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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

郭汝林著 原田禹雄訳注 『重編使琉球録』

2013年01月29日 | 東洋史
 琉球へ向かう冊封船(1561・嘉靖40年)が釣魚嶼(尖閣諸島)を越えて、つぎのつぎに見える赤嶼(赤尾嶼)について、「赤嶼は、琉球地方を界する山なり」と記しているくだり(「使事記」)を除けば、あまり面白いとも思えない。

(榕樹書林 2000年4月)

徐葆光著 原田禹雄訳注 『中山伝信録』

2013年01月29日 | 東洋史
 分量と、従って情報量においてはやや遜色があるが、沖縄版の『日本國志』と思えばよい。それほどの偉著である。徐葆光という人はよほど綿密な性質の人だったのだろう。それにこの人は中国の読書人=科挙官僚にはめずらしく、変わったもの、見慣れぬもの、あるいは異文化に対する好奇心が強かった人のようで、約半年に亘る滞在中、いろいろな場所を訪れ、見て回ったらしい(後述)。市場の風景や一般民家の機織り機についての説明など、自身の眼で見たうえでないと書けないと思われる記述が多々ある。平安貴族の日記ではないが、数十年に一度しかない琉球王冊封の一部始終を記録してその有職故実を後の使いのために遺すという目的もあって、日々の出来事が驚くべき緻密さで描写される。その緻密さには事物・現象の形容に計測数値が多用されるという意味も含まれる。徐はこの著のなかで、琉球や琉球人に対して、「夷狄」と見なしての侮蔑的言辞をいっさい弄していない。中立で客観的な記述に徹している。すこし時代は遡るが『徐霞客遊記』の文体を想わせる。この『中山伝信録』が上梓されたのは康煕帝時代の終わりであるが(1721年)、明末から清のしばらくにかけての時期というのはやはり、それ以前そしてその後の中国と比べて、すこし変わった時代だったのかもしれない

 閑話休題。巻四の琉球の地誌を叙述した部分で、徐は尖閣諸島(釣魚嶼)を、琉球諸島の一つとして列挙している。つまり琉球王国の領土として認識している。無論それはそれまでの中国側の認識であり、さらにはこの書を書くに際して琉球王朝側が提出した史料および政府関係者の証言に基づくものである(注)。

 。主な情報源は『中山世鑑』といった琉球王国の正史や、当時の琉球朝廷の重鎮であった程順則の関係著作である。そしてまたおそらくは、直接冊封使節の接待と交渉の任にあり、徐の琉球本島各地への視察旅行にも随行した、まだ30代の若さであった蔡温からも多大の説明と示唆を受けたであろう。

 ・・・であるから、「一度も琉球領であったことはない」と断言した井上清は無学である。「日清戦争で日本が中国から奪ったもの」だという主張になると確信犯の嘘吐きと評するほかはない。私は井上は地獄で閻魔様に舌を抜かれるべきだと思っている(多分抜かれただろう)。

(言叢社 1982年6月)

鄭秉哲著 桑江克英訳注 『球陽』

2013年01月28日 | 東洋史
 
 関ヶ原の戦はともかく、秀吉の朝鮮侵略について、軍役負担をめぐる日本側とのやりとりはおろか、明との交渉を含めて、一言も記していない。関ヶ原より数年後の島津氏の琉球来襲と王の拉致事件は記述してあるが、帰還の記事と併せても数行と、ひどく簡略である(巻之四)。
 三藩の乱について、たしかに耿精忠から支援を求める使者(陳応昌)が琉球へやってきたが、王(尚貞王)はその要請を断ったと、要は嘘が書いてある(巻之七)。
 巻之十三より、蔡温(当時法司・三司官の一)の表だった活躍が開始される。当時乱伐のため危機に瀕していた沖縄本島の森林資源の保護と拡充、そして国内水利施設の修築と再整備などが、その主なものである。もっともこれらの事業は、数年前から始まっていた(そして彼も関わっていた)諸改革の潮流の文脈において出てくるものでもある。
 蔡温の森林保護政策の実際的で効果的な内容の周知とその実践によって、「国人始めて山林の法あることを知る」と『球陽』は記す。してみると、彼がその生涯政治的文書において屡々用いた陰陽五行や風水の理論は、やはり衆人の耳目に入りやすい為のとば口、修飾に過ぎなかったのだろうか
 なお後半部、19世紀に入ってからは、忠孝を愛でて平民の何某を賞すとか、士族にさらに位階を賜うとかのほかは、異国船の来航漂流の記事ばかりと分量はともかくとして内容的には却って単純になる。体制の硬直・老朽化、政治の形骸化の進行をうかがわせる。

