書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

杜石然ほか編著 川原秀城ほか訳 『中国科学技術史』 上下

2012年01月30日 | 自然科学
 再読

 この書は、侯外廬主編『中国思想通史』とはちがい、清末民国初期(1840年-1919年)までをカバーしている。しかしながら、それでも原子唯物論(原子論)は出てこないし、中国の「気一元論」に対する後世の見地からの評価もない。
 たしかに、『百度百科』の「素朴唯物主義」項と同様の、批判めいたものは見られる。

 夏・商・西周期,農業・青銅・陶磁などの生産技術が,原始社会とくらべて大きく向上した.農業生産と密接な関係がある学科――天文・数学・物理学なども,初歩的な進歩をとげた.だが古代の諸科学は依然として経験の蓄積・整理という感性的な段階に留まっており,当時の人びとの自然法則に関する知識はいまだ理性的な認識の段階に達しておらず,また到達不可能でもあった.素朴弁証法思想を有する“五行”“八卦”などの学説が当時,経験の蓄積や整理を基礎として出現した.それらは中国後世の科学技術の発展のため一定の影響を及ぼしたが,歴史的条件の制約もあって,それ自体濃厚な神秘主義や唯心主義の要素を帯びていたことも否めない. (「第2章 技術と科学知識の蓄積」「小結」、上巻79頁) 

 しかし万物の構成元素を“気”とすることが、間違っていたこと――あるいは原子と異なりいまだにその存在が実証されていないこと、そして現代の科学が古代西洋の原子唯物論を原理としまたその基礎とすること――については、一言も触れられていないのである。

 近代中国の科学技術が長期にわたって立ち遅れた根本の原因は,中国の長期の封建制度の束縛のいたすところにあり,近代科学がヨーロッパにて誕生した根本の原因も,新興の資本主義制度がまずヨーロッパにて起こった結果にほかならない,というのがそれである. (「結語」、下巻647頁)

 今回は再読であり、前回からさらに前へ進まねばならない。
 前回の結論は、「本気でこんなことを書いているのなら、なぜ中国が近代化できなかったかなど、永久に解らないだろう」というものであった。
 この書には、前回引用した上記部分の他、中国の科学文明が西洋に立ちおくれた原因として、以下の分析もなされている。

 中国の自然科学は16-17世紀をもって,自らの学的優位を覆され,後進の位置に貶められたのである.‘西洋に落後し’た理由は,中国の資本主義がヨーロッパのように迅速に発展せず,社会生産の迅速な発展から来る科学への切迫した要求がなかったところにある.(「第8章 伝統科学技術の緩慢な発展」、下巻516頁)

 そもそもの仮説がまちがっていたのだから、いくら「中国の資本主義がヨーロッパのように迅速に発展」し,「社会生産の迅速な発展から来る科学への切迫した要求が」あったとしても、伝統中国の科学文明が西洋のそれと同じ水準にまで進歩することは決してなかっただろう。早い話が、気一元論では、真空の存在さえ認められないのだから。西洋の古代ギリシア時代以下、よくいって17世紀以前である。
 これらを承けての今回の結論は、これである。

 「気一元論」に対する(おそらくは政治上からの)曖昧な評価を精算しないかぎり、中国は現代科学を根底から受用できない。原理を理解せずして、模倣とパクリと応用とそれに連なる部分的新開発はできるだろう。しかし新発明/発見や新理論の創出、まったき新開発は無理である。だから中国は永遠に米国に比肩する超大国にはなれないだろう。かつてのソ連の位置にも及べない。

 中国では「気一元論」を否定することはやはり「全盤西化」であり、「和平演平」を企む西側の陰謀であるという理屈で、その後進性を批判するものの、完全な否定はしないのだろうか。中国特色の唯物論として。その誤謬であることを確言しないから、天人感応説(天人合一説)を中身に、19世紀の社会科学を外皮に、中国人の心性において物理法則と倫理原則(或いは主観と客観)の未分化状態がいまだに続いているのである。その挙げ句に、「風水は中国特色の自然科学である」などという世迷い言が国営メディアで堂々と主張されるようになる。

(東京大学出版会 1993年2・3月)

『百度百科』の「素朴唯物主義」項を読む

2012年01月30日 | 自然科学
▲「百度百科」「朴素唯物主义」。
 〈http://baike.baidu.com/view/14110.ht

 先ず定義。

  朴素唯物主义 ,用某种或某几种具体物质形态来解释世界的本原的哲学学说。唯物主义发展的最初历史形态。它否认世界是神创造的,把世界的本原归根为某种或某几种具体的物质形态,试图从中找到具有无限多样性的自然现象的统一。

