書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

桜井邦朋 『日本人の知的風土』

2013年02月28日 | その他
 この人の著書は、2005年06月23日『福沢諭吉の「科学のススメ」 日本で最初の科学入門書「訓蒙 窮理図解」を読む』以来2冊目。前作は理系の専門家が福澤の理系の著作(彼もまた多分に理系の才質があった)を読み解けばどうなるかと点で非常に興味深かったが、もっと驚いたのはその自由な発想であった。福澤は思想史や歴史の対象、つまり文系の範疇というような垣根論をまるで無視しているところに驚いたのである。しかし、考えてみれば当たり前のことで、内容が理系なのだから理系の人間が手を着け評価すべきものであった、最初から。
 その著者の日本心性論であるが、日本人は論理的でないという主張には同意しかねる。結論が先にくるか後にくるか、あるいは相手との知識共有水準に合わせて主語はおろか言説を省略するというのは、あくまで結論や主語(主題でもいいが)やもともと筋道だった言説があるという前提もしくは共通項があるということだ。すなわち形式論理の範疇の内である。非論理的(つまり形式論理が存在しない)というのは、例えば中国の愛国者はおろか政府スポークスマンでさえが口にする発言のことだ。理解不能である。何回もいうが、彼らの思惟には演繹はまったく存在せず、帰納はきわめて不十分な状態でしか存在しない。そして倫理規範と自然法則の区別がついていない。

(祥伝社 2012年12月)

浅羽祐樹/木村幹/佐藤大介 『徹底検証 韓国論の通説・俗説 日韓対立の感情vs.論理』

2013年02月26日 | 地域研究
 全部(全員)が、というわけではないが、概してハルバースタム『ベスト・アンド・ブライテスト』に出てくるマクナマラのベトナム分析を聴かされているような感じ。テクニカルで平板な印象がずっと基調音としてある。

(中央公論新社 2012年12月)

瀧遼一著 増山賢治解説 『中国音楽再発見 歴史篇』

2013年02月26日 | 東洋史
 録音などむろん残っていないし、楽譜も中世から近世以降は別として古い時代のものは残っていないから仕方がないといえば仕方がないのだが、音階の時代的変遷ばかりでメロディについてはほとんど、リズムのことにはまったく触れないのはいかにも奇妙。判らないなら判らないと一言断ればよかろうと思うが如何。我が国の雅楽は今より昔のほうがテンポが速かったというが、いまより速かったのか遅かったのか、時代により遅速があったのか。私はそれが知りたい。

(第一書房 1992年6月)

原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜』

2013年02月25日 | 東洋史
 もとになった『中山世鑑』同様、源為朝の日本脱出・琉球到着までは日本の元号で年代表記が為されている。巻四の尚清王紀までは、『中山世鑑』の漢文訳とみて良いらしい。なお尚氏の姓である尚は第一尚氏の尚巴志に始まるが、これは明から賜ったものではなく、尚巴志が自ら名乗ったものの由。しかも原田氏によれば、本当は姓ですらなく、「尚巴志」全部で名(童名=沖縄人固有の名、サバチもしくはサハチに漢字を当てたもの)とのこと(巻之三 本書95頁注(1)および同96頁注(8))。
 なお琉薩また琉日関係については、別巻(附巻)を立てて正巻から分離してあるのは『球陽』と同じ。漢文で書かれたということは、中国向けだったのだから当然である。冊封使には正巻だけを見せたのだろう。

(榕樹書林 1998年8月)

桓寛撰 王利器校注 『塩鉄論校注(増訂本)』

2013年02月25日 | 東洋史
 議論そのものだけを読めば政府側の圧勝の筈なのに、「大夫(桑弘羊)黙して応えず」とか政府側が論破されたかのような、いらぬ結語が末尾に付く。編者桓寛は明らかに文学・賢良(=儒学者)側に立っている。それとも淡々とした議事録のような体裁のこの書のなかで、ときおり最後に取ってつけたように付されるこれらの描写は、桓寛の自己保全のためのアリバイなのだろうか。校注者の王利器が注釈のなかで毛沢東の名と発言を引用するがごとく(例えば「備胡第三十八」456頁)。

