書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「舞台の演技はカメラには写らない」らしい

2018年10月07日 | 芸術
 「舞台の演技はカメラには写らない」らしい。山崎努氏の『俳優のノート』にそう書いてある。
 氏は『ダミアン神父』をビデオ化するにあたって、映像用に演技を変えてあらたに撮影した由。アル・パチーノはアクターズ・スタジオのインタビューで、「(初主演作の)『哀しみの街かど』ではカメラに訴えかける演技をまだ会得していなかった」と、言っていた。YouTubeで内外の舞台映像を観ても、映画にくらべて、いまいち受ける印象が“遠い”のは、あるいはこの機微に触れるからか。

英露双方の翻訳をなさった大先輩によるロシア語戯曲の翻訳を、・・・

2018年10月07日 | 人文科学
 英露双方の翻訳をなさった大先輩によるロシア語戯曲の翻訳を、恥ずかしながら初めて拝読した。英語訳からの重訳のような日本語訳の感じがした。上演された舞台の印象もここには重なって、この言葉遣いではおかしいという違和感が拭えない。とりわけ冒頭――「諸君、ここへおいでを願ったのは、きわめて不愉快なことをお知らせするためです。検察官がくるのです」。
 ゴーゴリは、「検察官が乗り物でこちらへ向かっている」と書いた。ロシア語では徒歩で「くる」のと乗り物に乗って「くる」のとでは言葉(動詞)そのものが違う。英語や日本語ではどちらも「来る・come」でOKだが、ロシア語ではこの区別を重視し、意識して、言語化する。この“ズレ”が最初から違和感を持たせる。
 そしてこれは帝政ロシア時代のとある地方都市が物語の舞台だが、そこの市長がこのような上品で知的な喋り方をするだろうかという違和感もある。

高津春繁 『印欧語比較文法』

2018年10月07日 | 人文科学
 ロシア語は名詞文を全面的に一般化し,普通の場合には現在直説法に於ては結辞を全く用いていない. (「第11章 文と語群」本書319頁)

 それは何故かを伺いたかったんですが。元からそうだったのか、以前は結辞(繋辞)を用いていたが省略されたのか。

(岩波書店 1954年7月第1刷 1980年4月第11刷)

いまは言わなくなったようだが、中国“6000年”の歴史と呼号していた時分は・・・

2018年10月04日 | 思考の断片
 いまは言わなくなったようだが、中国“6000年”の歴史と呼号していた時分は、黄河中流域が中国人の発祥の地であると平気で口にする人がいた。それを聞いて最初少数民族は無視かと思った。だが中華民族は“格局”的に漢民族と少数民族の融合した多元にして一体だから、無視してはいないという理屈だろう。

関口時正 「ポーランド語文学を語り続ける〈民族〉」

2018年10月04日 | 文学
 『岩波講座 文学』13、2003年3月所収。

 英語で作品を書き、英国で文名を得たコンラッドを“コスモポリタン”≒祖国の裏切り者扱いした当時のポーランドの情況と、それを現前させたポーランド文学界の“ポズィティヴィスム”という潮流が語られる。
 私ははそれを興味深いと思い、そしてその故に知りたい、解りたいと思う。
 しかし、「けしからん」でも「すばらしい」でも、そのどちらでもいいけれど、歴史的事実に向かってまず価値判断を下す人、あるいはやがて下すために材料を得る目的で研究する人は、少なくとも私よりは研究者に向いていないだろう。
 21世紀になって数年が経つというのに、1930年代当時の複雑で多難な時代に流されずおのれの精神と筆法をもって一人立っていた魯迅はすばらしいという「頌歌」を、論考として奏でる某“研究者”氏の論考を見て、やや神経過敏になっている。



Arthur Miller, "Death of a Salesman".

