書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

加地伸行 『孝経 全訳注』

2018年04月08日 | 哲学
 中国人のそういう思考の回路を知らないで、中国人は死一般について思考しないと断ずる(その根底には、欧米流の抽象化一般化をもって思考の最高とする欧米模倣がある)人が多いが、それは欧米近代主義による錯誤にすぎない。 (「六 死と孝と『孝経』と」 163頁)

 私もまったく賛成で、じつは、加地先生の持説(体系的にたとえば『中国人の論理学』で展開されるところの)を、くわしく理解する前に、粗放ながら同じ方向性で意見を立てていて、それを無知は無謀なもので某機会で発表したところ、「漫談」と聞こえよがしに冷笑されたことがある。若い頃運動していて勉強していない系の先輩だったから加地先生の御説をご存じなかったのだろうし、それはそれで構わないのだが、ただもし知っておられたら加地先生に対しても「漫談」と冷笑されただろうかと、そこには多少興味がある。「あの人は保守反動」と、それで先生の議論を全否定するような想像もしている。「加地先生は右だからその論著は読まないようにしてきました」という誇らしげな言明も、内藤湖南に対する某大先生の前例があるから想定内だ。

(講談社 2007年6月)

井筒俊彦 「中世ユダヤ哲学史」

2018年02月05日 | 哲学
 『岩波講座 東洋思想』第2巻「ユダヤ思想 2」(岩波書店 1988年1月)所収、同書3-114頁。

 そのアプローチの基になる言語への認識と感覚に感嘆しきり。私のような語学屋にとっては皮膚同然のセンスだが、見るところ思想史家・哲学学者には必ずしも備わっているものではない。それは研ぐ機会がなかったからなのかどうか。

 九世紀のユダヤ思想の表面に、はっきり現われてくる問題点の重〔ママ〕なものは、大別して三つある。(一)アラビア語の優位性、(二)イスラームを通じてのギリシア哲学との出合い、(三)イスラーム神学の合理主義的精神を体現した合理主義的聖典解釈学の発展。以下、これらの三点を順を追って概述することにしよう。  (同書5頁)

 ユダヤ思想がそれを以て行われたあるいは行われなかった、またそこで直截間接に何らかの関係を認めることのできる諸言語という要素、いわば(零)を、(一)の前に、そして(二)と(三)の後ろにも置けば、(一)(二)(三)がなぜ(一)(二)(三)であり、それぞれがどう繋がっているのか、いかに問題なのか(とりわけ(三)、ついで(二)において)が、前もっての推測はできなくても本論に進んで納得しやすくなるように思う。私の同論考の理解の仕方においては。
 すなわち、(二)は、
 アラビア語で表現されたイスラームを通じてのこれも当然ながらアラビア語で受容・表現されたギリシア哲学との出合い
 そして、(三)は、
 アラビア語で表現されるイスラーム神学の、同じくアラビア語で表現されところのギリシア哲学由来の合理主義的精神を体現した合理主義的聖典解釈学の発展
 

チャールズ・サンダース・パース - Wikipedia

2017年07月22日 | 哲学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9

 我々には内観の能力はなく、内的世界に関する我々の知識はすべて、外的事実に関する我々の知識からの仮説的推論に由来する。我々には直観の能力はなく、すべての認識は先行する認識によって論理的に決定される。/我々は記号を用いずに思考することはできない。/我々は絶対的に不可知なものの概念を持つことはできない。

 大学図書館経由で他大学から貸借した選集selected writingsを閲覧した。そのなかの上記と関連のmonographsにおいては、abduction (abductive reasoning)とhypothesisが連続、重複し、ほとんど一体化した概念として扱われている。

網谷祐一 『理性の起源 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ』

2017年03月04日 | 哲学
 出版社による紹介

 「ヒューリスティクスを使っていることが人間が理性的であるということ」というギゲレンツァの議論が紹介されてそれがそのまま用いられているが(110頁)、思考を節約する(といえば聞こえはよいが「これまでそうだったから今度もそうだろう」と思考を停止して飛躍させる)ことが、「合理的」乃至「理性的」ということになるのだろうか。
 また、冒頭の「理性」の定義がreasonのことを言っているのか、あるいはrationalityのことを言っているのか、すくなくとも私にはよくわからない。一緒に論じているのだとして、それは妥当なのだろうか。

(河出書房新社 2017年2月)