 孤子語孝,躄者語杖,貧者語仁,賤者語治。議不在己者易稱,從旁議者易是,其當局則亂。 
 孤子は孝を語り、躄者は杖を語り、貧者は仁を語り、賤者は治を語る。議己に在らざる者は称し易く、旁より議する者は是とし易し。其の局に当たるときは則ち乱る。 (「救匱第三十」本書405頁。訓読は曽我部静雄氏訳注『塩鉄論』岩波書店による)

 この一語(桑弘羊の発言)で、実は議論は終わっている。現実の必要と現状の認識から出発している政府側に対し、儒学者側は、とにかく儒教の教えを絶対の真理として振りかざして、「昔はよかった」「昔の通りにせよ」「昔と違うから間違っている」と言うばかりの身も心も硬直したお気楽な阿呆さ加減は筆舌に尽くしがたい。もしかしてこれは統制を嫌う民間の商人の利益を代弁でもしているのかと勘ぐってみたが、残された史料からはその証拠となるようなものは得られなかった(この校注は後半部に歴代の関係史料を網羅して引用してくれているので有り難かった)。この書に記録された彼らの口吻から察する限り、彼らは本気だったと思う。信じていたのである。

 大夫曰:「盲者口能言白,而無目以別之。儒者口能言治亂,而無能以行之。夫坐言不行,則牧童兼烏獲之力,蓬頭苞堯、舜之。故使言而近,則儒者何患於治亂,而盲人何患於白哉?言之不出,恥躬之不逮。故卑而言高,能言而不能行者,君子恥之矣。」
 賢良曰:「能言而不能行者,國之寶也。能行而不能言者,國之用也。兼此二者,君子也。無一者,牧童、蓬頭也。言滿天下,覆四海,周公是也。口言之,躬行之,豈若默然載施其行而已。則執事亦何患何恥之有?今道不舉而務小利,慕於不急以亂群意,君子雖貧,勿為可也。藥酒,病之利也;正言,治之藥也。公卿誠能自強自忍,食文學之至言,去權詭,罷利官,一歸之於民,親以周公之道,則天下治而頌聲作。儒者安得治亂而患之乎?」
 (「能言第四十」本書468頁)
 
 口先だけでいくら立派な理想を唱えても、実際に何もできなければ(貴殿らのように)、それこそ君子として恥というものではないかという桑弘羊の、これも極めつけの引導に、「口で立派な理想を言えて、実際には出来ない者こそ、国の宝なのだ。実務ができるが弁が立たないというでは国家有用の人材でしかない。この二つを併せ持ってこそ、君子たる」などと、訳のわからないそれこそ口先と調子だけの屁理屈で返して平気なところにその“信念”が窺える。

(天津古籍出版社 1983年12月)

畠中敏郎 「『金雲翹』考」

2013年02月24日 | 東洋史
 目的は以下二つの疑問に対する先人の答えあるいは解釈を求めて。

 ①阮攸がなぜ清・青心才人『金雲翹伝』を翻案したのか。
 ②翻案したはいいが、時代も場所も人名もすべて、原作の儘(嘉靖帝時代の北京および中国各地)なのか。

 ①については、心ならずも二朝に仕えなければならなかった著者が、その心中の鬱屈をやるための筆のすさびだったという解釈。推測であるが、それはそうかもしれないと納得できる。
 ②については、正面からの回答はない。ただ阮攸は翻訳しそれを韻文で模倣したのみというマスペロの評を引いてどうも作者の才能の水準に原因を見ているようである(但し畠中氏は同時にベトナム韻文の美しさにこの作品の意義と価値を見ている)。