2018年10月03日 | 文学
 Arthur Miller, "Death of a Salesman".
 リー・J・コッブのローマンは観たことがない。ダスティン・ホフマン主演の映画(凄かった)が、この作品とのなれそめ。その後は"Death of a F***ing Salesman"ことDavid Mametの"Glengarry Glen Ross"を経て、この原作へとようやくたどり着いた。
 ミラーの自伝を読んで感じたのは、高い知力と、それから自分の実存の、徹底した客観化である。著者が若年からまったくそうであったのかどうかは私には判らない。しかしいまみずからが人生の暮方を迎えていると自覚した著者が、おのれの生涯を“整理”しきってしまおうとしている視線と作業とをそこに感じた。

巷でときに耳にする「使えないヤツ」という表現は、擬物法だろうか。

2018年10月02日 | 人文科学
 巷でときに耳にする「使えないヤツ」という表現は、擬物法だろうか。たしか『万葉集』以来の伝統の復活? 中土にも韓愈の「送孟東野序」で例がある。ただ韓愈は純粋な修辞として用いているのに対し、ここでの日本語での問題は、人を物に喩える理由だ。「対象となる人間を貶める目的で用いる」と、擬物法――要は人間をモノ扱いすること――の用法が確定されてしまえば、過去の用例もそうではないかと実例を吟味しなおす必要が生じるかもしれない。

 韓愈の擬物法。「人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。」

 現代日本語にも「私は~というモノでございます」という用法があるが、これはこんにちは漢字で「者」と当てるが、この「者」という漢字は、平安初期までの漢文訓読体では、「ヒト」と読んで、「モノ」とは訓じなかった。大野晋先生のご指摘である。「モノといえば物体である。だから、モノは一人前の人間つまりヒト以下の存在を指すという意識が、平安時代初期までは明確にあった」(『日本語をさかのぼる』第1部第3章、33頁)。だから“丁寧の気持”または“卑下”を示す表現になるのだと(同33また34頁)。

 大修館書店の『レトリック事典』(大修館 2006年1月)には“擬物表現”についての条があるが、ここで私の言う擬物法とは異なるもののである。
 その“擬物表現”に続く「3-17-2 考察」において、所謂「自由の女神」は原の英語では"Liverty"であるものを、日本語では「自由の女神」と訳さねばならなかった、日本語と英語の「国語の抽象度」の違いが指摘されている(同書573頁)。

 ちなみに現代漢語では「自由女神」である。これはこれで別の角度から興味深い。

 王希傑『中国語修辞学』(修辞学研究会訳)には私の言う擬物法、『レトリック事典』の言う擬物表現=実体化表現ともに立項・記述がない。さらに『中国修辞学通史』シリーズ(吉林教育出版社)の手元にある巻(全5巻のうち1-3)にもない。「隋唐五代遼金元巻」韓愈項に私の引いた例文含め言及はない。

 目次をざっと眺めて、楊樹達編著『漢文文言修辭學』(原名『中國修辭學』)にもなさそうである。おそらくないだろう。この角度がないということは。例文自体は別の範疇で採られているかもしれないが、「人間を物扱いする」=擬物という修辞技法はここには設定されていない。その理由については、仮説を立てることができる







「デマを容認するのかしないのか」という問いは、いかなる意味においての・・・

2018年10月02日 | 思考の断片
 「デマを容認するのかしないのか」という問いは、いかなる意味においての政治的色彩をおびているところの、あるいは本質はそれだがそうでないように擬態しているところの情況と、その企画者や実行者にとり、永遠の課題であり、外部からはその真価と真摯さの試金石であるだろう。

冒頭の大先生の総論にして導論を兼ねる論文を除き、後の各論が頭悪そう・・・

2018年10月02日 | 思考の断片
 冒頭の大先生の総論にして導論を兼ねる論文を除き、後の各論が頭悪そうもしくは知的関心の薄そうな人々によって書かれた地域研究論集を読んだ。“言語篇”と掲げながら全体のテーマがなく論題がばらばらで、思索も狭く浅くて研究ノートか綴方のよう、「とりあえず形に纏めればそれでいい」という作り手の知的退廃が窺われて恐ろしい。これで“新たなる某地域の研究”と銘打つのだからさらに恐ろしい。このシリーズは“文学篇”、“歴史篇”とあと2冊あるのだが、起死回生の一発はあるのか。
 否、御本人たちがそれで別に問題を感じておられないのならば(だから出版したのだろう)、起死回生も糞もあるまい。他人の疝気を頭痛に病むとはまさにこのこと。