桜井邦朋 『夏が来なかった時代』

2017年02月28日 | 哲学
 出版社による紹介

 桜井氏の著書は『福沢諭吉の「科學のススメ」 日本で最初の科学入門書「訓蒙窮理図解」を読む』(祥伝社2005/3)と『日本人の知的風土』(祥伝社2012/12)以来、3冊目になる。マウンダー極小期と同時期(1645-1715年)の全地球規模の寒冷化との関わり(因果もしくは相関関係)について氏の議論を知るため。

(吉川弘文館 2003年9月)

佐藤=ロスベアグ・ナナ 『文化を翻訳する 知里真志保のアイヌ神謡訳における創造』

2017年02月22日 | 哲学
 参考:http://www.arsvi.com/b2010/1103sn.htm

 エドワード・サピア『言語 Language』の議論が援用されて出てきたので喜ぶ。第四章および第五章。

 それゆえクローチェが、文芸作品は決して翻訳できないといっているのは至当である。それにも拘わらず文学は現に翻訳され、時には驚くほど適切に翻訳されている。〔後略〕

(みすず書房 2011年10月)

フリードリッヒ・ニーチェ著 塩屋竹男訳 『悲劇の誕生 ニーチェ全集〈2〉』

2017年02月22日 | 哲学
 訳注ありて原注なし。いきなり定義もなしに 「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」 の二分法が出てくるのだが、定義はおいおい(きれぎれに、だらだらと)なされるとしても、ギリシア悲劇がなぜこの二分法で捉えられるのかの説明がない。たしかに、自論開陳のためのたんなるダシですな。

(筑摩書房 1993年11月)

悲劇的誕生 - 維基百科

2017年02月21日 | 哲学
 悲剧的诞生 - 维基百科 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E5%89%A7%E7%9A%84%E8%AF%9E%E7%94%9F

  此書表面上是探討悲劇的起源,實際上是討論現代社會過度重視理性所帶來的文化價值危機。尼采在書中強調要重新推崇古希臘時代的藝術精神,以挽救現代的理性至上造成的頹廢。他又在這本書中提出了酒神精神和日神精神來超克叔本華悲觀厭世的哲學。日神阿波羅代表的精神是訴諸美的表象,酒神狄俄倪索斯代表的精神則是訴諸悲劇或音樂的。又分別代表沉靜及陶醉、激情,尼采尤其推崇後者。 (下線は引用者)

 つまりギリシア悲劇はニーチェにとって自説のためのたんなるダシでしたという説明。ウィキペディア露語日本語同項に文学的、文献学的あるいは歴史学的見地からの同書についての評価はない。英語版にはわずかに、専門家的見地からの批判が出版当初にあった事実を記すがその当否は記されていない。

悲劇 - Wikipedia

2017年02月21日 | 哲学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E5%8A%87

 単なるハッピーエンドに終わらない劇という以外、悲劇の厳密な定義はない。また同じ戯曲・演劇でも、時代・社会状況や、読む者・演じる者・観る者の主観によって、それが悲劇となるかそうではなくなるかが大きく異なってくる。19世紀ロシアの劇作家チェーホフは、自身の戯曲『桜の園』を喜劇であると言った。同戯曲は、凡庸な貴族が土地を失っていく様が筋の中心となっている。それを演出した同時代の演出家スタニスラフスキーは、近代化の波に飲まれていく旧来の人間の姿を同戯曲中に見いだし、悲劇として扱った。そして近代演劇史上に残る成果を残した。 (「概要」 下線は引用者)

 30数年前に外大語劇で『桜の園』のヤーシャを演じて以来、なぜチェーホフは同作を“喜劇”と名付けたのかと、疑問に思っていた。(彼のこの種の自作の性格付けに関しての不可解さは他にもある。)このたび別の仕事・学問上の作業にかこつけて、些か真面目に考えてみたいと思っている。このウィキペディアのこの説明は、それについては実質何も語ってはいない。

読書80年:名和小太郎のブログ 【146冊目】 村上征勝『真贋の科学:計量文献学入門』 朝倉書店(1994年)

2017年02月20日 | 哲学
 http://d.hatena.ne.jp/kotaro81/20120928/1348786427

 このブログで上げられている同著作が出版年とその専門性からみて前掲一般向きの文春文庫版のもとになったものと思われる。
 なお本書の内容につき私の見地からここに蛇足を付け加えるとすれば、読点の打ち方(打つ場所、打つ頻度)は、最後まで変化しない(変えにくい)ので、異なる作品間でいくら文体が違っていても作者が同一人物かどうかを判断するうえでの重要な要素になるという。(「5. 読点の付け方のクセ」)