書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

中川毅 『物理学ロシヤ語の読み方』

2018年08月26日 | 自然科学
 国立国会図書館サーチ http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001120421-00

 アマゾンで見たら信じられないくらい安い値段がついていたけれども、これはたいへん面白いし訳に立つ。英語と比べて露語はメディアの文体でも概して文学的というか衒学的なところがあるが、物理学の文章はひょっとしたら英語以上にplainで実用本位かもしれない(=修辞のまったき排除、完全に論理のみに注力、言葉はほとんど記号のよう)ことを知って学べる。

(大学書林 1969年12月)

姜生著 三浦國雄訳 『道教と科学技術』

2018年04月19日 | 自然科学
 出版社による紹介

 「一言でいってしまえば道教は科学とは呼べないし科学的とも言えないし基本駄目なんだけれど、それを言わないことにすればこんなにいいところがある!」という論法。

(東方書店 2017年7月)

森千里 『鴎外と脚気 曾祖父の足あとを訪れて』

2018年04月14日 | 自然科学
 高木兼寛との脚気論争では鴎外を擁護する。具体的には鴎外責任説を流布した対象の批判というかたちをとり、某小説作品がやり玉に挙げられる。個人的には、板倉聖宣先生の『模倣の時代』の名が出ず、この書がここでも専門家による評価を受けないのが、残念ではある

(NTT出版 2013年1月)

スティーヴン・オッペンハイマー著 仲村明子訳 『人類の足跡10万年全史』

2018年01月28日 | 自然科学
 出版社による紹介

 そのほかの部分は素人でわからないが、そして以下の部分はどちらかといえばこの著のなかでは枝葉末節に属する所なのだが、「プロローグ」の言語の起源と発生に関する議論で、それと断りなしにチョムスキーとピンカーのみ(つまり生成文法論のみ)に言及するのは、これはどうなのかなと思う

(草思社 2007年9月)

「『入門! 進化生物学』/小原嘉明インタビュー」 web中公新書

2018年01月07日 | 自然科学
 http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/098388.html

 読んでみた同著は、各章の冒頭に同章の意義と目的とを記し、終わりにその章の議論の「まとめ」を付し、全巻末の「あとがきにかえて」で“本書全体の要約を追記”(著者の言葉)するという、透徹した構造を持つ。

緒方富雄 「緒方洪庵『扶氏医戒之略』考」

2017年12月13日 | 自然科学
 『蘭学のころ』(弘文社 1950年10月収録、同書253-300頁。もと『鉄門』第3号、1926年12月掲載の注記あり。
 副題「蘭学者の語学力について」。

 緒方洪庵と杉田成卿両訳の比較検討からその優れた点また欠点の指摘へとおよび、それらの背景と原因を、当時の蘭学者が生きていた社会の状況と、ひいては日本国家の存在していた環境に宛てて、その答えを求めようとするものである。

 著者の緒方富雄氏(洪庵の曾孫に当たられる)は、日本人のそれも一般人にもわかる翻訳を眼目として、その訳は自然平易を旨とし、ときに意訳・省略も辞さない(現にその訳名も「扶氏医戒之略」である)、一方の杉田成卿のそれは原文の内容と文体をいやしくも忽せにしない謹厳にして厳格な訳風とそれぞれを形容したがいに対置したうえで、それぞれにそのゆえの長所と短所があることを、実例を引き、そのいちいちにフーフェランドの原文を提示し、著者本人の現代日本語訳を添えた上で分析してみせる。(ちなみに両訳の関係は後者が前者に先行し、前者は後者を参照したという関係にある。)
 洪庵・成卿両者の訳の長所は今述べたとおりで、あるが欠点もまた、その裏返しとしてある。すなわち洪庵訳は明快であるが反対にいえば日本人にとってなじみのない、あるいは読者としてまずだいいちにその対象となる医者・蘭学者には不必要(と洪庵が判断した)部分は内容が改変もしくは省略されていることである。それとはまさに対照的になるが、成卿の訳は、あくまで全訳を目指した結果(題名はたんに「医戒」)、これらの、日本人読者には不可解あるいは無用な部分がそのまま訳出されて読解の妨げとなっているということである。さらに云えば、後者は訳文が蘭語に引きずられて日本語としても難解となっている。
 そのうえで著者は、両者に共通する欠点ありとしてそれを指摘する(296頁)。それは、主として二点から語られる。
 つまり、
 1、異国の風俗・文明に対する知識の欠乏。
 2、熟語・成語の誤解。
 である。
 1は原文の文化的・社会的文脈の無知による誤訳あるいは訳出不能(と結果としての省略)を意味し、2は語学力の不足による誤訳であり、そしてこれは1と問題の根本において関連するが、両人のオランダひいては西洋事情についての知識の不足あるいは欠乏からする原文への無理解によるものである。1・2の両点とも、オランダ語の熟語・成語の誤解が、やはり実例をもって指摘される。

