この人の著書は、2005年06月23日『福沢諭吉の「科学のススメ」 日本で最初の科学入門書「訓蒙 窮理図解」を読む』以来2冊目。前作は理系の専門家が福澤の理系の著作(彼もまた多分に理系の才質があった)を読み解けばどうなるかと点で非常に興味深かったが、もっと驚いたのはその自由な発想であった。福澤は思想史や歴史の対象、つまり文系の範疇というような垣根論をまるで無視しているところに驚いたのである。しかし、考えてみれば当たり前のことで、内容が理系なのだから理系の人間が手を着け評価すべきものであった、最初から。
その著者の日本心性論であるが、日本人は論理的でないという主張には同意しかねる。結論が先にくるか後にくるか、あるいは相手との知識共有水準に合わせて主語はおろか言説を省略するというのは、あくまで結論や主語(主題でもいいが)やもともと筋道だった言説があるという前提もしくは共通項があるということだ。すなわち形式論理の範疇の内である。非論理的(つまり形式論理が存在しない)というのは、例えば中国の愛国者はおろか政府スポークスマンでさえが口にする発言のことだ。理解不能である。何回もいうが、彼らの思惟には演繹はまったく存在せず、帰納はきわめて不十分な状態でしか存在しない。そして倫理規範と自然法則の区別がついていない。
(祥伝社 2012年12月)
その著者の日本心性論であるが、日本人は論理的でないという主張には同意しかねる。結論が先にくるか後にくるか、あるいは相手との知識共有水準に合わせて主語はおろか言説を省略するというのは、あくまで結論や主語(主題でもいいが)やもともと筋道だった言説があるという前提もしくは共通項があるということだ。すなわち形式論理の範疇の内である。非論理的(つまり形式論理が存在しない)というのは、例えば中国の愛国者はおろか政府スポークスマンでさえが口にする発言のことだ。理解不能である。何回もいうが、彼らの思惟には演繹はまったく存在せず、帰納はきわめて不十分な状態でしか存在しない。そして倫理規範と自然法則の区別がついていない。
(祥伝社 2012年12月)