 つまり答えはなかったわけであるが、よく考えれば大して重要でない問いなのかもしれない。『ハムレット』の舞台はデンマークでハムレットはデンマーク人だ。

(『比較文学』3 1960年 37-54頁)。

アントニー・ジェンキンソン著 朱牟田夏雄訳・注 越智武臣解題・注 「モスクワからブハラへの船旅」

2013年02月24日 | 世界史
 生田滋/越智武臣/高瀬弘一郎/長南実/中野好夫/二宮敬/増田義郎編集『大航海時代叢書 第Ⅱ期』第17卷所収(同書1-55頁)。
 著者アントニー・ジェンキンソンについては、ウィキペディア英語版に項がある(Anthony Jenkinson)。原題は「一五五八年、ロシアのモスコー市よりバクトリアのボガール市に至るアントニー・ジェンキンソン氏の船旅。本人よりロンドンのモスコヴィー貿易会の貿易商らに宛てて認められたる記録」。
 つまり、これは政府文書ではなく、Muscovy Company という一民間会社(但しイギリス国王の認可を受けた勅許会社)の社員による、会社への探査報告である。ただし彼はこの旅で、ボガール(ブハラ)に至るまでの中央アジア地域(トランスオクシアナ)の主要な支配者たちにロシア皇帝からの親書を届ける役目も負っていたから、ロシア政府の特使でもあった。船旅というのは、彼は主として水系を船でゆく旅程を取ったからである。なお彼は、未踏の土地探検を行う者として、またこのような一種国策会社社員の義務として、途中の人文地理や物産・交通・政治状況・治安事情など種々の情報を詳細に伝えるほか、通過・宿泊地点相互間の方角、距離、経度・緯度を克明に記し、地図を作成して報告書に添付している。
 なお文中、エンバ川が源を発する地として、“コルマック人”とその国についての言及があるのだが(但し伝聞としてであり、ジェンキンソン自身は現地を通らず実見もしていない)、訳注を見るとこれはカルムイク人の事らしい。しかし現在のオイラート族の一派であるカルムイク人が、ジュンガリアのイリからヴォルガ河畔に移住してくるのはこれより数十年後のことであるから、これは当時同地にいた別の民族のことを言っているのだろう。あるいは訛伝か。ちなみにエンバ川の源流はいまのカザフスタン領内にある。

(岩波書店 1983年2月)

首里王府編著 諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』

2013年02月22日 | 東洋史
 完全な現代語訳。1650年成立の本書の原文はインターネットで見られるが(「伊波普猷文庫」)、主たる編者の羽地朝秀(向象賢)のお手並みをばいざ拝見せんとす。
 全巻を通読するのはこれが初めてだが、通読してみた分かったことがいくつかある。

 1. 伊波普猷文庫の『中山世鑑』でも確かめたが、最初の「序」と続く「中山王世継総論」の部分は、漢文で書かれている。よく言われる、「和文で書かれている」というのは巻一以降。本文中で引用・紹介される漢文史料(中国皇帝による冊封詔勅やむこうの官庁とやりとりした文書等)も、むろんのこと原文のまま。

 2. 『中山世鑑』では、本文が和文体であるにも関わらず、年号表記は中国の元号を用いている(正しくは中国の元号何年+干支)。ただし冒頭巻一の、日本関係部分(保元の乱及び源為朝の日本脱出・琉球漂着まで)は、日本のそれを用いている。
 (この書は、琉球王室は為朝が此の地の女性と為した子が琉球最初の王・舜天になるという「物語」のもとに書かれている。)

 3. 奄美大島のことを、住民ともども、「北夷(大島)」などと書いてある(巻五、「宝口一翁寧公の碑文」本書166頁、伊波普猷文庫『中山世鑑』78頁)。沖縄本島人が先島諸島を蔑視・差別していたほことは以前から知っていたが、奄美群島も見下していたことをあらためて知る。沖縄の小中華思想と呼ぶべきか。

 4. それに関連して、自国内では中華でも、国外では、特に中国に対しては、藩属国でしかない(王国であり君主は王でしかない)ことの現実のねじれが、そのまま書き手(そして編纂者)の意識のねじれとなって、半ば無意識に表出しているかのように思える表現がある。巻四「成化十三年丁酉尚宣威王御即位」(本書134頁、伊波普猷文庫『中山世鑑』「成化十三年丁酉尚宣威御即位」65頁)で、「王座」であるべきところを「帝座」と書いている。