 ある種のあるいは複数のある種の具体的な物質形態をもって世界の根源を説明しようとする哲学上の学説。この説は世界は神の創造物であるという立場を否定し、世界はある種あるいは複数のある種の具体的な物質形態から構成されると見なし、それによって無限の多様性を有する自然現象の統一的理解を図ろうとする考え方。

 素朴唯物主義は、西洋の「原子唯物論」と中国の「気一元論」とに二分される。

  欧洲出现了谟克利特、伊壁鸠鲁的原子唯物论,认为一切事物都是由不能再分的物质微粒原子组成的,开始从物质结构上研究世界的本原。中国古代唯物主义者则认为宇宙万物是由一种极细微的流动的物质“气”构成的,气是世界的本原,提出了气一元论。

 ヨーロッパではデモクリトス、エピクロスによる原子唯物論が出現した。これは、事物のすべてがそれ以上分割できないとても小さな原子によって形作られていると考え、物質の結合のありかたから世界の根源を研究しようという考え方である。〔一方〕中国の唯物主義者は、宇宙の万物は極小で流動する物質“気”によって構成されていると考え、その“気”が世界の根源だとして、気一元論を唱えた。

 つまり唯物主義は、すくなくとも当初(古代、素朴唯物主義の段階)ではヨーロッパの「原子唯物論」と中国の「気一元論」の二種類が存在したとされている。

  朴素唯物主义是依据直观经验和比较粗浅的自然知识所作的理论概括,缺乏一定的科学论证和严密的逻辑体系,带有一些猜测的成分。因此,它有直观性的特点。

 素朴唯物主義は、直観的な経験と今日から見れば浅薄な自然知識から展開された思想であったため、必要なレベルの科学的論証と厳密な論理体系とを欠き、臆測でしかない部分を含んでいた。この結果、直観的という特色がある。

 それにしても、悪文とはいわないが、いい文章でもない。

 追記侯外廬『中国思想通史』は、最後まで中国では唯物主義は「気一元論」のことであるとして通した(この語は使っていないが)。全五巻6冊の文中、「中国の唯物主義」という言い方が普通である。一カ所だけ、「素朴な唯物主義」という言い方がある)。中国では原子論が生まれなかったし、明末清初でも伝わらなかったようであるし、中国に原子論が伝わるのは19世紀後半以降であるし、ところがこの書はその前(阿片戦争前)で終わっているのだから、“気”を万物の根源とする「気一元論」についてまったく総評・総括がないのは仕方がないといえばそれまでだが、気一元論は、結局間違っていたわけである。気などという物質は存在しない(すくなくともいまだ存在は確認されていない)。原子は、20世紀になってからであるとはいえ、その存在は実証された。20世紀半ばの侯外廬の時代にはすでにそれは明らかな事実であった。そのこっとについてなぜ一言も書かなかったのかという不審さは残る。

 追記2。中国では「気一元論」を否定することはやはり「全盤西化」であり、「和平演平」を企む西側の陰謀であるという理屈で、その未開さを批判はするものの、全否定はしないのだろうか。気一元論では真空の存在すら認めないから、古代ギリシア時代もしくは中世をへて原子論が復活した17世紀までの科学・知的水準としかいいようがないのだが。将来なんらかの政治的キャンペーンのときに持ち出して愛国主義の錦の御旗にする場合に備えてだろうか。その時には物理学者は根こそぎだな。政治家とその手下の官僚眷属は生き残るかもしれないが、国家は滅亡だ。

侯外廬 『中国思想通史』 第5巻 「清:十七世紀至十九世紀四十年代中国早期啓蒙思想史」

2012年01月25日 | 東洋史
 これは最終巻だが、阿片戦争の前で止まっている。内容はほぼ清朝考証学とその周辺学術の歴史である。啓蒙思想とは、清(中国)内発の啓蒙思想のことらしい。もっとも読んでもそれが何を指すのかよくわからないのだが(戴震が啓蒙思想家か?)。その前の巻であった明末清初の西洋科学思想の影響についての言及はまったく影を潜める。すべて中国独自のそれのことである。いまなら“中国特色の”と謂うところであろう。
 この大部の書は、こんにちでも中国の思想史研究の最高峰にして教科書的存在らしい(→こちら)。つまり、現在でも、中国(特色)の唯物論とは、原子ではなく五行(さらに遡れば気)を、この世の全ての物質の構成元素とする思想のことなのである。さらに言葉を足せば、中国という国家は、公式にはこんにちでも原子の存在を認めていないということである。ついで理の当然として、真空の存在も認めていない筈である。これは、驚くべきことだ。

(北京 人民出版社 1956年8月第1版 1958年1月北京第2次印刷)

侯外廬主編 『中国思想通史』 第4巻下冊 「南宋元明思想」

2012年01月25日 | 東洋史
 (「上冊」より続き)

