分量と、従って情報量においてはやや遜色があるが、沖縄版の『
日本國志』と思えばよい。それほどの偉著である。
徐葆光という人はよほど綿密な性質の人だったのだろう。それにこの人は中国の読書人=科挙官僚にはめずらしく、変わったもの、見慣れぬもの、あるいは異文化に対する好奇心が強かった人のようで、約半年に亘る滞在中、いろいろな場所を訪れ、見て回ったらしい(後述)。市場の風景や一般民家の機織り機についての説明など、自身の眼で見たうえでないと書けないと思われる記述が多々ある。平安貴族の日記ではないが、数十年に一度しかない琉球王冊封の一部始終を記録してその有職故実を後の使いのために遺すという目的もあって、日々の出来事が驚くべき緻密さで描写される。その緻密さには事物・現象の形容に計測数値が多用されるという意味も含まれる。徐はこの著のなかで、琉球や琉球人に対して、「夷狄」と見なしての侮蔑的言辞をいっさい弄していない。中立で客観的な記述に徹している。すこし時代は遡るが『
徐霞客遊記』の文体を想わせる。この『中山伝信録』が上梓されたのは康煕帝時代の終わりであるが(1721年)、明末から清のしばらくにかけての時期というのはやはり、
それ以前そしてその後の中国と比べて、すこし変わった時代だったのかもしれない。
閑話休題。巻四の琉球の地誌を叙述した部分で、徐は尖閣諸島(釣魚嶼)を、琉球諸島の一つとして列挙している。つまり琉球王国の領土として認識している。無論それはそれまでの中国側の認識であり、さらにはこの書を書くに際して琉球王朝側が提出した史料および政府関係者の証言に基づくものである(注)。
注。主な情報源は『中山世鑑』といった琉球王国の正史や、当時の琉球朝廷の重鎮であった程順則の関係著作である。そしてまたおそらくは、直接冊封使節の接待と交渉の任にあり、徐の琉球本島各地への視察旅行にも随行した、まだ30代の若さであった蔡温からも多大の説明と示唆を受けたであろう。
・・・であるから、
「一度も琉球領であったことはない」と断言した井上清は無学である。「日清戦争で日本が中国から奪ったもの」だという主張になると確信犯の嘘吐きと評するほかはない。私は井上は地獄で閻魔様に舌を抜かれるべきだと思っている(多分抜かれただろう)。
(言叢社 1982年6月)