書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

青柳かおる 『ガザーリー 古典スンナ派思想の完成者』

2016年02月10日 | 伝記
 13頁「イスラーム王朝交代表」は、たった1ページのなかにイベリア半島から東南アジアまで、7世紀から1945年までを一堂に収める壮大な細密。だが老眼の進んだ私にはよく歎賞できない。西ウイグル王国もカラ・キタイもモンゴル帝国も、色の塗り分けの具合が、イスラーム王朝の側に繰り入れられているように見えてしまう。

(山川出版社 2014年5月)

E・J・ディロン著 成田富夫訳 『ロシアの失墜 届かなかった一知識人の声』

2016年02月07日 | 地域研究
 英国人にしてセルゲイ・ヴィッテの懐刀であった著者が、深く食い込み関わった帝政ロシアの社会・国家・国民観が、やや主観的ながら非常に興味深い。そして量的にはそれをはるかに凌駕する事実報告および分析部分については、訳者の「解説・解題」が、そのさらなる整理・確認・要約において周到精密を極める。

(成文社 2014年6月)

高口康太 「2つのアイドル謝罪、『社会の縮図』と『欺圧の現実』」 ニューズウィーク日本版

2016年02月07日 | 人文科学
 2016年1月29日(金)19時53分

 中国語には『欺圧』という言葉がある。『権力を持つ強者が弱者を虐げる』という意味で、中国の伝統的道徳観では許しがたい行いであった。前近代の刑法では犯罪行為とされていたほどだ。『欺圧』と反対の意味の言葉が『公道』だ。『公正、公平、あるべき姿』という意味で、道徳的価値が正しく実現されている理想の状態を意味する。

 “道徳的価値が正しく実現されている”のがすなわち“公正、公平、あるべき姿”=「公道」であるということである。
すべての個人はひとしく『譲渡不可能な基本的人権』をもっているという(根拠のない)信念」(池田信夫)を、“道徳的価値”とはしない社会や文化や国家においては、公道(ここではかりに正義と同意語であるとして)は、基本的人権が示す価値の謂であり、その内容を守ることが公正であり、公共善であり、反対に、それを守らない、あるいは破ることが不公平ないし公共悪である、という結論にはならない。さらにこの議論を溯れば、原子atomのアナロジーであるところの個人individual、原子論のアナロジーであるところの個人主義という理念が存在しない処に、「譲渡不可能な基本的人権」という概念は形式はべつとして概念としてありえないということである。

原武史 『直訴と王権 朝鮮・日本の「一君万民」思想史』

2016年02月07日 | 東洋史
 中国では登聞鼓はあったがそれを叩くことは犯罪とみなされた。日本では将軍その人への直訴はほぼ極刑に値する重罪であり、幕府要人への直訴は管轄違い(受理と審査は奉行所が執り行う)として訴状は差し戻された。目安箱も現実には一時期を除いて機能しなかった。それに対し朝鮮では、たとえば冤罪を着せられた庶民の上訴手続きが制度的に確立されていたと著者は指摘する。著者は、この差の理由のひとつを、徳川日本と李氏朝鮮それぞれの社会において将軍・国王と一般大衆のあいだに介在する中間組織の発達の有無と、その結果としての両者間の心理的・物理的距離の遠近差に求めている。
 なお以下の指摘が、本書のテーマから離れて個人的に興味深い。「〔経筵は宋代の中国で発案されたが〕中国はそれほど定着しなかった。これに対して朝鮮では、成宗がそれを再開して以来、臣下が経筵の開催を君主に要求した場合には、君主はそれにつとめて参加しなければならないという慣例が確立されるほど、制度として定着してゆくのである」(「1 一八世紀の朝鮮と日本 Ⅰ その前史と背景」32頁)
 経筵の元来持つ(あるいは持っていた)、そして実際に持った、意義と機能は何か。

(朝日新聞社 1996年4月)

昭和天皇、キリスト教に関心の理由 〈週刊朝日〉|dot.ドット

2016年02月06日 | 現代史
 更新2014/9/27 07:00。
 http://dot.asahi.com/wa/2014092500074.html

 神や皇祖皇宗の霊に申し上げる「御告文」「御祭文」と、生きた臣民(国民)へと宛てた「勅語」「詔書」の内容の差は、文体の差でもあるのではないか。とくに前者は、そうとしか書けないというところがあったのではないか。祝詞の文体である宣命体はふつう書体をもっぱら言うようだが、祝詞そのものに、スタイルとして枠がありそうである。少なくとも、同じ原武史氏著『「昭和天皇実録」を読む』(岩波書店 2015年9月)で紹介されている御告文をみるかぎり、語彙面でいえば、詔書よりも後世あるいは当世の単語の使用度がすくない。語彙が不足すれば表現も不足する。昔ながらの決まり切った内容と、それで表現できる範囲の新たな事象しか言えぬであろう。

 次田潤『祝詞新講』(明治書院1927/7初版、1938/4第10版)によれば、祝詞の文体は概括して以下のようであるらしい。以下の引用は「祝詞概説」の“五 祝詞の内容と形式”から。

