書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

胡適著  井出季和太訳  『胡適の支那哲学論』

2013年08月31日 | 東洋史
 翻訳がアホすぎて何を言っているのかわからない。この邦訳は英語原本からの直訳だが、私は本人による中国語訳を読んだ。胡適はアメリカナイズされた軽薄才子だが、アメリカナイズされたぶんにおいてはできる男である。それがこんな鈍い物言いをするか。

(大空社 1998年2月、もと大阪屋号書店 1927年の復刊)

高田淳 『易のはなし』

2013年08月31日 | 東洋史
 古代(春秋戦国時代)の中国人の思惟(とくに儒家のそれ)には矛盾律がなかったとどこかでマルセル・グラネが言っている由。原文を確認したい。とはいえ私はフランス語ができない。邦訳著作の中にあるだろうか。
 というわけで、とりあえず『中国に関する社会学的研究(九篇)』(谷田孝之訳、朋友書店 1999年7月)を見てみたが、ない。第三篇に「中国の言語および思考の若干の特異性」「判断と推論」と、とてもそれらしい題のくだりがあるのだが、中はそれらしいことは何も書かかれてはいない。
 そんななか、この高田氏の著作に、グラネの「デュルケミアン」としての「西欧的観念とのアナロジーおよび西欧的価値による否定を厳しく斥ける」「否定的表現」として、「因果律や矛盾律による推理法はな」かったとあった(15頁)。それどころか「演繹法や帰納法もなかった」(同上)ともある。どちらも私としては膝を打って賛同したいのだが、残念なことに、これがどこにある発言なのか、出典についてまったく言及がないので、確かめるどころか信じることすらできない。

(岩波書店 1988年6月)

落合淳思 「漢字の成り立ち」

2013年08月28日 | 東洋史
 『立命館東洋史学』34、 2011年7月、1-22頁。
 加藤常賢・藤堂明保・白川静という漢字字源研究三巨人の方法論とその欠点とを冷静に指摘し、彼らの業績について、学問の進んだ今日から見ての総合的な評価を下してある。
 1.加藤は、甲骨文字の用例をあまり参照しなかったことに加えて、字形は古い時代のものの方が原型を残していると見なすのが普通であるが、その字形の年代を軽視した。現在からみてその研究の内容は稚拙にすぎる。
 2.藤堂は発音が類似する文字は字義も類似するという前提のもとに上古音を復元した。字音と字義に相関関係があることは着眼点としては間違いではないが、藤堂はすべてを字音から捉え、字音と字義の関係を固定的に捉えすぎる傾向があった。実際には字音はそのままで字義が変化した例、反対に字義はそのままに字音だけ変化した例が存在する。さらに本人も認めるように藤堂が復原した上古音は東周から秦漢にかけてのそれであるからして殷代の甲骨文字に適用できない。さらには加藤と同じく字形の時代差を軽視し、新しい時代の字義に基づいて字源を分析しているている場合もまま見受けられる。さらにはその字形そのものについても、幾何学的な形を記号と見なして字音の定義に合うように恣意的に解釈していることも多い。
 3.白川は、藤堂とは反対に字形を中心にした。とくに、会意文字に着目し、その組み合わせから字源を明らかにするという、羅振玉や郭沫若が経験的に行っていた方法をさらに網羅的に文字を集めて分析し、徹底させた。その点では字源研究に大きな貢献を成したが、彼は研究において何ら史料的根拠がない際でもみずからの存在すると信ずる当時の祭祀や呪術儀礼といういわば外部的文脈に基づいて字源を解釈しており、ここに最大の欠点があった。その結果、彼の解釈は直接証拠のないただの仮説、もしくは牽強付会の解釈になっており、せっかくの会意文字に着目し、その組み合わせから字源を明らかにするという彼の方法論も効果的な活用には至らなかった。このほか、白川にも加藤・藤堂と同じく字義や字形の時代差を軽視する傾向がしばしばあり、遅くに出現した字義や字形を元にした学説も多い。

