キリスト教世界において政治を考える最小単位は、アリストテレス・マキャベリ・ボダンの政治学をみてもわかるように、せいぜい家族どまりであり、人間や個人を基本単位として、人間社会の在り方を考えることはなかった。こうした政治的思考に根本的変革を与えたのが、ホッブズの政治思想であった。(略)ホッブズの政治論には、実は、重要な先行思想があった。ホッブズ自身はどこにも述べていないが、(略)ホッブズの政治学には古代ギリシア末期の、都市国家が危機状況にあった時代に、ストア派と並び称せられたエピクロスの強い影響がみられる。事実、エピクロスの政治思想を検討すると、そこには、「人間の本性」からはじまって、自然状態、自然権、自然法、(社会)契約、政治社会の成立に至る論理プロセスがみごとに展開されている。とすれば、ホッブズはエピクロスを剽窃した、と思うかも知れない。たしかに『リヴァイアサン』第一部の「人間論」の部分で、ホッブズはエピクロスの方法をそっくり、そのまま借用しているが、エピクロスとホッブズの生きた時代状況はまったく異なるから、もとより、エピクロスの政治思想とホッブズのそれとは明らかに内容的に異なる。この点については、ホッブズがキリスト教社会以前の世俗的ギリシア政治思想を用いることによって、中世的・封建的思想を近代的政治思想へと転換させた点をこそ重視すべきであろう” (94-95頁)
ちなみに、ホッブズの国家論においては人間(個人)はそれぞれ生まれながらにして普遍的な判断能力(理性)を持つものと措定されている。
“ホッブズの言う理性とは、(略)人間が快適に安全に生きていくための最良の判断能力を言い、人間は生まれながらに、このような能力をもっているのである。そして、各人の最良の判断能力を集大成するところに、人類共通の普遍的価値が生まれるが、そのような基準やルールとなるものを、ホッブズは、理性の戒律すなわち自然法と呼び、人間は「この自然法の声〔すすめ〕」に従って、平和で安全な人工国家=「リヴァイアサン」を構築していくことになる、と述べている” (105頁)
騎虎の勢いで、続きも書き抜いておく。
“したがって、ホッブズのいわゆる最良の判断能力としての理性とは、ギリシアのストア哲学に代表されるような、人間の外部にあって、人間がよりよい生活を享受するために準拠しなければならないとされる宇宙・自然の法則や道徳規範ではないし、中世キリスト教世界において支配的であった聖書の文言から聖職者が引用して人びとに与える権威主義的な宗教道徳の束や、大学の教授たちが古典書や聖書のなかからひきだした倫理基準のリストでもない” (105頁)
“そして、ホッブズによれば、こうした人間を主体とする感覚の生起が積み重なるなかで、経験が増大し、それが言葉や推論を通じて結び合わされ、次第により高度な知性や思考や理性(正しい判断能力)が形成されていくとされる” (107頁)
“(ホッブズの社会契約的コモン―ウェルス論は)基本的には、自己保存(自然権)を基礎にした理性の戒律(自然法)という普遍的価値・道徳を前提とする人間の結合体(力の合成)の創出を目指したものであった” (175-177頁)
民主主義とは金科玉条として教えたりドグマとして信奉したりするものではなく、各自が自らの置かれた環境における自由で種々多様な経験の結果はぐくまれる、自分独自のものであると同時に普遍的な性質をも有する悟性や理性によって、途中紆余曲折はあってもいずれは選択される――あるいは選択されるはずの――価値ということである。
そして、人間の平等とは、突き詰めれば生命の価値の平等だと言えはすまいか。
(研究社出版 1998年11月)