『岩波講座 文学』13、2003年3月所収。
英語で作品を書き、英国で文名を得たコンラッドを“コスモポリタン”≒祖国の裏切り者扱いした当時のポーランドの情況と、それを現前させたポーランド文学界の“ポズィティヴィスム”という潮流が語られる。
私ははそれを興味深いと思い、そしてその故に知りたい、解りたいと思う。
しかし、「けしからん」でも「すばらしい」でも、そのどちらでもいいけれど、歴史的事実に向かってまず価値判断を下す人、あるいはやがて下すために材料を得る目的で研究する人は、少なくとも私よりは研究者に向いていないだろう。
21世紀になって数年が経つというのに、1930年代当時の複雑で多難な時代に流されずおのれの精神と筆法をもって一人立っていた魯迅はすばらしいという「頌歌」を、論考として奏でる某“研究者”氏の論考を見て、やや神経過敏になっている。
英語で作品を書き、英国で文名を得たコンラッドを“コスモポリタン”≒祖国の裏切り者扱いした当時のポーランドの情況と、それを現前させたポーランド文学界の“ポズィティヴィスム”という潮流が語られる。
私ははそれを興味深いと思い、そしてその故に知りたい、解りたいと思う。
しかし、「けしからん」でも「すばらしい」でも、そのどちらでもいいけれど、歴史的事実に向かってまず価値判断を下す人、あるいはやがて下すために材料を得る目的で研究する人は、少なくとも私よりは研究者に向いていないだろう。
21世紀になって数年が経つというのに、1930年代当時の複雑で多難な時代に流されずおのれの精神と筆法をもって一人立っていた魯迅はすばらしいという「頌歌」を、論考として奏でる某“研究者”氏の論考を見て、やや神経過敏になっている。
Arthur Miller, "Death of a Salesman".
リー・J・コッブのローマンは観たことがない。ダスティン・ホフマン主演の映画(凄かった)が、この作品とのなれそめ。その後は"Death of a F***ing Salesman"ことDavid Mametの"Glengarry Glen Ross"を経て、この原作へとようやくたどり着いた。
ミラーの自伝を読んで感じたのは、高い知力と、それから自分の実存の、徹底した客観化である。著者が若年からまったくそうであったのかどうかは私には判らない。しかしいまみずからが人生の暮方を迎えていると自覚した著者が、おのれの生涯を“整理”しきってしまおうとしている視線と作業とをそこに感じた。
リー・J・コッブのローマンは観たことがない。ダスティン・ホフマン主演の映画(凄かった)が、この作品とのなれそめ。その後は"Death of a F***ing Salesman"ことDavid Mametの"Glengarry Glen Ross"を経て、この原作へとようやくたどり着いた。
ミラーの自伝を読んで感じたのは、高い知力と、それから自分の実存の、徹底した客観化である。著者が若年からまったくそうであったのかどうかは私には判らない。しかしいまみずからが人生の暮方を迎えていると自覚した著者が、おのれの生涯を“整理”しきってしまおうとしている視線と作業とをそこに感じた。
出版社による紹介。
茶を淹れる湯が沸くのを待つあいだ、ガスレンジの横で立ったまま読んだ。
題名にもなっているソ連訪問記、もし訳文通りの原文なら、ミセス・ガーシュインとミスター・ウォームズリーを除いて、筆者が定めた“底”が一体に浅くないか。
浅く打つ底と表面との厚みの中を存分に行き帰りしつつ、細かなペン捌きを駆使するのが、わざとやっているのであれば、その意図は奈辺にあるか。
(早川書房 2006年9月)
茶を淹れる湯が沸くのを待つあいだ、ガスレンジの横で立ったまま読んだ。
題名にもなっているソ連訪問記、もし訳文通りの原文なら、ミセス・ガーシュインとミスター・ウォームズリーを除いて、筆者が定めた“底”が一体に浅くないか。
浅く打つ底と表面との厚みの中を存分に行き帰りしつつ、細かなペン捌きを駆使するのが、わざとやっているのであれば、その意図は奈辺にあるか。
(早川書房 2006年9月)
のびたうどんをなんとか食べられるようにしようといろいろにお化粧、味付けやら具だくさんやら、後から外から手を加えて、概してごてごて・こてこての焼きうどんにしてみたような翻訳のオンパレード(アンソロジー)を拝見した。これは“概して”ということで、例外も、もちろんあった。
https://nyti.ms/1s7VSAr
Я прочёл работу в оригинале. И сейчас чту статью. Хорошо сказано:
You can open this document anywhere; it’s a kind of enormous radio. It offers a flood of voices: doctors and writers, deli workers and former Kremlin apparatchiks, soldiers and waitresses. Ms. Alexievich gives these people space. There are few interpolations from the author. When she does insert a comment, it’s in brackets and often unbearably moving, like “She no longer wipes her tears” or “She’s practically screaming” or “And both of us cry.”
С другой стороны, слова там не так литературные, стиль сравнительно не прикрасен, хотя естествен. 聞き書きの難しいところで、プロの文筆業者としてのもしくは文学者としての聞き取り者の主観と美意識による補足と修正が入りすぎると、『苦界浄土』のようになる。
Я прочёл работу в оригинале. И сейчас чту статью. Хорошо сказано:
You can open this document anywhere; it’s a kind of enormous radio. It offers a flood of voices: doctors and writers, deli workers and former Kremlin apparatchiks, soldiers and waitresses. Ms. Alexievich gives these people space. There are few interpolations from the author. When she does insert a comment, it’s in brackets and often unbearably moving, like “She no longer wipes her tears” or “She’s practically screaming” or “And both of us cry.”
С другой стороны, слова там не так литературные, стиль сравнительно не прикрасен, хотя естествен. 聞き書きの難しいところで、プロの文筆業者としてのもしくは文学者としての聞き取り者の主観と美意識による補足と修正が入りすぎると、『苦界浄土』のようになる。
トールキンの『指輪物語』は、英語で書かれた原作だけではなく、他言語への翻訳版と照らしあわせることでその真の姿(真価と言ってもいいが)が、分かることになっているらしい。「作中にある英語由来の固有名詞を翻訳する際には、各国の言語に修正するようにというトールキンの意向を反映して、瀬田貞二訳では幾つかの人名や地名が日本語に翻訳されている」(ウィキペディア「指輪物語」項“出版史・日本語版”条)例えばMiddle-earthを中つ国と訳してあるがごとき。オリジナルはこういう背景もあって言葉遣いそのものはかなり平易なので、かえってその用意を見過ごす。現に見過ごした。
出版社による紹介。
これもツイッターでついさきごろその名を知りました。この『スーホの白い馬』を読んで自分もこんな話を書きたいと小説家志望になった人がいたのを思いだして懐かしく。
(風響社 2016年10月)
これもツイッターでついさきごろその名を知りました。この『スーホの白い馬』を読んで自分もこんな話を書きたいと小説家志望になった人がいたのを思いだして懐かしく。
(風響社 2016年10月)
これはある意味訓詁学と言える。これはこうだという著者の解が唯一絶対とは言い切れない(著者もそれをしばしば認めておられる)点を含めて。なお丸谷才一訳への批判が容赦ない。
(洋泉社 2009年2月)
(洋泉社 2009年2月)
原作を読んでみたが、チェチェン人で出来事の当事者の一人であるアブドゥルアハマン・アフトルハーノフの回想や研究の(これは大学の時に読んだ)、フィクションながら言うなれば割符の片一方のようなものかと思えた。
(群像社 1995年6月)
(群像社 1995年6月)