書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

伊藤漱平/中島利郎編『魯迅増田渉師弟答問集』

2017年12月22日 | 人文科学
 出版社による紹介

 魯迅の作品を翻訳するにあたって増田氏が魯迅その人に質した箇条書きの質問条項に、作者が各項の余白や上下左右の空間に朱筆で回答を書き込んでいる。質疑・応答どちらも日本語だが、驚くのは魯迅の日本語が本当に自然であることだ。そしてその言いようも(きわめて口語的で平易な文章で書かれているのだが)、本来の冗長な話し言葉とは違い、直裁・的確で紆余も無駄もない。驚くばかり。

(汲古書院 1986年12月)

先日ある往来物で、・・・

2017年12月22日 | 思考の断片
 2017年11月20日「中村元「仏教における人間論」」から続き。

 先日ある往来物で、「ものを書けないのは人ではない」という意味の教訓の辞があった。「ものを書けない」というのは、書くための文字とともに、日常生活や仕事での主として手紙・文書作成のうえで必要な作法と書式(語彙・表現含む)とを弁えていない、よってその折々に就いてしかるべき文章が書けないという意味である(その往来物の内容から推して)。“考える”という要件は、そこには(少なくとも明示的には)ない。

小池一夫氏@koikekazuoのツイートを見て

2017年12月22日 | 数学
12月21日

ある球団のオーナーが、ある選手のことを「賞味期限切れ」という言葉を使ったことがすごく心に引っ掛かっている。モノじゃあるまし、いくらなんでもその表現は無いだろうと。人間の旬は生きている限り何歳でもいいよ。自分が旬だと思えば、その時が旬だ。そして旬は何度あってもいい。誰であっても。

 スレッドごと眺めてふと思ったが、人を物扱いというのは。言語だけに限っていえばそれは「擬物法」だということである。修辞技法としての用例は擬人法ほど頻繁ではないが、歴史的にちゃんと存在する。たが、ここで問題は、人を物に喩える理由だ。そしてここにおいて「対象となる人間を貶める目的で用いる」と擬物法の用法が確定されてしまえば、過去の用例も吟味しなおす必要が生じる。


C.サイクス著 新田潤訳 『ペルシャのワスムス』

2017年12月22日 | 地域研究
 復刊リクエストでの紹介

 図書館相互貸借で某県の図書館から借りて読んだ。ここにも指摘してあるように、歳月のせいもあってたしかにぼろぼろで(はっきり言って一冊の本として崩壊の危機にある)、特に入れられてきたビニール袋に、「取扱注意」のメモが貼ってあった。よく貸し出してくださったものだ。ただ、文章もまた、いかにも蒼古としたもので、私にはちょっと読みにくかった。原書で読むのもいいかもしれない

(協力出版社 1943年7月)