 この世のすべての物質が“五行”とよばれる元素でできていると見る立場を唯物主義と呼ぶのはいいが、それが原子をこの世のすべての元素とみる西洋の唯物論とどうちがうのかは説明しなくていいのかという疑問。原子論も、ながらく単なる仮説にすぎなかったことは、五行説(本巻では冒頭朱子の理気説が説明されて、五行のさらに元にある存在として、“気”とその運動原理たる“理”が設置される)と同じである。しかし原子論は、それを証明すべくさまざまな実験が、あるいはそれを公理としてさらなる仮説の構築とその検証が、えんえんと積みかさねられてきた(とくにルネッサンス以降)。ところが中国の五行説は、最初から真理として、検証どころか疑問をさしはさむことすら許されなかった。これがどういうことかという視点は、思想史を掲げるなら必須ではないかと思うのである。しかし、これは無い物ねだりというものかとも思える。儒教からマルクス・エンゲルス、レーニン、そして毛沢東主義に頭のなかの“真理”を置き換えただけの人間が書く思想史(全巻におびただしい引用)というのはこういうものなのだろう。だから、浅くて、詰まらない。

 追記。だから、明末清初めのマテオ・リッチを初めとするキリスト教宣教師によってもたらされた西洋の科学・技術や思想の特質を、それまでの伝統中国になかった科学的思考方法(観察・推論・実験)とただしく認めながら、当時の科学は「神学(宗教)の婢女だった」からというまた借り物のテーゼでもって、だから「影響はたいしたことはなかった」としてしまう。幾何学・天文学といった、方法論や術語の輸入といった明示的な――つまり一目で分かる――分野についてはさすがに言及があるが、自前の分析視角による独自の掘り起こしはない。繰り返し、言っても詮ないことだが。馬鹿だから仕方がない。一言で言えば。「上部構造は下部構造によって決まる」と決まっているから、そこから独立した心性や思考様式の変化を捉える感覚など最初から持ち合わせていないのである。
 もっとも、明末清初という時期も悪かった。16世紀末~17世紀前半という時代は西洋ではまだ原子論が科学界で市民権を得ていない。アルキメデスの考え方を引き継いだ正真正銘の原子論者ガリレオ・ガリレイが、やはり地動説を唱えたことにより、幸いに殺されこそしなかったものの、やはり異端審問所によって沈黙を強いられたのは1633年のことである。ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』を出版するのは1687年である。古典力学もまだ確立していなかった。キリスト教宣教師のマテオ・リッチ(1610年没)ほかは、原子論はおろかニュートン力学も認めていなかっただろうし、中国人に伝えることもしなかっただろう。だろう、というのは、この本には何も書いてないからだ。

(北京 人民出版社 1960年4月)

侯外廬主編 『中国思想通史』 第4巻上冊 「隋唐北宋思想」

2012年01月25日 | 東洋史
 侯外廬/趙紀彬/杜国庠/邱漢生/白寿彜/楊栄国/楊向奎/諸青 執筆。

  2012年01月24日侯外廬/趙紀彬/杜国庠『中国思想通史』第1巻「古代思想」では、当時(古代~秦時代まで)の“素朴な”唯物主義のメルクマールとして、物質をこの世を成り立たせる基本の存在として認めているかどうかに置いていた。この巻では、物質であることは変わらないが、“五行”にこの世の存在の基礎を置くかになっている。たとえば王安石は唯物論者であるとされるが、それは、彼が「物質がこの世のもと(第一性)であり、この世の全ては五種の元素(=五行、水・火・木・金・土)から構成されていると考えていた」が故である(「第九章第四節 王安石的唯物主義世界観」450頁)。

(「下冊」に続く)

(北京 人民出版社 1959年12月)

突然ひらめく

2012年01月25日 | 思考の断片
 全部とは言わないまでも基本的に物事が金に換算され、金で売買できる社会では、自給自足でもしていない限り、「互いが互いをカモにする」世界であることにいまさらながら気づいた。
 売り手は少しでも高く売ろうとし、買い手は少しでも安く買おうとする。また金は時間と共に利子がついて殖えるという原理を持つ存在である。ならば買い手はすこしでも金を払うのを遅らせようとし、売り手は出来るだけ速く、できれば売る前から金を取ろうとするのである。適性価格とか適性な利潤とかというが、要は双方の強欲と損得計算の折りあい処である。
 これが「互いが互いをカモにする」世界でなくて何か。

