書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

カール・バーンスタイン/ボブ・ウッドワード著 常磐新平訳 『大統領の陰謀』

2005年08月30日 | 政治
 『The Secret Man』(→7月8日)の続き。
 原題は言うまでもなく『All the President's Men』。
 ウォーターゲート事件について知識の整理をしてみる。

1.『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 「ワシントン・ポスト」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88
 「ウォーターゲート事件」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2.「国際ジャーナリズム論(番外編)」より

 隅井孝雄 「第14回 名乗り出たディープスロート、揺らぐ情報秘匿原則」 (2005年7月14日)
    http://homepage2.nifty.com/sumee/journalism0514.htm

3.抜き書き

“「さて、ホールドマン〔引用者注。ハリー・ホールドマン(ハルデマン、ないしハルドマン)。大統領主席補佐官〕の問題ですけれど」とグレアム夫人〔引用者注。キャサリン・グレアム(グラハム)。ワシントン・ポスト社主〕は言ったが、その話を聞きたいのか自分でもわからないようだった。
 ウッドワードはフォークをおいて、彼とバーンスタインがスローンの大陪審の証言でおかした失敗を話した。
「でも、こちらが正しいという自信はあるの?」。この質問には、これまでの会話に欠けていた熱気がこもっていた。「ヘンリー・キッシンジャーと話したことを忘れません」と夫人はつづけた。「彼は私のところにやってきて、こう言いました。『どうしたんですか、われわれが再選されないとでもお考えですか? ホールドマンについては、あなたがたの間違いですよ』って。それから、彼は腹をたてたのか、じつにひどい濡れ衣だといった意味のことを口にしました」” (「最高刑のジョン」 本書343頁)

 ニクソン政権下のウォーターゲート・スキャンダルにおいて、ヘンリー・キッシンジャー(大統領国家安全保障担当補佐官、のち国務長官)は比較的“きれい”だったと言われている。本当か否か、あるいはどう“きれい”だったのかということに興味がある。
 con 側の主張は同じ著者の続編『最後の日々』を読まねば十全とはいえない。pro 側の主張として最低キッシンジャー自身の証言(『キッシンジャー激動の時代』など)も聴かないと片手落ちになる。今は意見なし。
 あらためて驚いたのだが、当時(1972年)、バーンスタインは28歳、ウッドワードは29歳の若さだった。

(文藝春秋文庫版 1980年11月)

4.マザー・グース「ハンプティ・ダンプティ」

  ハンプティ・ダンプティが 塀の上  Humpty Dumpty sat on a wall,  
  ハンプティ・ダンプティが おっこちた  Humpty Dumpty had a great fall;  
  王様の馬みんなと王様の家来みんなでも  All the king´s horses, and all the king´s men,
  ハンプティを元には 戻せない   Couldn´t put Humpty together again.
    (日本語訳は『Wikipedia』「ハンプティ・ダンプティ」項による)

今週のコメントしない本

2005年08月27日 | 
 休み明けは辛だるくて、冗談を言う気になりません。

①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  清瀬一郎 『秘録 東京裁判』 (中央公論新社版 2002年7月改版)

  五百旗頭真 『米国の日本占領政策』 上 (中央公論社 1985年9月)

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本
  上遠野寛子 『改訂版 東南アジアの弟たち 素顔の南方特別留学生』 (暁印書館 2002年2月)
 
  厳安生 『日本留学精神史 近代中国知識人の軌跡』 (岩波書店 1991年12月)

  井上勲編 『日本の時代史』 20 「開国と幕末の動乱」 (吉川弘文館 2004年1月)

  蓮池透 『奪還 第二章 終わらざる闘い』 (新潮社 2005年2月)

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本  
  武田篤司 『物語「京都学派」』 (中央公論新社 2001年10月)

  尾佐竹猛 『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』 (講談社学術文庫版 1989年12月)

  鳥井克之 『中国文法学説史』 (関西大学出版部 1995年3月)
  井波律子 『中国人の機智』 (中央公論社 1983年5月) (再読)
  井波律子 『中国的レトリックの伝統』 (講談社学術文庫版 1996年8月) (再読)
  野崎昭弘 『詭弁論理学』 (中央公論社 1980年11月19版) (再読)

④つまらなさすぎて感想も出てこない本
  フランツ・ボルケナウ著 水田洋訳者代表 『封建的世界像から市民的世界像へ』 (みすず書房 1985年8月第8刷)

