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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

太田辰夫 『中国歴代口語文』

2015年02月25日 | 人文科学
 作品の配列が、現代(老舎「離婚」)から古代(『世説新語』)へと、倒叙になっている。著者がそのほうが現代人には取っつきやすいと考えたが故の順序であるが(「はしがき」)、私は白話の時系列的な変遷をたどるという別の理由で、後ろから読む。
「7 孝経直解」と「6 老乞大」に関して、前者はウイグル人貫雲石の作(元代1308年)、後者は著者不明で、原本は元代成立も今日残るテキストは明代(1480-1483頃)の改訂本である。両者共に「漢児言語」であるが後者の方が解りやすい。その理由はこの時間差のせいかと推測する。
 「解りやすい」とは現代漢語により近いということである。だがおかしなことにこれより新しい「5 金瓶梅詞話」「4 紅楼夢」「3 品華寶鑑」「2 兒女英雄傳」よりも理解しやすい。一つには文章が短いことがある。いま挙げた5から2は一文が長いうえに、文と文がいくつも繋がっている。「10 朱子語類」(南宋時代・1270年)と共通する特徴。

(朋友書店 1957年5月)

Ildiko Beller-Hann, "Community Matters in Xinjiang: 1880-1949"

2015年02月25日 | 地域研究
 出版社による紹介

 冒頭、共同体community、伝統tradition、慣習customといった基本的語彙に関する議論と概念の整理が続く。しかしそのあとはひたすらの記述。表題で掲げられた(あるいは切りとられた)時期のウイグル人の日常生活・風俗・習慣について、とくに現代にも残るものについてが主たるその対象とされる。
 「民族」の概念の検討や「ウイグル人」の定義に関する議論、関係先行研究への言及・論点の整理は見られない。 第2章'Place and People'は地域の人文地理および歴史の概説であるが、住民の歴史は紀元前5世紀のインド・ヨーロッパ語族話者から始まっている(p.42)。

(Brill Academic Pub, Aug. 2008)

John A. Lucy, "Language Diversity and Thought"

2015年02月25日 | 人文科学
 副題:"A Reformulation of the Linguistic Relativity Hypothesis"
 出版社による紹介

 読んでみたが上記紹介の'Description'に書いてあるとおりの内容。

Language Diversity and Thought examines the Sapir-Whorf linguistic relativity hypothesis: the proposal that the grammar of the particular language that we speak affects the way we think about reality. Adopting a historical approach, the book reviews the various lines of empirical inquiry that arose in America in response to the ideas of anthropologists Edward Sapir and Benjamin L. Whorf. John Lucy asks why there has been so little fruitful empirical research on this problem and what lessons can be learned from past work. He then proposes a new, more adequate approach to future empirical research. A companion volume, Grammatical Categories and Cognition, illustrates the proposed approach with an original case study. The study compares the grammar of American English with that of Yucatec Maya, an indigenous language spoken in southeastern Mexico, and then identifies distinctive patterns of thinking related to the differences between the two languages.
 (下線は引用者)

(Argentina: Cambridge University Press, Jul. 1992)

太田辰夫 『中国語歴史文法』

2015年02月25日 | 人文科学
 「7 句の成分 7.4 修飾語」。
 主語や賓語を修飾するのは定語と呼び、述語を修飾するものを状語と呼ぶ。了解した。主語賓語といい、述語というも、つまりは(代)名詞と動詞である。これもわかった。ところが定語に属する一つに形容詞とある一方で、状語の内訳にも形容詞とある。品詞の定義の話をする。名詞代名詞を形容するものを形容詞と名づける。同じように動詞を修飾するものは副詞と呼ぶ。動詞を修飾すればそれは副詞であって形容詞ではない。だからある言葉が名詞と動詞をともに修飾するというのであれば、それは形容詞と副詞の両方の品詞的機能をもつ語である。あるいはそれら以外の何物かである。

(朋友書店 1971年6月)

苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説): レヴィ=ストロース『野生の思考』 より

2015年02月23日 | 抜き書き
 http://ittokutomano.blogspot.jp/2012/01/blog-post_7118.html

 現代の文明人は、未開の思考を、迷信に支配された非合理なものと考えがちである。しかしレヴィ=ストロースは言う。実は未開人には未開人独特の論理的思考があり、それは現代科学とはまた別の論理を、しかし十分合理的に展開したものなのである、と」 「呪術と科学の違いに目を向けてみよう。両者は一見あまりにかけ離れたものに見えるが、しかし実のところ、奥深くでは、自然の因果性を前提しているという点において類似した思考形式である。

