“日本を含む東洋の宗教においては、宗教改革をつうじての「呪術からの開放」は達成されませんでした。日本に伝統的に存在してきた諸宗教からは、西洋のプロテスタンティズムの倫理のように近代思想の担い手となるものはあらわれなかったのです。それどころか、日本で一九七〇年代いらい発展のいちじるしい「新新宗教」と呼ばれる新興宗教諸教団では、まさにそれとは反対の非合理的な呪術や「超能力」の隆盛が見られ、そして驚くなかれそれらの非合理的要素は、ある宗教学者によって「ポスト・モダン」の名によって語られているのです(島薗進、一九九二)。これらの新宗教をもしポスト・モダンであるというなら、日本の宗教においては「モダン」はついに実現されないまま解体にむかい、そのあとにポスト・モダンという名のプリ・モダンがまかりとおっているといわねばなりません。” (「第二十九章 ポスト・モダン」、本書460-461頁)
“ポスト・モダン論を文化の側面における「反近代」のテーゼとして限定すれば、それは支持されうるということになるでしょうか。” (同上、本書462-463頁)
つまり「ポスト合理主義」に非ず「アンチ合理主義」もしくは「没理性」。
退化のすすめを支持などできず。
(講談社 1996年1月)