  岳真也 『福沢諭吉』 全3巻 (作品社 2004年8月・2004年12月・2005年6月)

⑤出来が粗末で感想の持ちようがない本
  該当作なし

⑥余りに愚劣でわざわざ感想を書くのは時間の無駄と思ってしまう本
  該当作なし

⑦本人にも分からない何かの理由で感想を書く気にならない本 
  該当作なし

 今日は仕事がありますのでこの辺で。

神田乃武編 『神田孝平略伝』

2005年08月26日 | 伝記
慶應義塾大学経済学部小室正紀研究会ウェブサイト「日本思想家百選」より
http://seminar.econ.keio.ac.jp/komuro/sisouka/100.html

神田孝平(かんだ たかひら) (1830~1891)

職業: 洋学者、啓蒙思想家、官僚
代表的著作: 『経済小学』(1867)など
解説:

神田は漢学・蘭学を素養とし、政治・経済・法律・数理・文学・人類学・天文学に通じた人物であった。慶応3年(1867)には、エリスの『経済学説』を翻訳した『経済小学』を発表し、西洋経済学を世に紹介した。その後1870年に、西洋経済思想に基づいて公議所に行った税法改革の建議『田租改革建議』は地租改正に大きな影響を与えた。 1871年、兵庫県令に任命され、1874年には全国に先駆けて兵庫県会を開いたほか、県庁機構の整備などで、名県令とうたわれるようになった。また、神田は福沢諭吉と同様に『西洋事情』の中で、外国の特許制度を紹介し、日本における特許制度の重要性を説いている。彼は当時、海外との交易をはじめたばかりの日本にとって、国内の利益を守るだけでなく、外国との貿易の中で国益を守るためにも、法制度の整備は不可欠であるとも説いている。そして、神田は一例を出し、もし特許制度があれば伝習者が保護され、国家富強の源になることを提言し、それは実現されることとなった。

 神田孝平は、今泉みね『名ごりの夢』(→1月15日欄)に姿を見せる、幕末の幕府蘭方医官桂川家に出入りしていた洋学者の一人である。
 彼の名は武田楠雄『維新と科学』(岩波書店、1972年3月)にも出てくる。

“彼ら(神田を含む洋書調所の数学教授担当者)のもっていた数学自体の実力はわずかで、巷で町人を相手に算数の師匠をしたのではおそらく「めしが食えなかった」だろうが、「洋学」に通ずる彼らは、ヨーロッパ流に、つまり物理。測量らヨーロッパ諸岳と数字・数式・表現において共通の場をもつヨーロッパ算術の初歩を自得し、これを教えたのである” (『維新と科学』、150頁)

 この『神田孝平略伝』の末尾には著書一覧には神田が幕府開成所(洋書調所の後身)の数学教授時代に作成した数学教科書(『数学教技本』・明治元年)も収められている。そこに附された梗概を見ると、「加減乗除ノ四則及ビ分数ヲ作ル法ニ至ルマデヲ説明シアリ」とあり、なるほど「ヨーロッパ算術の初歩」であって、武田氏の評するとおりである。
 たとえ、故人の顕彰を旨とするこの伝記が、「文久元年翁ヲ数学教授ニ任ズルニ及ンテ始メテ諸科備ハレリト云フ。翁ノ数学ニ精通セル世人当時ノ大家鵜殿団次郎氏ト並ビ称シタリトイフ」(本書 12頁)などと口を極めて賞賛しても、事実は武田氏の言うとおりであったろう。

 「神田孝平とは何か」を一言でいえば、つまりは時代の一点景にすぎない。
 彼は江戸・明治の二つの時代を通じて常に体制側に身を置く、地味で堅実な官僚として一生を終始した。歴史上ではそれだけの存在である。
 しかし、歴史における重要度とその人物がどういう人間であったかとは関係がない。
 この伝記が浮かび上がらせる神田孝平の人物像は、広く知られることの薄いこの人物が後世わずかに持たれている印象――例えば、岳真也『福沢諭吉』(全3巻、作品社 2004年8月・2004年12月・2005年6月)において描かれるような、ただ時勢のままに流されていく技術屋――とは、かなり異なっている。

