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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

いまは言わなくなったようだが、中国“6000年”の歴史と呼号していた時分は・・・

2018年10月04日 | 思考の断片
 いまは言わなくなったようだが、中国“6000年”の歴史と呼号していた時分は、黄河中流域が中国人の発祥の地であると平気で口にする人がいた。それを聞いて最初少数民族は無視かと思った。だが中華民族は“格局”的に漢民族と少数民族の融合した多元にして一体だから、無視してはいないという理屈だろう。

「デマを容認するのかしないのか」という問いは、いかなる意味においての・・・

2018年10月02日 | 思考の断片
 「デマを容認するのかしないのか」という問いは、いかなる意味においての政治的色彩をおびているところの、あるいは本質はそれだがそうでないように擬態しているところの情況と、その企画者や実行者にとり、永遠の課題であり、外部からはその真価と真摯さの試金石であるだろう。

冒頭の大先生の総論にして導論を兼ねる論文を除き、後の各論が頭悪そう・・・

2018年10月02日 | 思考の断片
 冒頭の大先生の総論にして導論を兼ねる論文を除き、後の各論が頭悪そうもしくは知的関心の薄そうな人々によって書かれた地域研究論集を読んだ。“言語篇”と掲げながら全体のテーマがなく論題がばらばらで、思索も狭く浅くて研究ノートか綴方のよう、「とりあえず形に纏めればそれでいい」という作り手の知的退廃が窺われて恐ろしい。これで“新たなる某地域の研究”と銘打つのだからさらに恐ろしい。このシリーズは“文学篇”、“歴史篇”とあと2冊あるのだが、起死回生の一発はあるのか。
 否、御本人たちがそれで別に問題を感じておられないのならば(だから出版したのだろう)、起死回生も糞もあるまい。他人の疝気を頭痛に病むとはまさにこのこと。

あるコンラッドの評伝を読む。・・・

2018年09月25日 | 思考の断片
 あるコンラッドの評伝を読む。彼の作品の英語が難解もしくは晦渋とされるのは、英語はポーランド生まれの彼にとっては外国語で、それも一番後から学んだ、つまり一番不得手で下手だったからとは言うたらアカンのか。語感がぼけたりずれたりしているのがそのまま文体に反映しているのではないか。

中野好夫『蘆花徳富健次郎』を読む。

2018年09月18日 | 思考の断片
 中野好夫『蘆花徳富健次郎』を読む。蘆花の一生と行蔵については私にも自分なりに粗々ながら予め知るところがあり、その上でこの作品を繙くとは、私のその既知の知識の再確認もしくはさらなる詳細を知るということになるわけだが、了えて、「この作品を読む意味はそれだけか」という気がした。
 ここにあるのは、筆者の主観で濾過され(蘆花の地口ではない)その価値判断によって裏打ちされた事実を、恰も客観的なもののように、ときにそれが生の事実であるかのように供される違和感である。ただこの点については、私個人の文章感覚や、評伝というジャンルにたいするとらえ方にもよるだろう。さらには、現在における評伝というもののあり方が、中野大人の時代とはもしかしたら変わってきていることもあるかもしれない。

ある英語で書かれた論理学の本に、「言語は違っても人間の論理は変わらない。・・・

2018年09月17日 | 思考の断片
 ある英語で書かれた論理学の本に、「言語は違っても人間の論理は変わらない。例えば日本人の論理学者の研究は白人のアメリカ人学者のそれとほぼ同じである」というくだりがある。この書は英語で書かれており、材料は英語である。説かれていることは、英語の論理に関して正しいのだろう。

「エミリーに薔薇を A Rose for Emily」と「アルジャーノンに花束を Flowers for Algernon」

2018年09月17日 | 思考の断片
 「エミリーに薔薇を」の場合、訳者が来日した原作者に原題の真意を尋ねて、「そうでもしないとエミリーがかわいそうだから」という“理由”の回答を得てこの邦訳名にしたと訳者の後書きで書いてあったと記憶するが、「アルジャーノンに花束を」の場合も原題ともに同じ理由だろうか。
 内容・構成の類似を指摘するエッセイを見かけた。下記。

"Comparing Short Stories of "The Flowers" and "A Rose for Emily"" Essay Example | Hstreasures
https://hstreasures.com/comparing-short-stories-of-the-flowers-and-a-rose-for-emily-47098/

ある東欧文学の邦訳、ときにハリセンの入りそうな講談・・・

2018年09月17日 | 思考の断片
 ある東欧文学の邦訳、ときにハリセンの入りそうな講談あるいは新派新劇の口調を交えて(とくに科白部分)、全体に明治から大正の文章日本語(とくに漱石また芥川)に近似しているのは、それが19世紀に書かれたことと、またそれがその国の近代語の規範の一となったという歴史を踏まえての選択だろうか。自分がこのたびの仕事で試みている技法と偶然あるいは必然的に重なる部分があり、非常に興味深く、教えられる。またそこに在る結果のなぜそうなっているのかの原因を帰納すること、またそこにはないが論理的に当然そうなるべき結果を演繹することで、間接的にさまざまな角度からヒントを受けた。

ゆく夏に

2018年09月12日 | 思考の断片
 今年の夏は、美味しい白茶に当たることができたことが大きな幸福の一つである。白茶は、茶杯に直にいれて湯を注ぎ、葉が下に沈むまで気長に待って飲むのが自分にはいちばん美味しく思えることを再確認した夏でもあった。
 さらにまた、日本の緑茶のなかにも、急須や茶漉し付き茶杯ではなくこの中国白茶と同じ淹れ方をしたほうが美味しい(私には)ものがあることを発見した。湯を注いだあと底に沈む茶葉でないと駄目だが。

お年を召すと理屈が通じなくなるのだなと実感させられる例を、外出先で・・・

2018年09月12日 | 思考の断片
 お年を召すと理屈が通じなくなるのだなと実感させられる例を、外出先で目の当たりにした。言動が支離滅裂なのは、たったいまご自分が言ったことや為たことを忘れておられるか、憶えていても気分もしくは性格、もしくは人格が変化するせいかと思える。高齢化社会が進むとはこの現象が至る所で見られるようになる、いなむしろ常態となるということだろうかとふと考えた。そして自分がそうなることはむろん十分に考えられることだとも。
 そういう状態に立ち至ったひとは、こちらがいちいちまともに相手にしていると実現不可能な無茶苦茶をそのまま実現するべく強いてくるし、できないと言うと激情に任せて平気で無礼な言動にも及ぶので、理も非もない感情だけの相手にはそれ以上の量と程度の感情をぶつけて怯ませるしかないのかもしれないとも考えさせられる。私は一度やってしまったことがある。
 ひとは老いると幼児に戻るという。成程いわゆる魔の3歳児に似通う所があると見ていて思った。しかし正真の3歳児にはこれから昇る一方の熾んな生命の輝きと美とがあるが、己の人生の収穫を終えて人生を下ってゆく老人が同じ事をするのは、その人自身には如何ともし難いことかもしれないものの、一種無残さを感じさせた。