更新2014/9/27 07:00。
http://dot.asahi.com/wa/2014092500074.html …
神や皇祖皇宗の霊に申し上げる「御告文」「御祭文」と、生きた臣民(国民)へと宛てた「勅語」「詔書」の内容の差は、文体の差でもあるのではないか。とくに前者は、そうとしか書けないというところがあったのではないか。祝詞の文体である宣命体はふつう書体をもっぱら言うようだが、祝詞そのものに、スタイルとして枠がありそうである。少なくとも、同じ原武史氏著『「昭和天皇実録」を読む』(岩波書店 2015年9月)で紹介されている御告文をみるかぎり、語彙面でいえば、詔書よりも後世あるいは当世の単語の使用度がすくない。語彙が不足すれば表現も不足する。昔ながらの決まり切った内容と、それで表現できる範囲の新たな事象しか言えぬであろう。
次田潤『祝詞新講』(明治書院1927/7初版、1938/4第10版)によれば、祝詞の文体は概括して以下のようであるらしい。以下の引用は「祝詞概説」の“五 祝詞の内容と形式”から。
要するに祝詞は、言霊の活きによつて、神意を動かすことを主眼とするものであるから、内容よりも形式の方を重んずるのである。従つて僅少の語彙を用ゐ、素朴にして単純な発表をなす中にも、荘重な節奏、崇高な宗教感情を振起する事に、全力を注いでゐるのである。祝詞の長所は、内容の複雑や形式の変化の上にあるのでなく、丁寧周密を極め、何等の省略を用ゐない所の、真率荘重な表現、竝にそれに相応した、荘重にして快美な諧調の上にあるのである。 (同書38-39頁。原文旧漢字)
併し祝詞には短所がある。其の一篇だけを取り出して見る時には、以上述べたやうに、規模が雄大であり、形式が荘重であるが、各篇を見渡す時には、内容組織修辞共に一定の型があつて、変化に乏しく極めて単調な感が起る。 (39頁)
つまり内容よりも形式(著者のここでの用語を借りれば組織・修辞とも言い換えることができよう)が優先され、しかもその形式も決して豊富・多彩ではないということである。
著者はこの祝詞の形式について、“表現法”と“修辞法”の二つに別けて説明している。
まず前者については、「個性を明かにし、印象を鮮かにする事を避けて、努めて抽象的な叙述によつて、漠然として広大な感を与へる事を特色とする」(32-33頁)とする。これによって個別具体的な語彙はその増加を阻まれるであろう。加えて「あらゆる事物を網羅し、総括しようとする意思」(33頁)に基づき、「簡潔に表現し得る事柄も、語句を重ねて鄭重に言ふ」「一の概念を表すのにも、語を重ね句を畳んで冗長を厭はない」(同)のが祝詞の特色であるとすれば、後者“修辞法”については、「斬新な譬喩や警抜な誇張などは用ゐない」(34頁)となるのは、必然の帰結である。
そして、この“修辞法”にかんして、著者は三つの方式の存在を認めている。それは、「列挙法」「反復法」「対句法」である。
第一の「列挙法」は「あらゆる事物を羅列し、種々の場合を網羅しようとする」(35頁)方式である。
第二の「反復法」は「同一語によつて同一義を繰り返すもの」と「異語によつて同一義を繰り返すもの」の二種がある(36頁)。
第三の「対句法」は、その名の示すとおり、語・句・文それぞれのレベルにおいて対の形を用いる修辞だが、著者は、祝詞の場合、「完全な対句になつてゐるものもあるが、多くは語の一部分を繰り返す所の、いはゆる半対句が多い」と断った上で、「半対句は即ち、対句法に反覆法を併せ用ゐたものである」と補足している(37頁)。
しかし譬喩(=比喩)も誇張も使わないというからには、祝詞という文体の持つこの三種の修辞法は、「三つもある」ではなく「三つしかない」とみるのがより妥当な判断であるように思われる。つまり修辞技法も貧弱なのである。