“今日ノ国是ハ智識ヲ宇内ニ求メテ皇基ヲ無窮ニ振ヒ広ク衆ニ詢(はか)リテ万機ヲ公論ニ決セザルベカラズ。近頃幕府ノ為ス所ハ悉ク私ヲ営ムニ在リテ国事ヲ談ズルニ足ラズ。夫レ天ニ二日(にじつ)ナシ。豈一国ニ二主(にしゅ)アルベケンヤ。然ルニ無為無能ノ幕府ハ敢テ政権ヲ維持セント欲ス。大義名分地ニ墜チタリト謂フベシ。是ヲ以テ余ハ断然新政権ニ入リ君国ノ為メニ誓ツテ事ヲ為サントス。世間未ダ余ノ心事ヲ知ラザル者必ズヤ非議ヲ逞シクセン。然レドモ毀誉褒貶ハ余ノ関スル所ニアラズ” (本書14頁)

 神田の上の言葉は、明治元年六月、明治新政府からの招聘を受諾して京都へ発つ際に発したものである。当時彼は、開成所の御用掛(総裁)の職にあった。彼はこの地位――そしてそれに伴う安定――を抛ち、発足早々で先行きが当時いまだ不透明な新政権に参加した(同時期に同じく招きを受けた福沢諭吉は、これだけが理由ではないが新政権の存続を危ぶんで辞退している)。果断と言える。またこの言動から、彼がおのれ一個の信条を持ち、ぎりぎりの切所ではそれにのみ従って出所進退を決する人間であったこともわかる。神田は勝海舟と同じ種類の勁さを裡に秘めた人物だったらしい。
 さらには面白い人でもあったようである。少なくとも私の眼にはひどく興味深い性格の持ち主と映る。

“翁ガ蕃書調所〔引用者注・洋書調所の前名〕ニ於テ教鞭ヲ執ルヤ未ダ黒板ノ設アラザレハ自ラ工夫ヲ凝ラシタル末雨畑石ノ粉ニ硝煙ヲ混シ姫糊ニテ溶液カシ之ヲ襖ノ紙面ニ塗リ又蝋石ヲ以テ白墨ニ代ヘ字消ニハ海綿ヲ用ヒ之ヲ以テ「ブラックボールド」ニ代用シタルハ当時大ニ人ノ推服スル所ナリ” (本書12-13頁)

(非売品 1910年7月)

上山春平 『上山春平著作集』 3 「革命と戦争」

2005年08月25日 | 日本史
 図書館から借りて、第3部「大東亜戦争の遺産 不戦国家への理念」を読む。
 先の戦争を“太平洋戦争”と呼ぶなかにある「さもしい気持ち」。敢えて“大東亜戦争”と呼び続け、“あちら側”ではなく“こちら側”の立場であの戦争の個々の事実の意味を突き詰め、敗北の結果を反省する立場を貫くことで得られるであろう「ある種の貴重な英知」。
 単行本の『大東亜戦争の遺産』(中央公論社 1985年)を購入してじっくりと読みなおすことにする。

(法蔵館 1995年11月)

廣松渉 『〈近代の超克〉論』

2005年08月25日 | 日本史
 どうもピンとこない。
 それより柄谷行人氏による「解説」が面白かった。

“廣松氏はいう。《われわれの見るところ、往時の近代超克論は、主観的には資本主義の超克を志向したとしても、その指向性の実践において、実質的には、たかだか金融資本主義の旧態から国家独占資本主義新体制への再編成に見合うイデオロギーという域を出るものではなかった》。同じことが、ポストモダニズムについてもいえるかもしれない。それは、資本主義がいわばポスト工業資本主義的な段階に達したということのイデオロギー的表現でしかなかった、と。注意すべきことは、日本において、こうしたポストモダニズムの論議が、日本が消費社会=情報社会として世界の先端を切っているという意識とともに、「西洋=近代の超克」という意識をもたらしたことである。それはさまざまな日本論や「東洋哲学」の再評価としてもあらわれた。つまり、ある自足的で自閉的な意識とともに、「近代の超克」が言葉を換えて唱えられたのである” (柄谷行人「解説」 本書270頁)

 やたら固くて難しい言葉遣いだが、つまり氏の言いたいことが、日本におけるポストモダニズムの論議とは、夜郎自大でそのくせ内弁慶な人間によってもてはやされた、そんな自分を正当化するための美辞麗句で飾った屁理屈だったというのなら、諸手を挙げて賛成する。

(講談社学術文庫版 2001年5月第14刷)

長谷川慶太郎 『アジアが日本に屈する日 長谷川慶太郎の未来塾』

2005年08月24日 | 政治
 中国の「反日」は共産党が日本を仮想敵国としているためだという見方は、私と同じ。
 韓国の「反日」は近い将来に予想される北朝鮮崩壊の結果韓国にのしかかってくる財政的重圧の一端を日本に担わせようという底意によるものだという見方は、私は考えもしなかった。

(ビジネス社 2005年7月)

▲「新党大地」。わるくないネーミングだと思うが、外国人むけにはどう訳すつもりだろう。
 ところで鈴木宗男氏といえば、加藤昭『鈴木宗男研究』(→2002年6月19日)である。・・・・・・しまった。佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社 2005年3月)を読むのを忘れている! 