 以上、先人の業績を欠点を含めて評価した著者のこんにちの漢字字源研究に対する提言は以下の通り。

 1.字音はある程度の参考にはなるが、現状では殷代の発音が不明であるため、甲骨文字の段階で出現している文字の分析は字形や字義を中心に解釈せざるをえない。また、字形・字義はより古いものが原形・原義を残している可能性が高いので、より古い史料を基準にすべきである。
 2.ただし字形や字義は、文字が作られてから殷代後期に至るまでにすでに変化している可能性があり、この方法論も完全ではない。しかし殷代後期の甲骨文字よりもさかのぼる文字がほとんど発見されていない現状では、すくなくとも現在のところはこの方法が最も確実である。
 3.会意文字における字形の組み合わせを集めて字義を判断するとう白川静の提唱した方法は、適正に用いれば高い効果がえられる。しかし会意文字において引伸義で用いられる例もあるので、やはり完全無欠な方法であるとはいえない。
 4.そもそもこれら先行研究は近いものでも出版から30年を経ており、その後に整理された資料と比較すれば多くの誤りが判明するのは当然であった。「今後は、数十年の遅れを取り戻すべく、字源研究を全面的に検証する必要があるだろう」(「結び」17頁)。


林幸秀 『科学技術大国 中国』

2013年08月28日 | 地域研究
 中国人の科学技術水準はもちろん発達するであろう。しかし中国という国家体制がそのとき今のままであるかどうかはわからない。いまの体制が続くかぎり、技術はともかく科学の自由で独創的な研究とその本になる思考は抑圧される。自由で独創的な思考と研究が進展すれば、いまの非合理で前近代的な政治体制は瓦解するであろう。あるいは権力が己を守るために、人民に対して血なまぐさい弾圧を加える。国家と社会が衝突し、結果国家のほうが滅びる。過去の王朝のように。その点、著者の見通しは楽観的にすぎると思う。

(中央公論新社 2013年7月)

毛里和子 「私の現代中国研究」

2013年08月27日 | 地域研究
 『お茶の水史学』2013年3月、1-17頁。

 この人は中国史について余り知らないと思っていたが、本人もそれを認めている。ご当人の言によれば、戦前の中国研究を無視してきたという。その理由が凄い。

 一九六〇年代半ばから中国研究の門をくぐった私の場合、中国への侵略についての「強い反省」や、冷戦期のグローバルなイデオロギー対立の影響を強く受けました。その結果の一つが、戦前の中国研究への全否定でした。加齢が進めば進むほどに、「ああ、もったいないことをした」と痛恨の極みであります。 (2頁)

 学問水準と研究者の思想政治傾向は全く関係なのだが、それをそうは思えなかったらしい。愚かな話だが、後年になってそれを認めて反省するだけでも偉いと思う。柳田節子女史のように死ぬまで自分の愚かさを自覚せず全否定したままで終わった中国研究者もいるのだから(しかもこの人は戦前に成人しているのに、まことに大人げない)。
 しかしそれでも、この方の学問には、ときどきだが、“中国への侵略についての「強い反省」や、冷戦期のグローバルなイデオロギー対立の影響”がいまだ見て取れるようにも思える。
 

白峰旬 「直江状についての書誌的考察」

2013年08月26日 | 日本史
 『史学論叢』41、2011年3月、39-66頁。

 直江状の内容を詳細に見ると、これまでの通説で言われているような直江兼続が家康に対して出した不適な挑戦状というものではないことがわかる。 (「2. 直江状は家康に対する挑戦状ではない」43頁)

 この人「直江状」をちゃんと読んでいるのだろうか? この書状に家康への挑戦の意味はないというのはどういうことだろう。措辞といい、語気といい、挑戦どころか嘲弄に満ちあふれている。相手を評して「内府様表裏(家康は言行不一致で裏表がある)」と言うのは、少なくともしかるべき敬意を払っているとは言えないだろう。「多幸多幸」が目上の人間に対するものではないのは転写の過程で誤写もしくは改竄されたものだろうなどという指摘は、枝葉にすぎない。「内府様」「御糾明」と敬語を使っているのは地位に対する敬意だろう。もしくは慇懃無礼というものだ。あるいは建前上家康は五大老の筆頭=秀頼の臣下にしてその代理的存在だから、この敬語は秀頼および豊臣政権に対するものかもしれない。
 書誌学的研究だから、内容は理解していなくても問題はないのかしらん。