 そして『野生の思考』からの引用。

 どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。

 すなわち、呪術的思考や儀礼が厳格で厳密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来たるべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう。


 それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。

 以下、このように、同著を紹介するにおいて不可欠の要点を的確に把握し、さらには、それを読者に周知徹底・説得するために引くべき具体的な個所を過不足なく押さえた解説が続く。

吉川幸次郎 『宋詩概説』

2015年02月23日 | 文学
 水調歌頭:蘇軾の詞

 一読して、詩(漢詩)で情を表すことのできた詩人に我国の菅原道真がいるが、蘇軾は詞でそれをなし得た人のようであるとの感想を持つ。
 というより、「詞」という形式自体がそういう表現に適した、あるいはそのために用いられ始めた、ジャンルなのかもしれないと仮説を立てた。
 先学の詞観を知るべく、上掲のオードソックスな概説たる吉川著を繙く。
 やはりこの点に関し言及があった。

 「詞」はもともとこのような形で、柔かな感情を歌うジャンルである。 (「序章 宋詩の性質 第三節 宋詩の叙述性」 12頁)

 それを可能にしたのは何であるかという次の問い。
 それ以外に、これに続く以下の指摘も、宋代という時代を考える上で重要であると思う。

 北宋の柳永、周美成、南宋の辛棄疾、呉文英のように、このジャンルのみを専門とする人物もいた。 (同上)

 それは何故か?

(岩波書店 1962年10月第1刷 1977年12月第13刷)

維基文庫所収『夢渓筆談』の原文を確かめる

2015年02月20日 | 東洋史
 梅原郁訳注『夢渓筆談』(全3巻、平凡社 1978年12月/1979年9月/1981年11月)と照らし合わせるため。
 以下、巻数は両者共通、【】内の通し番号は梅原訳注のそれ。

巻三「辯証一」【54】
 「霊界の道理」→「鬼道」(63頁)
 「人間界の道理」→「人道」(63頁)
 「そういう道理があるのかもしれない」→「或有此理」(63頁)

巻二十「神奇」【347】
 「この理法は全くその通りである」→「此理信然」(231頁)
 「奥深い理法」→「至理」(231頁)

巻二十四「雑誌一」【423】
 「そのようなことはなく」→「無此理」(6頁)

巻二十四「雑誌一」【430】
 「必然の理というものだ」→「此理必然」 (12頁)

巻二十四「雑誌一」【437】
 「その理(わけ)をつきとめることはできない」→「莫可原其理」(19頁)

『補筆談』巻三「雑誌」【582】
 「長生きや病気を治す原理」→「養生治病之理」(233頁)
 「理がきわまって玄(みち)が化する」→「理窮玄化」(233頁)
 「この理法に深く通達すると」→「深達此理」 (233頁)

 以上、坂出祥伸「沈括の自然観について」で指摘される沈括『夢渓筆談』中の「理」の用例と意味とを原文に当たって確認してみた。彼が予め抽象的・一元的な「理(原理、法則)」を想定せず、事象の一つ一つに個別・具体的な「理(原理・法則、それに因果関係?)」を見ていたことは確かなようである。
 坂出氏が仰るように彼は「不可知な世界にのみ気のはたらきを限定し」た。しかしそれは、「知り得ないことは分らない」「憶測で物を言わない」という、一種非常に科学的な態度の表れではなかったか。故にとりあえずは未だその偽であることが証明されていない通説を充当しておくという。

アリストテレス著 池田美恵訳 『弁論術』

2015年02月20日 | 人文科学
 『世界古典文学全集』16(筑摩書房 1966年8月)、所収。


 公正は正義であると考えられている。しかし公正は成文法を越えた正義である。〔略〕公正であることは人間の弱さを許すことである。法ではなく法をつくった人間を、法の言葉ではなく立法者の意図を、行為ではなく動機を、出来事の部分ではなく全体を、罪を犯した人が現在どういう人間であるかではなく、常にあるいは一般にどういう人間であったかをみることである。
 (「第1巻」、同書93頁)

 説明がいまひとつよく分からないが、とにかく、この「正義」は、少なくとも「公平」ではない。だから「公正」と呼ばれているのだとも言えるだろうし、さらにひるがえって、ここでは「公正」と「公平」とが峻別されているのだとも言えよう。