 5. 最後の第五巻は尚清王の一代記なのだが、史書、特に紀伝体としての体を成していない。統一的な執筆・編集方針が窺えない。とにかく残る種々の関係史料を全て並べたという観がある。本書が編纂される約半世紀前の薩摩による侵略によって琉球では大量の文書が失われたというから、これ以上の散逸を防ぐという意図もあったのかもしれない。

 6. 『中山世鑑』の「総論」は、全体の要約である。内容的によく纏まっており、分量も多い。3と4でのべたような事大の礼に欠ける処もない。折り目正しい古典漢文である。ただし、英祖王の業績を賛美して、「堯や舜の聖王といえども何も加えることは無いほどであった(雖堯舜無以加)」と書いてある(本書19頁、伊波普猷文庫『中山世鑑』10頁)。ここは、中国の読書人や科挙官僚が読んだら首をかしげるか苦笑したかもしれない。いくら宋以後の新儒教では「聖人学んで至るべし」となっているとはいえ・・・。

 7. そこで思うのだが、徐葆光が『中山伝信録』(1721年)で読んだと記している『中山世鑑』は、漢文で編まれた『中山世譜』の誤りなどではなく、或いはこの時新たに作られた可能性のある『中山世鑑』の漢訳でもなく、この「総論」ではなかったか。――と考えたりもしたが、しかし1609年の薩摩侵略・琉球征服の事実とそれ以後琉球が薩摩に朝貢している事実(=つまり薩摩の藩属国=そして日本の附庸国となっていること)も書いてあるから、これは見せられないだろうと思い直した。中国(明、そして明を承けた清)は、その事実は発生後ほどなく把握していたが(沿岸地方の長官クラスから朝廷に事態を報告する上奏文が残っている)、建前上ずっと知らぬ振りをしていた。琉球側としても、薩摩の命令もあり、真実を伝える訳にはいかなかった。

(榕樹書林 2011年6月)

龍文彬纂 『明会要』 上下

2013年02月20日 | 東洋史
 80巻。〔略〕成立時代不詳なるも同治・光緒間に成る。明代の諸事を帝系・礼・楽・輿服・学校・運暦・職官・選挙・民政・食貨・兵・刑・祥異・方域・外蕃の15門に分類し、類目別に明史其他200余種の書の記事を引用して、それに編者自らの説を附加している。引用文は必ずその末尾に引用書を注記している。『宋会要』などとは比較にならなぬほど簡略であるが初学者の入門書としては絶好のもの。光緒刊本は流布している。 (『東洋史料集成』平凡社、1956年1月、「第4篇中国」「Ⅰ近代以前」「9. 明代」「(4) 史料」同書234頁「『明会要』項」、藤井宏執筆。原文旧漢字)

 恥ずかしながら初めて読んでみたが、なるほどわかりやすい。わかりやすく明晰な行文は、ひとつには、引用にはかならず出典を注記するという、平明な「科学的」姿勢と関係があるかもしれない。
 通読したが、その際主として注意したのは朝鮮・ベトナム(安南)・琉球との関係である。従って、上記15門のなかでは「礼」と「外蕃」を精読した。
 「外蕃」には「朝鮮」「安南」に並んで「琉球」の項が立てられている(下冊巻77「外蕃一」。朝鮮も同じ、安南は巻78「外蕃二」、ちなみに日本は「外蕃一」「日本」)。ところが「礼」の部分(上冊巻15「礼十 賓礼」の朝貢関係記録「遣使之蕃」「蕃使入貢」)には、琉球に関する記事がまったくでてこない。朝鮮・安南はもとより、日本の記事は頻繁に見えるのだが。理由は分からない。
 どこにも版が明記してないが(冒頭の「例略」(原書の序および凡例・目次)には年月日の記載がない)、やはり『東洋史料集成』の言うとおり、光緒刊本なのだろうか。

(北京 中華書局出版 1956年10月第1版 1957年7月第2次印刷)