(三一書房 1971年7月)

古村治彦 『アメリカ政治の秘密』

2013年01月22日 | 地域研究
 小泉進次郎氏は、米国政府とジャパン・ハンドラー、より正確にいえばマイケル・グリーンとケント・カルダーの二人に洗脳されたのか。学説の継承と、説得(何らかの強制的要素もあるかもしれないが)を、洗脳と呼べるか。
 米国外交の基礎となっていると著者が認める「民主化」「近代化」は、それらに基づく米国の自国利益のための外交(就中対日政策)と、同じであるのか。言葉を換えれば、著者は、後者を否定する即前者をも価値として否定しているのか、それとも両者を区別し、後者のみを断罪している――前者を逸脱もしくは背馳するものとして――のか。
 根本が曖昧な本。

(PHP研究所 2012年5月)

西里喜行編 『琉球救国請願書集成』

2013年01月20日 | 東洋史
 第一次琉球処分後の1875年から1885年にかけての、琉球(藩)王と臣下より明治政府への、また脱清人から清朝政府また各国大使への琉球王国復興・両属状態復活を訴えた嘆願書。後者はすべて、当時の清朝において定められた書式・文体・用語を踏まえた見事な文言文によって記されている。

(法政大学沖縄文化研究所 1992年10月)

シュロモー・サンド著 高橋武智監訳 『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』

2013年01月19日 | 西洋史
 佐々木康之/木村高子訳。

 なるほど面白い。「ウイグル人の歴史5000年」などと声高らかに唱える類は、著者の爪の垢を煎じて服んだらどうか。その粗末な頭に利くかどうかは知らないが。

(武田ランダムハウスジャパン 2010年3月第1刷 2010年5月第2刷)。

王泰平著 福岡愛子監訳  『「日中国交回復」日記 外交部の「特派員」が見た日本』

2013年01月19日 | 政治
 「米国が海外派兵するほうが日本がするよりまし」などという根拠もない思いこみを持った人間は、当時でも特派員、しかも外交部のそれとしては、失格だろう。文革中だからそれでも通ったのかしらん。時代の一証言としては価値があるが、私にはおなじテーマでも先に読むべきものがほかにある。

 (勉誠出版 2012年9月)

李開 『戴震評伝』

2013年01月19日 | 伝記
 原題:李開 『戴震评传』。

 決めのつもりか、マルクスやエンゲルスの殆ど意味のない引用が、要所要所であったりするが、裨益されるところもある好著。ただ、「七経小記」――『詩経』『書経』『易経』『春秋』『礼記』『論語』『孟子』に関する注釈――を著した戴震が、実のところ儒教の教えをどう考えていたのかという点についてはなんの判断もない。朱子学批判をしたというのはわかる。しかし、彼の“理(条理)”を自然法則であると断定してしまったのなら、そこまでやらないと駄目だろう。孔子も戴震同様素朴唯物論者だったのかということになる。近年の孔子再評価の情況のなかで、孔子(もしくは原始儒教)の教えについて批判がましいことを言うのは憚られたかと思ったが、初版年は1992年だからこの推測はなり立ちにくい。何故だろう。
 それから「啓蒙思想家」という評価が最後のほうで突然でてくる(それも一箇所だけ)自体も奇妙だが、彼のどこがどう、そうであるのかについて、まったく説明がないというのも、それ以上に奇妙である。マルクス・エンゲルスの引用同様、公式解釈への会釈か。

(南京大学出版社 1992年8月 2009年6月再版)

多和田真一郎 『「琉球・呂宋漂海録」の研究 二百年前の琉球・呂宋の民俗・言語』

2013年01月18日 | 地域研究
 19世紀に海難で琉球に漂着しのち帰国した(途中、また遭難してフィリピンにまで流されている)朝鮮漁民からの聞き書き。
 文中、安南(ベトナム)人に出合うというくだりがある。すわ張漢きつ『漂海録』の記述はあながち嘘ではなかったのかしらんと思ったが、よく読み返してみれば、沖縄から出て帰路広東における部分だった。

(武蔵野書院 1994年6月)

池田信夫/與那覇潤 『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』

2013年01月17日 | 東洋史
 與那覇さんの「独自の解釈」(アマゾンの書評から)は、そのもとになる事実の把握と必要な知識が不十分か、まちがっていないか。中国のほうがグローバル化しやすいという仮説になると、私からすれば正気を疑う体のものである。

(PHP研究所 2012年9月)