goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

アホバカ間抜け「人民網」

2009年03月31日 | 抜き書き
▲「人民網日本語版」08:09 Mar 31 2009、劉迪「日本はどうして中国に侮られるのを恐れるか」 (部分)
http://j.people.com.cn/94474/6625847.html

 「チャイナネット」2009年3月30日。

 日本のマスコミが中国を報道する際にはある価値観に導かれ、「自分たちの考えは正しい」というイデオロギーに束縛されている。日本の世論や国民も中国の全体目標や外交政策に対する理解が足りず、このことも「中国にバカにされるな」という気持ちの主な原因になっていると思われる。

 ははは、それはあなた方のほうだろう。だいいち実際バカにしているではないか。『NOと言える中国』などそのいい例である。それともまた左派の原始的ナショナリズムに基づく工作指示がでて、「世界の中心、昇る巨竜、近未来の超大国たる中国は落日の日本をどう見ているか」式の傲慢・鈍感な対外宣伝路線が復活したのか?

アホバカ間抜け「中央日報」

2009年03月30日 | 抜き書き
▲「中央日報 Joins.com」2009.03.30 10:17、「【社説】韓国の気概をより高めた金妍児の快挙」 (部分)
 〈http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=113281&servcode=100§code=110

 2009年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)準優勝の感激がさめやらぬ前にもうひとつの価値ある戦勝の知らせを伝えたことで、金妍児は経済危機に陥った大韓民国の国民に大きな慰安とうれしさをプレゼントした。

 江戸の仇をそもそも長崎で討てるわけはないし、それに、「進路妨害」発言とその波紋を頬被りで済ませられると思うところが、たまらなく脳たりん。

 われわれは韓国人の気概をより高めた金妍児の快挙に惜しみない拍手を送る。

 だいいちお前が優勝したんじゃないだろ! キム・ヨナの栄光は彼女だけのものだ。

H・ニコルソン著 斎藤真/深谷満雄訳 『外交』

2009年03月30日 | 抜き書き
 十八世紀まで、外交の共通言語すなわち lingua franca はラテン語であった。〔中略〕ウエストファリア条約(一六四八年)、一六七〇年のイギリス・デンマーク条約および一六七四年のイギリス。オランダ条約などの条約はすべて、ラテン語で起草され、署名された。これが事実一般の慣行であった。 (「第十章 外交用語」 本書216頁)

 1689年にロシアと清の間で結ばれたネルチンスク条約の正文がラテン語であったのは、それが当時のヨーロッパの外交慣行だったからだろう。

 フランス語は、一八世紀の半ばまでに、名目はともあれ、外交の公式用語として確立された。一八一五年のウィーン会議と一八五六年のパリ会議においては、議事の進行は終始フランス語で行なわれた。〔中略〕フランス語が至上性を保持したのは、会議や集会においてばかりではなかった。通常の外交交渉も、ヴェルサイユ条約の時までは、ほとんど専らフランス語で行なわれていた。英語が共通語となっていた極東は、この原則にたいする例外であった。 (「第十章 外交用語」 本書216-217、218頁)

 そういえば、日清戦争の講和交渉も英語で行われた。

(東京大学出版会 1965年10月)

櫻井よしこ/金両基 『日韓歴史論争 海峡は越えられるか』

2009年03月30日 | 東洋史
 再読。

〔江戸時代から明治時代にわたる〕ロシア脅威論は日本の膨張政策を繕うための口実であり、日本の過剰防衛、過剰反応ではないか (金両基「あとがき」 本書336頁)

 言葉は疑問形だが、意志は断定である。日本の朝鮮侵略はいかなる正当な理由もどんな弁護の余地もない、全き悪という結論に導かんがためには決して譲ることのできない無謬の前提、鉄壁の信念。だから櫻井女史に何をどう反論されても聴く耳を持たない。信念なら議論するのは無意味。

(中央公論新社中公文庫版 2002年6月)

高島俊男 『中国の大盗賊・完全版』

2009年03月28日 | 東洋史
 元版よりはるかにおもしろい。毛沢東の部分を全部削ったなどと、著者が「あとがき」で指摘する元版出版当時(1989年)の情況や、さらには商業的な成績を考えにいれずに純粋に著作としての内容だけを問題にするとき、正気の沙汰とは到底思えない。

(講談社 2004年10月)

司馬遼太郎 『この国のかたち』 五

2009年03月28日 | 抜き書き
 姜は李氏朝鮮の官僚であり、朱子学者でもあった。
 その滞日記録である『看羊録』は、華夷という著者の意識が、地模様のように浮き出ている。朝鮮は文明であり、日本は野蛮ということである。実態がそうだというより、型としてそうなっている。
 むろん秀吉が朝鮮に侵寇したから日本は野蛮だということだけではない。そのことを越え、礼教(儒教)の型として、姜にとって動かぬものらしい。潜在的には、いまも韓国・朝鮮の人達はそう思っているのではないか。 (「114 看羊録(二)」 本書155頁)

(文藝春秋 1996年3月)

王勇 『中国史のなかの日本像』 から

2009年03月28日 | 東洋史
 〈http://www.japanology.cn/japanese/book/nihonzo/index.htm

 東京大学史料編纂所に現存する『倭寇図巻』は、一六世紀の倭寇を描いた絵画として、もっとも信頼度の高いものとされる。高さ三二センチ、長さ五二二センチの絹本著色の絵巻に、倭寇船の出現・倭寇の上陸・倭寇の集合と攻撃目標の確認・倭寇の略奪と放火・明人の逃亡と避難・明軍と倭寇の水上遭遇戦・明軍大部隊の出動・明軍の勝利という各場面がリアルに描かれている。
 画中に描かれた倭寇は、頭を月代に剃りあげ、刀を肩にかつぎ、赤や青の「斑衣」を身にまとい、半裸にして裸足となっており、文献資料の描写とほぼ一致する。
 このように描かれた倭寇像は、固定化し類型化してしまうと、そのまま日本人像となり、倭寇は野蛮な日本人であり、残虐な暴徒であるという概念を中国に定着させた。さらに倭寇の暴行から、日本人は生まれつき強盗を好み殺人を嗜むと類推される。
 たとえば、葉向高の『四夷考』(日本考)に「俗は盗を喜び、生を軽んじ殺を好む」とあり、薛俊の『日本考略』には「狼子の野心、剽?はその本性である」とみえ、また卜大同も『備倭図記』のなかで「島をもって居と為し、舟をもって馬と為し、刀鋋を習って抄略するのは、その天性である」と断言して嘆いている。  (「第七章 海彼の寇 第二節 仮面と本性 2,残虐な暴徒」)

 著者について。 

※王勇先生プロフィール:浙江工商大学日本文化研究所所長・教授、早稲田大学日本宗教文化研究所客員教授。中国における日本古代史研究の第一人者。 著書に、『聖徳太子時空超越』(大修館書店)、『天台の流伝』(山川出版社)、『唐から見た遣唐使』(講談社)、『中国史の中の日本像』(農文協)、『おん目の雫ぬぐはばや』(同)、編著『奈良・平安期の日中文化交流』(同)など多数。
 ([[[SDC ANGELOS]]] から)

(農山漁村文化協会 2000年10月)