 要するに祝詞は、言霊の活きによつて、神意を動かすことを主眼とするものであるから、内容よりも形式の方を重んずるのである。従つて僅少の語彙を用ゐ、素朴にして単純な発表をなす中にも、荘重な節奏、崇高な宗教感情を振起する事に、全力を注いでゐるのである。祝詞の長所は、内容の複雑や形式の変化の上にあるのでなく、丁寧周密を極め、何等の省略を用ゐない所の、真率荘重な表現、竝にそれに相応した、荘重にして快美な諧調の上にあるのである。 
(同書38-39頁。原文旧漢字)

 併し祝詞には短所がある。其の一篇だけを取り出して見る時には、以上述べたやうに、規模が雄大であり、形式が荘重であるが、各篇を見渡す時には、内容組織修辞共に一定の型があつて、変化に乏しく極めて単調な感が起る
。 (39頁)

 つまり内容よりも形式(著者のここでの用語を借りれば組織・修辞とも言い換えることができよう)が優先され、しかもその形式も決して豊富・多彩ではないということである。

 著者はこの祝詞の形式について、“表現法”と“修辞法”の二つに別けて説明している。
 まず前者については、「個性を明かにし、印象を鮮かにする事を避けて、努めて抽象的な叙述によつて、漠然として広大な感を与へる事を特色とする」(32-33頁)とする。これによって個別具体的な語彙はその増加を阻まれるであろう。加えて「あらゆる事物を網羅し、総括しようとする意思」(33頁)に基づき、「簡潔に表現し得る事柄も、語句を重ねて鄭重に言ふ」「一の概念を表すのにも、語を重ね句を畳んで冗長を厭はない」(同)のが祝詞の特色であるとすれば、後者“修辞法”については、「斬新な譬喩や警抜な誇張などは用ゐない」(34頁)となるのは、必然の帰結である。
 そして、この“修辞法”にかんして、著者は三つの方式の存在を認めている。それは、「列挙法」「反復法」「対句法」である。
 第一の「列挙法」は「あらゆる事物を羅列し、種々の場合を網羅しようとする」(35頁)方式である。
 第二の「反復法」は「同一語によつて同一義を繰り返すもの」と「異語によつて同一義を繰り返すもの」の二種がある(36頁)。
 第三の「対句法」は、その名の示すとおり、語・句・文それぞれのレベルにおいて対の形を用いる修辞だが、著者は、祝詞の場合、「完全な対句になつてゐるものもあるが、多くは語の一部分を繰り返す所の、いはゆる半対句が多い」と断った上で、「半対句は即ち、対句法に反覆法を併せ用ゐたものである」と補足している(37頁)。
 しかし譬喩(=比喩)も誇張も使わないというからには、祝詞という文体の持つこの三種の修辞法は、「三つもある」ではなく「三つしかない」とみるのがより妥当な判断であるように思われる。つまり修辞技法も貧弱なのである。

ヒューマン・ユニバーサル - Wikipedia

2016年02月06日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AB

 ヒューマン・ユニバーサル、あるいはカルチュラル・ユニバーサル、普遍文化とは地球上の全ての文化に共通してみられる要素、パターン、特徴、習慣のことである。強い文化相対主義の立場を取る一部の人類学者、社会学者はこのような普遍性の存在を否定するか、重要性を軽視することがある点に留意が必要である。この普遍性が狭義の文化であるか、生物学的、遺伝的基盤があるかどうかは氏か育ちか論争の争点である。

 これらの概念は時々、特定の文化の重要性やユニークさについて何も明らかにしていない『空っぽの普遍性』と呼ばれることがある。

 なるほど例として挙げられた項目を見ると、首をかしげたくなるようなものがところどころに見られる。たとえば時間の単位、道徳感情など。
 なおウィキペディアの同項のそれほど多くはない諸言語ヴァージョンのなかに、英語とロシア語はあるが、漢語(中文)はない。これは何かを意味するのかどうか。

ガザーリー著 中村廣治郎訳注 『哲学者の自己矛盾』(その2)

2016年02月06日 | 地域研究
 2016年01月21日「ガザーリー著 中村廣治郎訳注 『哲学者の自己矛盾』」より続き。
 出版社による紹介

 ここでは、ウィキペディア「ガザーリー」項の“イスラーム哲学”で紹介されている通りに、人間における「理性」の存在が当然の前提として措定されている。

 それはまさに、「動物」と「理性的」(nāţiq)の語が、人間の本質を形成するものを示すようなものである。というのは、人間は動物であり、理性的であり、人間の中の「動物」の指示内容は、「理性的」のそれとは異なるからである。 (「第一部 第五問題」本書147頁)

 つまり著者は人間とそれ以外の動物とを本質において分かつ標識として、理性の存在の有無を立てている。ただしこの書でガザーリーは、理性に限界があることも認めた。あるいは因果律を否定する。つまり、第一原因としての神の力のみを認め、作用因を認めないのである(「第二部 第十七問題」本書264-280頁)。(注)

 。質料因と形相因は神の力のもとでその存在を認められている。

 さらにいえば、原子論は認めるがそれと同時に神とその力の存在を「理性的」な判断として認めるなど、非常に興味深い議論が続く。

 ところで該書で「理性」と訳される"nāţiq"は、漢語では「代言先知」という訳語が与えられている(『中文伊斯兰学术城』「伊斯兰词汇对照表(中-英)」)。別のウェブ辞書では「世界理性的体现」という説明がある。この「代言先知」という漢語はいかなる意味だろう。