中西健 『中央アジア・クルグススタン 旧ソ連新独立国家の建設と国民統合』

2012年01月25日 | 地域研究
 2009年12月12日「濱田正美『モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝』を読んで」の感想、とくにキルギス(クルグススタン)に関するそれとほぼ同じ。ただし、キルギス(人)とクルグス(人)が、前者はロシア化したクルグス人、後者は本来のそれという使い分けがあることは知らなかった。

(明石書店 2011年10月)

侯外廬/趙紀彬/杜国庠 『中国思想通史』 第1巻 「古代思想」

2012年01月24日 | 東洋史
 『墨子』の思想的貢献を、矛盾律の発見および明確な認識に求めているのは目新しい(というか、こののちあまり注目されていない)点である。むろんこの矛盾律は西洋形式論理におけるそれであること、言うまでもない(注)。このことは文中でも明言されている(241頁)。ちなみに、このシリーズ全5巻6冊を通じて、論理(逻辑)とは、ただひとつの例外もなく、西洋形式論理学のそれを意味している。ただしときに認識論の意味をも含む場合もある。

 。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』のなかで、マテオ・リッチが、古代漢語によくある「甲は乙であり、而して乙でない」を、西洋語に訳するに当たって、そこをとばして意訳したというエピソードが紹介されている。形式論理では「AはBである」と同時に「AはBでない」というのは矛盾であり、ヨーロッパの読者に理解してもらえないとリッチが慮ったからだろうと、平川氏は推測している。おそらくそうであろう。リッチは17世紀の人である。紀元前にあった矛盾律の概念が、まさに「枯死」(津田左右吉)し、その後ながらく中国では存在しなかったということである。一つの言葉をちがう意味で使用するのはレトリックとしては面白いし、中国では伝統的にこのレトリックを多用しているのも事実だが(おそらく対句の多用と関係があろう)、論理として見たときにこの論法が破綻していることは、常に念頭に留めておく必要があろう。日本語でもわりあい見られるレトリックである。これをやると問題の論点が逸れて、それ以上分析ができなくなる。現代中国人と対話が困難な大きな理由の一つは、彼らですら往々にしてこの矛盾律を完全に理解していないところにある。こう言えば思い半ばに過ぐる方もおられよう。
  
 ただ、この巻で残念なのは、墨家の論理学を説きながら、言及される『墨子』本文を見る限り、論理編ともいうべき「経篇」上下、「経説篇」上下、および「大取篇」「小取篇」からの引用がほとんどないことだ。孫詒譲の解釈の危うさを暗黙のうちに示唆しているのか、あるいは単純に著者たちには荷が重かったのか、どちらであろうか。とまれ、その埋め合わせのためであろう、ヘーゲルの弁証論の紹介と、それに照らして『墨子』の論理学がいかにヘーゲルのそれに近いものであったかの説明が、縷々くり広げられる(249-251頁)。

(北京 人民出版社 1957年月)

「『中国はグローバルリーダーになれない』 デービッド・カン教授インタビュー」

2012年01月24日 | 現代史
▲「Chosun Online | 朝鮮日報」2012/01/24 08:55、金信栄(キム・シンヨン)特派員。 (部分)
 〈http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/01/24/2012012400117_2.html

 「中国が改革開放を推進して以来30年もの間、中国の価値観とは『裕福になろう』というものだった。中国人は実際に以前よりもはるかに豊かになり、プライドも回復した。一方で『尊敬される大国になるためには、富の増加ではなく、多くのものが必要だ』という点を考える次の段階に進んだと言える。中国政府は最近、『価値』『文化』という単語を頻繁に使っている。孔子を再び引き合いに出し、国家の文化的象徴のように宣伝している例が代表的だ。しかし、平和と調和を唱える孔子は、国民を抑圧する今の中国政府には似合わない。中国的価値観と見なすには十分ではない」

 孔子を持ち出すのは苦し紛れという見方は面白い。

徐霞客著 周暁薇等訳注 『徐霞客遊記』

2012年01月23日 | 東洋史
 この書の大抵の紹介は、傑出しているとほめあげるばかりで、具体的な優れた特徴については書いていないことがおおい。
 そのなかではこの「簡介」は、如何に伝統中国の旅行記のなかで傑出しているか、その点の列挙がなされている。しかしそれは何故かの分析が全くない。
 あの着実精確な観察眼と客観に徹した文体(私にいわせれば時代離れしていると思う)がいかにして生まれたのかを、不思議に思わないのだろうか。読んで頭に情景の描ける叙事文言文って、とてつもなく凄いことではあるまいか。
 これは、部分注および現代中国語訳である。原著を読むことにする。原文が極めて平易だから(これはこの本の客観描写に関わってくることだが、故事成語の使用や比喩・誇張表現が極めて少ない)、さして困難はあるまい。

(「中国名著選訳叢書」89、台北、錦繍出版事業股份公司、1992年10月)