書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

寺尾隆吉 『ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』

2016年11月25日 | 文学
 出版社による紹介

 「ブーム」時のラテンアメリカの文学者は、キューバ革命とカストロに対し礼賛・批判いずれの態度を取るかで陣営が分かれた由。

(中央公論新社 2016年10月)

研究者と運動家の棲む世界の違いについて

2016年11月24日 | 思考の断片
 運動家は、おのれの理想を実現するために行動を行う人である。その行動によって働きかける対象たる現実の現状(=事実)認識は一過程にすぎない。認識を決定したうえで本来の活動に取りかかるわけである。現実や事実は、彼らの行動の基礎であるけれども、それは同時に、土台にすぎないと言ってもいい。当然その認識作業は一定の時と処で止まる。行動へと移るに十分と判断された段階でである。あるいはあらかじめ定められた理想、もしくは行動決定の結論を裏付けるに必要にして十分との認識が得られた時点でである。
 だがそれは必ずしも客観的な現実や事実とは一致しない。
 こう考えれば、たとえば、私の領域から例を引けば、アムドを青い梅と書くというのもその現れと解釈できる。青い海であろうが青い梅であろうが、そんなことはたいした問題ではないだろう。あるいはウイグルという民族名を地名に使おうと、あるいは東トルメキスタンとか東トルクメニスタンとか果てはウルグアイとかと呼ぼうと、それはたんにシニフィアンの間違いであって、シニフィエを正しく指しているのであるからなんの問題もないのである。かの人々にいわせればじつに些末な問題であろう。私も彼らの立場に身を置けば、それが実体として何を指しているかが明らかならば、名称の言い間違い憶え間違いなど、まさに重箱の隅をつつく類いの、大局とは関係のない、つまらない揚げ足取りだと思うであろう。
 ただここで、個人的に同時に、少しく思うのである。そのシニフィエとレフェランの同一不同一を考えるべきではないかと。だがこれは研究者が思索する問題あるいは担当する領域であって、運動家のそれではなく、彼らの責でもない。

平川祐弘 『日本の生きる道 米中日の歴史を三点測量で考える』

2016年11月24日 | 現代史
 出版社による紹介。l

 平川氏には、国家基本問題研究所のシンポジウムで座席が近くになったことがあり、その折りにご挨拶させていただいたことがある。
 読後感はいかにもその通りというものである。

(飛鳥新社 2016年7月)

坂口祐三郎著  新赤影製作評議会編 『坂口祐三郎 赤影 愛と復讐』

2016年11月24日 | 映画
 この本は、正確には著者坂口氏にインタビューしての聞き書き+フィルモグラフィー。
 坂口氏は、そのなかで、役者というのは「自分じゃない他人をいつもやってるわけ」だから、「そういう神経の分散ができるってのは」頭がおかしい人間でないと勤まらないと仰っている(本書135頁)。
 それはそうかもしれない。

 つまり気違いが普通のことやるから面白いんでしょう。普通の人が普通のことやって面白いですか。何も面白くない。 (136頁)

 作る側も、みんな変だった。 (136頁)

 (自分の子供を作らないのは復讐だというのを)言いたいのはこっちであって、それを理解するかしないは相手の問題であってね、承前)いちいち理解してもらわなくたっていですよ。だって気違いの言っていることを、まともな奴にわかれって言うのも無理じゃないですか。 (138頁)

 訳者もそうかもしれない。「自分じゃない他人をいつもやってる」のは同じである。
 学者もそうだろうと思う。「普通の人が普通のことやって面白いですか。何も面白くない」。

(ワイズ出版 1999年9月)

笈川博一 『物語 エルサレムの歴史 旧約聖書以前からパレスチナ和平まで』

2016年11月21日 | 地域研究
 必要なテーマ・論点へ、浅慮からする飛躍もなく、準備不足による逡巡と凝滞もなく、ごく自然な傾斜をもって記述が、必要に応じて方角を左右しつつ、先へ先へと流れてゆく。それはまるでまさに嚢中の物を探るが如く、碩学の書き下ろし感満載。