 その議論と例証のなかで、私にとりとりわけ興味深かったのは以下の2例である。
 まずひとつ目は、
 成卿の訳を踏まえた洪庵訳にしてやはり成卿訳とおなじく、"mensch"を「病者」と訳している事実である。著者によればこれは病人もしくは患者と限定的具体的に捉える(訳す)べきではなく、「人」もしくは「人間」と、概括的な意味として理解し訳出すべき語であるという(200頁)。
 同様な指摘はもうひとつあり、成卿訳は原文のbeschouwing der zakenを「診察の法」としているが〔注〕、この語はもっと一般的な「物の見解、意見」というくらいの意味だと緒方氏は言う(286頁)。

 。このあたりの原文個所は洪庵訳では省略と意訳がはなはだしいが「扶氏医戒之略」では「自得の法」に当たるらしい。

 この両者の例に共通する特徴は、「これらの名辞のもつ一般的・抽象的なカテゴリーを訳者が理解していないか、していても日本語として訳出しなかった」ということである。

余論
 1.mensch=病者の翻訳について。杉本つとむ氏が解説を付けられた杉田訳『医戒』(社会思想社 1972年1月)では、杉本氏は、このmenschを御自身の解釈および現代語訳においては「人」と訳したうえで、杉田がそうしなかったのは、杉田の日本語では――杉本自身もそうであるが――、意味が抽象的で訳しづらかったのではないかという、すぐれて文体論的見地からの洞察を加えられている。同書152-153頁。
 2.beschouwing der zaken=診察の法の翻訳について。同じく杉本氏は「診察の方法」とされている。同書、88頁。

山田慶児 「朱子の天文学(下)」

2017年07月22日 | 自然科学
 『東方学報 京都』40、1969年3月掲載、同誌115-159頁。原文旧漢字。

 「演繹的に推論する思考の習慣」が、伝統的に中国の人間には決定的に欠けていたと書いてある。145頁。

 その欠如は機械学=力学の成立をはばむ重要な要因であったように思われる。
 (145頁)

 思考法にかんしてもうひとつつけ加えておけば、運動する物質と運動させる力(エネルギー源)とを区別しない思想風土においては、やはり機械学=力学は成立しないだろう、ということである (同頁)

山田慶児 『混沌の海へ 中国的思考の構造』

2017年07月08日 | 自然科学
 ここに収録された論考類のどれも興味深くかつ面白いが、とくには「空間・分類・カテゴリー」(注記によれば初出『展望』1975/10月号)に私としてはまず第一に指を屈する。ただ、その議論は、案外、具体的な論拠には基づいてはおらず(論理展開と行文が証明上必要とするに十分といえるほどにはという意味)、かつその論理(思考)も、また用いる分析概念も、こんにちの近代(=西洋化された)人たる我々のそれ(空間も、時間も、分類・カテゴリーも)である。そこに疑問はなかったのだろうか。著者が末尾で述べる著者自身の結論とはやや異なって、タイトル副題に示される“科学的思考の原初的、基底的な形態”の「科学」は西洋の科学であり、「原初」「基底」ともに、近現代からの評価であろう。

(筑摩書房 1975年10月)

渋谷研究所/菊池誠 『信じちゃいけない身のまわりのカガク』

2017年05月28日 | 自然科学
 本書31頁の「科学・未科学・ニセ科学とオカルトの4段階」の図が、私にとってはこの本のキモ。図では下から、オカルト(・迷信・おまじない)→ニセ科学→未科学→科学の4段階となっているのだが、科学とそれまでの3段階とを分かつのは“根拠のかわりの信念の存在の有無”、“仮説の有無“、“検証の有無もしくは可不可”である。最高位にある科学も、第三者による追試で否定されると、さきの3段階同様、「間違った科学」になってしまう。

(立東舎 2017年2月)

G. スティックス 「生まれながらの協力上手」

2017年05月04日 | 自然科学
 『日経サイエンス』2014年12月号掲載、編集部訳、同誌88-96頁。

 チンパンジーは推論能力テストにおいては人間の幼児と同じ程度の高得点を上げるが、人間のように複雑な社会を築けないのは彼らが大集団での協力をしないためだとして、その原因の一つとして、チンパンジーをはじめとするサルは、ヒトが進化させたある社会的な技能を欠く、つまり他者が考えていることを直観的に理解する能力を持たないからだと言う。つまり忖度の能力の有無である。