丁俊 『中国阿拉伯語教育史綱』

2013年08月26日 | 東洋史
 アラビア語は『コーラン』をはじめとするイスラム教を伝えるところのアラブ地域の言語だといいながら、中国との関係は二千年前の漢代にさかのぼるなどと、『史記』などを引いて、信じられないくらい馬鹿げた事が書いてある。「第一章20世紀之前阿拉伯語教育的回顧」本書19頁。
 それに、中国のイスラム教徒のアラビア語について、言語的な水準や特徴について、何の分析もない。明代中期以降は母語とする集団も消え、学んだ言語だからどこかネイティブのことばとは違ってきているはずなのだが、それについては関心も想像力もないのか、まったく触れるところがない。
 それともないのは学力か。

(中国社会科学出版社 北京 2006年9月)

ポロヴニコヴァ・エレーナ 「近世後期の節用集における空間認識―『萬寶節用冨貴蔵』を例に―」

2013年08月24日 | 日本史
 『年報日本思想史』12、2013年3月、14-16頁。2012年4月28日第四回例会における報告の旨注記あり。

 『萬寶節用冨貴蔵』(天明八・享和二・文化八年の三刊本が現存)に付された「大日本国之図」においては、「日本だけでなく『異域・異国』も姿を現している。そのため、『日本』像だけでなく、『世界』像の一部――日本の周辺にある異域や異国――も捉えることができる」(14頁)。

 日本国の周辺にある異国や異域とは、まず朝鮮・琉球・蝦夷地の三つである。この三つの地域は必ずと言っていいように、節用集の日本図に出てくる。日本に最も近い地域でありながら、日本に入れにくい中国やオランダ以外に、その三つは近世日本において最も交流・交易のあった地域である。 (15頁)

 特に注目されるのは蝦夷地が二つあることである。その二つの蝦夷地とは、一つは奥州の東北にあり、もう一つは東にあるものである。ぞれぞれには「まつまへ」(松前)「てしほふろ」、「めなしふろ」「えぞのちかしま」(蝦夷の地が島)という地名が書いてある。そこからは「松前」と「蝦夷島」との区分が読み取れる。近世の日本人の認識では、松前が蝦夷の土地と違って日本国家の枠組みの中にとらえられていた。また「蝦夷島」は東の地方を表していることが日本図に書かれている地名から明らかである。北にある日本国家の範囲に入る「松前」にチアして、東にある土地は蝦夷のものだという認識が現れていると考えられる。 (15頁)
 
 『萬寶節用冨貴蔵』には世界図がないが、「万国四十二国人物之図」からは当時の庶民が見ていた「世界」像を読み取ることができる。この「万国四十二国人物之図」とは、文字通り、世界の国々の人物(「人物=国」という意味で捉えられる)を絵と簡単な説明で紹介しているものであり、西川如見の『四十二国人物図説』(享保五年刊)に由来していると思われる。 (15頁)

 本節用集の人物図に表れている「世界」がその説明文から明らかになる。ここではいくつかの特徴に注目したい。まずは、アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカの国々が紹介されていることである。つまり、地理認識は地球規模にまで広がったといえる。(15頁)

 また、興味深いのは、「小人」「長人」の国があることである。現代では存在していない国であるが、近世においてはこのような伝説上の国々の存在が信じられていた。 (15頁)

 もう一つの興味深い点は、アジアの国々の位置が天竺(インド)によって、ヨーロッパの国々の位置はオランダによって定められていることである。 (15頁)

 『萬寶節用冨貴蔵』の中の「日本」像は百年以上前の『扶桑国之図』を、人物図に見られる「世界」像は六十年ほど前の西川如見の『四十二国人物図説』を原拠にしている。このように、本節用集での空間認識は最新の知識に基づいているのではなく、百年以上前の知識を紹介し続けている。 (16頁)

 末尾の質疑応答の要略欄(若色智史記)において、節用集を知識人ではない一般庶民の知識源とするのは適当なのかという質問があった由。江戸時代には写本が多く流通していたから、知識人のみならず庶民も様々な書物に触れる機会があったという事実を前提にした疑問。なお近世の庶民の家庭には一冊は節用集が常備されていたと発言者が発言。この指摘は民博系の研究でも読んだ憶えがある。

藤野月子 「唐代和蕃公主考―降嫁に付随して移動したヒトとモノ―」

2013年08月24日 | 東洋史
 『九州大学東洋史論集』41、2013年3月、78-101頁。

 事実と結論の間の論証が不備。言い換えれば、「はじめに」と「おわりに」の違いは、「可能性が考えられるであろう」とした諸点が、本文部を経て断定の「である」に変わったが、途中その変換の根拠はいささかも示されていないということである。