(中央公論新社 2010年7月)

鍾嶸 『詩品』

2016年11月20日 | 文学
 曹旭注『詩品集注』で読む。
 「序」以外しょうもない。「いい」「わるい」「すばらしい」といった、範囲も意味内容も限られた価値判断の形容句と評価ばかり、あとそれを補うために感じだけの擬態語、そして読み手への説得力を増すための典拠のおびただしい使用。具体的にどこがどうだからそうだという説明がないからしょうもないと言った。その原因は、そのための発想と語彙表現がなかったからではないか。

(中国 上海古籍出版社 1994月10月)

白川静 『詩経 中国の古代歌謡』

2016年11月20日 | 抜き書き
 『古今集』の仮名序に、この六義〔引用者注。風・雅・頌・賦・比・興〕のうち賦を「かぞへ歌」、比を「なずらへ歌」、興を「たとへ歌」と訳している。賦は直叙、比は比喩と解してよいと思われるが、興を「たとへ歌」としているのは隠喩の意味であろう。『詩経』の最も古い注釈書である『詩毛伝』にも、興の体のものには特に「興なり」といい、その隠された意味について説明を加えているが、そのため詩篇の解釈は謎解きのような方向をたどることになった。〔中略〕こういう見当外れの解釈は、いわゆる興とよばれる発想法の本質が見失われ、また当時の表現法が無視されたための誤解である。
 興はわが国の枕詞や序詞と似た起源をもつ発想法であり、古い信仰や民俗を背景にもつ表現である。興の本質が明らかとなれば、多くの詩篇はすなおに解釈され、その歌謡としての生命を回復することができよう。 (「序章」本書14-15頁、下線は引用者、以下同じ)

 風雨のような自然の現象が歌われているときでも、それはある心的な状態の比喩としてではなく、具体的な事実の象徴であった。表現と事実とは、表現されたものがそのまま事実であり、両者は分離することを許されないという融即の関係にあるものであった。
 (「第一章 古代歌謡の世界」本書52頁)
 
(中公文庫版 2002年11月 もと中央公論社 1970年6月)

白川静 『初期万葉論』

2016年11月18日 | 人文科学
 「見る」ことによって、保護霊のあるその地との接触は、すでに行われているのである。〔人麻呂の羈旅歌のうちここで挙げた〕三首いずれも、ただの叙景の歌ではなく、叙景的意識をもつものではない。「見る」ことの呪歌的性格は、「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められる。 (「第一章 比較文学の方法」、17頁)

 すなわちある対象を視界に取り上げてそれと意識する=「見る」こと即「言祝ぐ」ことであり、客観的に対象を認識することではない。そしてそれを詩に詠うことは客観的な描写を意図したことでもない。

 祝頌詩においては、『瞻〔=見〕る』という行為的な語を着けなくても、存在するものの秩序的な状態、その存在態をいうことが、すなわち魂振りや祝頌的意味をになうものとされた。(同、22頁)

(中公文庫版 2002年9月)

井波律子訳 『完訳 論語』

2016年11月11日 | 宗教
 “訳”、つまり翻訳だから、これで当然だが、原書のテキストクリティーク(本文の校訂を含め)は、一切行われない。だがこれがもし研究書ならそれは必須である。先行研究になる宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店 1974年6月)よりも方法論としては後退していると言える。万が一、これが経書の文字は改むべからずというような理由であるなら、心事はさらに前へと遡ることになる。

(岩波書店 2016年6月)

村上大輔 『チベット聖地の路地裏』

2016年11月11日 | 地域研究
 出版社による紹介

 著者の経歴に興味をひかれた。本著作の内容の、調査かつ記述対象(チベットとチベット人)と自身との間の、一種独特な、冷淡ではなくのめり込むでもなく、さりとて冷静あるいは平板一辺倒というわけでもない、いわば即かず離れずとも形容すべき微妙な距離感は、その経歴と関係はあるのかどうか。

(法藏館書店 2016年8月)