姜在彦 『朝鮮の開化思想』 Ⅱ 「朝鮮近代の変革運動」

2005年08月23日 | 東洋史
 今月8日、姜在彦『朝鮮儒教の二千年』から続く。

DVD-ROM 平凡社『世界大百科事典』(第二版)より

甲申政変
こうしんせいへん

朝鮮で1884年(甲申の年)12月4~6日,守旧派政権に対するクーデタによって開化派が奪権を企図した政変。守旧派は清国との伝統的な事大=宗属関係によって旧体制を固執したことから事大党といい,開化派は清国との事大=宗属関係からの独立によって国政の革新をはかったことから独立党ともいう。封建制度を残したまま資本主義列強に開国した(1876)朝鮮にとって,国内体制の近代的改革は焦眉の問題となった。1884年8月にインドシナ問題をめぐる清仏戦争が起こり,開化派は一挙に守旧派から奪権すべく日本公使竹添進一郎の協力を求め,同年12月4日洪英植を総弁とする郵政局開設宴に参席した守旧派に対するクーデタをのろしとして行動を開始した。金玉均,洪英植,朴泳孝らは,士官学生や壮士を指揮して国王高宗と王妃の閔妃(びんひ)を守旧派から隔離させ,日本軍の出動を求めて護衛した。5日には開化派を軸とする新政府をつくり,6日には新しい政綱を発表したが,袁世凱が1500名の清軍を率いて武力介入すると日本軍は引き揚げ,孤立無援の開化派は,金玉均,朴泳孝,徐光範ら9名が日本,アメリカに亡命したほか,殺害または処刑された。甲申政変は,開化思想がまだ大衆を把握するまえの,開明的な少数エリートによる突出したクーデタに終わり,日本軍の出動を求めて国王を護衛したため,むしろ大衆の反日感情を爆発させた。この政変は朝鮮開化運動史上の初期的段階といえる。 (姜在彦)


“甲申政変そのものは、開化派の権力を武力で自立防衛する準備がととのう前に、圧倒的な清軍の武力干渉と日本軍の引揚げによって「三日天下」におわってしまった。しかしその政変に反映され貫徹された開化思想は、(略)一八六八年の時点における明治維新の思想、十九世紀末期の清国における康有為らの変法思想にくらべても、けっして遜色のない、立憲的君主政体の形成をめざした近代的革新思想であった” (第二章「開化思想・開化派・甲申事変」 本書115-116頁)

“甲申事変にたいする性格規定にはいろいろあって、極端な例としてはたんなる「外国勢力と結託した政権奪取の陰謀」という他律論的評価は論外としても、北朝鮮の歴史学界では「一八八四年ブルジョア革命」というはねあがった評価がある。しかし(甲申事変においては)、少数エリートの開化思想は、まだ広汎な民衆のなかに根をおろすまでに至らず、甲申事変は変法的開化派が君側から閔氏一族を中心とする守旧派を除去し、君権変法による「上」からのブルジョア改革を志向したクーデターである。それはブルジョア民主主義運動の視点からみれば初期的な未熟さ、不徹底の故に、近代開化運動史の第一段階を画するものであり、それで完結するものではない” (同、116頁)

 以下も抜き書き。

“開化派はその権力を自衛する準備がととのうまで、たとえ短期的、過渡的な措置であったにせよ、一五〇名の日本軍に依存する傾向がつよかった。ここに日本軍にたいする過大評価、清軍にたいする過小評価がある。しかもその日本軍は、武力衝突の決定的段階で約束を裏切って引揚げてしまった。さらに開化思想の本質と意図をしらない広汎な民衆の目には、開化派が日本侵略勢力と「結託」して政府を転覆したと目され、その反撃を受けたのである” (同、118頁)

 当時の日本人と日本政府にとって、この裏切りは恥ずべき行いだった。そして私を含む今日の日本人と日本政府にとって、この裏切りこそ忘れるべきでない歴史の一事実ではなかろうか。

(明石書店 1996年4月)


▲劉宗正氏が胡適について興味深い評価を行っている。

 「胡適是軟骨頭和偽善的自由主義者」
   http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1155
 「胡適昧着良心講話是不是無恥」
   http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1156

    (「曹長青網站」http://www.caochangqing.com より)

 胡適という人は、私にはまだよくわからない。

●DVD-ROM 平凡社『世界大百科事典』(第二版)より

胡適 1891‐1962
こてき Hu Shi

現代中国の学者,思想家。字は適之(てきし)。〈こせき〉とも読まれる。安虐省績渓県出身で上海の生れ。少年期に厳復,梁啓超の著述,とくに《天演論》《新民説》に感激し,新思想の洗礼を受けた。1910年(宣統2),アメリカに留学,最初コーネル大学,ついでコロンビア大学に学び,デューイ哲学から深い影響を受け,《古代中国における論理学的方法の発展》(英文,1917,その漢訳《先秦名学史》を出版)で哲学博士を得た。1917年帰国し北京大学哲学科教授となる。この年発表された《文学改良芻議》は,文学革命の発火点となった。また,従来の儒学を正統とする価値観を脱して論理的思考の発達を考案した《中国哲学史大綱》(上巻,1919刊)を書いて学術界に強い衝撃を与えた。五・四新文化運動において,彼は陳独秀,李大二(りたいしよう)とともに,その有力な指導者として尊敬されたが,運動がマルクス主義的傾向を強くするにともなって,それを批判し,〈問題を多く研究し,主義を論ずることを少なくせよ〉ととなえて改良的立場を鮮明にした。1931年,満州事変がおこると,週刊《独立評論》を創刊し,愛国と侵略非難の筆をふるい,民主立憲を主張した。学術面では《戴東原の哲学》(1925)で,18世紀の戴震の哲学の中に,西欧近代の科学的精神と同質のものを指摘した。1938年,アメリカ大使に任ぜられ,一時は待介石に接近したものの,1949年新中国成立後はアメリカに亡命して,なお自由主義の立場を崩さず,雷震らの《自由中国》創刊に参加,58年台湾に帰り中央研究院院長となったが,なお待介石とは一線を画していた。彼の著述は《胡適文存》第1~4集,《胡適選集》13冊に収められている。 (坂出祥伸)

●フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

胡適
  (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%81%A9)

胡適(こ・せき 1891年12月17日~1962年2月24日)は中国近代の学者・思想家。原名は胡嗣穈、字は希疆、後に胡適と改名した。字は適之。「適」は漢音で「せき」だが慣用音が「てき」のため、「こてき」と呼ぶ人もいる。安徽省績渓県の人。

清末、上海中国公学を卒業後、宣統2年(1910年)にアメリカのコーネル大学で農学を学び、次いでコロンビア大学のデューイのもとでプラグマティズムの哲学を学んだ。

1917年(民国6年)、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し,難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、理論面で文学革命を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。

1919年、『新青年』が無政府主義・共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適は李大と「問題と主義」論争を興し、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。

胡適はマルクス・レーニン主義を批判し、1922年、『努力週報』を創刊し改良主義を主張した。満州事変が起こると、1932年、『独立評論』を創刊し、日本の中国侵略を非難している。蒋介石政権に接近し、1938年駐米大使となってアメリカに渡った。1942年に帰国し、1946年には北京大学学長に就任した。1949年、共産党が国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命し、1958年から台湾に移り、外交部顧問となった。その後、中央研究院長に就任し、『水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。

田中明 『韓国はなぜ北朝鮮に弱いのか』

2005年08月22日 | 政治
 再読(→今年1月11日欄)。ただし今度は“(現代)政治”のカテゴリーとして。

(晩聲社 2004年11月)

▲「産経新聞」2005年8月18日 「韓国『反日歪曲』報道 特ダネ、実は中国映画から盗用」
   http://www.sankei.co.jp/news/050818/kok019.htm

 韓国の反日人士にも、反日なら何をしてもいい、嘘をついてもかまわないと思っている人がいるらしい。
 日本人にも同様の目的のためには手段を選ばない反韓・反中の輩はいる。しかしだからといってそのことで韓国や中国の反日家のこういう振舞いが正当化されるわけではない。だから私は遠慮無く批判する。
 しかし、韓国人(あるいは在日韓国人)で、いま、例えば以下の鄭若思氏(中国人)のような正論を堂々と公言する人は存在するのだろうか。存在するにもかかわらず日本で発言が広く紹介されていないのであれば、それこそ批判されるべき日本人の韓国観における偏向ということになる。

 →鄭若思「正義的底線 従「日本《産経新聞》説起」
   http://japanforum.hp.infoseek.co.jp/zheng/05/0123a.htm
  (「鄭若思文集」http://japanforum.hp.infoseek.co.jp/zheng/)

 くだんの“記録映像”は、視聴者によってそれが中国映画の一場面であることが指摘され、世論の非難を受けた結果、それを報道したニュース番組を制作・放映したMBCは誤報であることを認めて謝罪せざるをえなくなったのだが、これは中国ではまずありえない現象であることに注意すべきであろう。韓中の反日現象で大きく異なる一点である。
 もっともそれ以前に、韓国の反日運動は日本人・日系企業・日本公館に対し組織的で大規模な暴力行為におよばないところで、中国の反日家とは決定的に異なっているが。

▲「新党日本」をひっくり返せば「日本新党」になる。道理でどこかで聞いたような気がすると思った。

今週のコメントしない本

2005年08月20日 | 
 今週は数少なし。

①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  該当作なし

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本

  陳舜臣 『曹操残夢 魏の曹一族』 (中央公論新社 2005年7月)

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本
  津田茂麿編 『勤王秘史 佐佐木老侯昔日譚』 一 (東京大学出版会 1980年3月覆刻版)

④つまらなさすぎて感想も出てこない本
  M. ミッチェル・ワールドロップ著 田中三彦/遠山峻征訳 『複雑系』 (新潮社 1996年8月4刷)

⑤出来が粗末で感想の持ちようがない本
  該当作なし 

⑥余りに愚劣でわざわざ感想を書くのは時間の無駄と思ってしまう本
  該当作なし

⑦本人にも分からない何かの理由で感想を書く気にならない本 
  該当作なし

 次週を待て!

原彬久 『戦後史のなかの日本社会党』

2005年08月20日 | 政治
 日本社会党は1996年1月の64回党大会で社会民主党へと党名を変更して社会主義政党であることをやめた。つまりこの時点で初めて社会理念および政治体制としての民主主義の意義と重要性を明確に認め、それを支持・擁護する立場を取ったということである(それまではそうではなかったことがこの書で事実に基づいて叙述されている)。

 辻元清美女史が社民党の懇請により、大阪10区から社民党公認候補として今度の衆議院選挙に出馬するそうである。
 辻元女史は「日本は北朝鮮に対して植民地支配の補償をしていないのだから拉致被害者を返せというのはフェアじゃない」という持論の持ち主である(注1)。しずやしずしずのおだまきくりかえしむかしをいまになすよしもがな。
 あるいは、党の支持者層を国民のごく一部へ絞り込む方針へ決したのかもしれない。いずれにせよ、コアでディープなファンを確保する方が現在のこの党にとって得策なのは確かである。
 そこで私にアイデアがある。
 北朝鮮による拉致は「日本政府に北朝鮮への食料支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件なのである」云々と、こんどは党の公式見解として堂々と主張するのはどうか(注2)。それから「日本社会党」の党名を復活させる。これはもうコアでディープで、その上最高にエキセントリックで、言うことがないほどの妙手であろう。

(中央公論新社 2000年3月)

(注1)
 正確には以下のとおり。
“こういうこと(北朝鮮との国交正常化を達成してから話し合いで拉致問題を解決するというやり方)を弱腰だと言う人に言いたいのは、「声高に非難して帰ってくるんですか、道が開けるんですか?」ということ。国交正常化の中では、戦後補償が出てくるでしょう。日本は、かつて朝鮮半島を植民地にして言葉まで奪ったことに対して、北朝鮮には補償を何もしていないのだから、あたりまえの話です。そのこととセットにせずに、「9人、10人返せ!」ばかり言ってもフェアじゃないと思います” (部分)
 (http://www.cafeglobe.com/special/01_nov/girls/g011112.html)

(注2)
 2002年10月はじめまで同党のホームページに掲載されていた北川広和氏(社会科学研究所研究員)の論文「食糧援助拒否する日本政府」より。同論文はもと「月刊社会民主」1997年7月号掲載。
 (http://www6.plala.or.jp/mines-room/NewFiles/diary-sp3.html)