書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

荷田在満 『国歌八論』

2012年03月31日 | 芸術
 三枝博音編『日本哲学思想全書』第11巻「藝術 歌論篇」所収。
 印象がひどく近代的である。
 歌とは世の為にもならず、平素の役にも立たぬもの、天地を動かすなど誰が言い出したのかしらぬが出鱈目もよいところと、言いたい放題である。だが歌を貶めているわけではないことが続く行文で分かる。歌とは、ただ好きな者が少しでも上手く詠みたいと思い、他人の良き歌を見ては自分もああなりたいと努めるものである、それだけに一首でも思い通りの出来のものを作ることができれば、それはそれは楽しいものなのだ、と(「翫歌論」)。「翫」とは“もてあそぶ”意。「翫歌」とは、つまり歌をもてあそぶ。歌はむやみに有り難がったりあがめ奉るべきものではないという意味だろう。
 今日の言葉づかいでいえば、歌は芸術もしくは趣味であって、それのみに価値があるのであり、思想や道徳を宣べるための道具ではないといったところ。

(平凡社 1956年4月初版第1刷 1980年7月第2版第1刷)

藤沢令夫 『ギリシア哲学と現代 世界観のありかた』

2012年03月30日 | 人文科学
 「『主語・術語=実体・属性』の把握様式によって裏付けられつつ成立した」原子論は「世界の見方」ないし「思考方法」(注)って、まさかこの人原子の存在を認めていないのか? 私の理解の至らなさであることを祈る。

 注。「Ⅳ 歴史的・原理的遡源」本書88-92頁)

(岩波書店 年月)

雁屋哲作 花咲アキラ画 『美味しんぼ』 99 「究極の料理人“秋編”“冬編”」

2012年03月30日 | コミック
 西親子はすさまじい料理人である。京料理は、けっして豊かではなくまた新鮮な海の幸にも恵まれぬ京都という場所で暮らす人々が、土地の産物や手に入る限りの材料をすこしでもおいしくいただこうという工夫の産物だったと聞くが、その道を極限まで追求したのが父の音松氏、そしてその衣鉢を継いだ健一郎氏であると思える。もっともこれだけ手間暇をかければ、結構な値段がつくのであろうけれど、それは手間暇代および技術料として当たり前かと思える。高いと思うなら食わなければいいのであるし、金がないなら食えないと我慢するほかはない。それにしても京料理とはおそろしい。
 ところで岡星さん鬱病だったんだ。いまは好転しているのかな。

(小学館 2007年7月)

正岡子規 『病状六尺』 より

2012年03月29日 | 抜き書き
 〈http://www.geocities.jp/kyoketu/8204.html

〇今朝起きると一封の手紙を受取った。それは本郷の某氏より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。  
拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずるところあり左の数言を呈し候  第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし
第二、もし右信ずることあたわずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物わが前に出没隠現するに任ぜよ  
第三、もし右二者ともにあたわずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよしかして死に至らんのみ小生はかつて瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否をあえて問う病間あらば乞う一考あれ(以下略) 
 この親切なるかつ明哲平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであって余の考もほとんどこの手紙の中に尽きて居る。ただ余にあっては精神の煩悶というのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたためであるか、脊髄系を侵されて居るためであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであって、苦しい時には、何ともかとも致しようのないわけである。しかし生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段はもとより「現状の進行に任せる」よりほかはないのである、号叫し煩悶して死に至るよりほかに仕方のないのである。たとえ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一様に諦めるというよりほかに諦め方はない。この十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるようになったとしてもやはり諦めるよりほかはないのである。けれどもそれが肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとえ諦めることが出来ないでも、慰める手段がないこともない。程度の進んだ苦に至っては、ただに慰めることの出来ないのみならず、諦めて居てもなお諦めがつかぬような気がする。けだしそれはやはり諦めのつかぬのであろう。笑え。笑え。健康なる人は笑え。病気を知らぬ人は笑え。幸福なる人は笑え。達者な両脚を持ちながら車に乗るような人は笑え。自分の後ろから巡査のついて来るのを知らず路に落ちている財布をクスネンとするような人は笑え。年が年中昼も夜も寝床に横たわって、三尺の盆栽さえ常に目より上に見上て楽んで居るような自分ですら、麻痺剤のお陰で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居った時の自分を笑うてやりたくなる。実に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑う時の余も、笑わるる時の余も同一の人間であるということを知ったならば、余が煩悶を笑うところの人も、一朝地をかうれば皆余に笑わるるの人たるを免れないだろう。咄々大笑。(六月二十一日記) (六月二十三日) 


 まさに大丈夫(だいじょうふ)。我は爪の垢を煎じて服むべし。服めども自分のような惰弱の徒に効用あるかどうかは判らぬが。

B.ファリントン著 出隆訳 『ギリシヤ人の科学 その現代への意義』 上下

2012年03月29日 | 西洋史
 〔・・・〕トマス・ヒース卿は、その基準的〔スタンダード 原文ルビ〕な大著『ギリシャ数学』(Sir Thomas Heath, Greek Mathematics, Oxford, 1921, Vol. I, pp. 3-6)において、「ギリシャ人は数学に対してそのような特殊な才能を持っていたか?」と自ら問い、なんの躊躇するところもなく自らこれにこう答えている、「この問いに対する答えは、要するにただ、かれらが数学の天才であったのはかれらが一般に哲学の天才であったことの一側面たるのみ、というにある。・・・・・ギリシャ人は、古代の他のいかなる民族よりもぬきんでて、知識をただ知識それ自らのために求める純粋な知識愛を所有していた。・・・・・さらに一そう本質的な事実はギリシャ人が一つの種族として思索家〔原文傍点〕であったことである。」 (「第一章 ギリシャ科学は近東の古代諸文明になにを負うか――技術と科学」、本書8頁)

 「われわれは、今日では、この見解を承認しえないものと認めている」と、著者は「その合理的思惟の能力において他のいずれの民族ともちがっていた」というヒースの結論を否定するのだが、だが、それではなぜギリシャ人は今度は歴史的事実として残るギリシャ人の合理的思惟の能力とその結果(科学的業績)が、「その合理的思惟の能力において他のいずれの民族ともちがっていた」のかを、この書で説明できていない。たといそれがまったくの独創でなく他から教えられたものであったにせよである。ではその教えた者がそれをギリシャ人のように、あるいは以上に、発達させえなかったのは何故かという問い。
 たしかにその理由あるいは原因を民族的人種的あるいは本質的議論に求めるのは不適であろう。著者がいみじくも指摘するように、「ギリシャ民族は純粋な一種族ではなくて混血民族」であったからである。
 しかし、「ギリシャ人は数学に対してそのような特殊な才能を持っていたか?」に対する答えを――問いの対象を科学一般にまで拡大してさえも――、「知識をただ知識それ自らのために求める純粋な知識愛を所有していた」ことに求めるのは、今日でも十分に有効な答えへの道しるべではなかろうか。著者に従い「古代の他のいかなる民族よりもぬきんでて」だったかどうかは別にして。またヒース卿のこれも言葉を借りれば、「一般に」、そう概して、例外の存在はもちろん認めつつ。知識愛のないギリシャ人ももちろん、それもおびただしくいたであろうし、その反対に知識愛に富む非ギリシャ人もまた数多いたであろう。ただしそれが結果、割合として知識愛のあるギリシャ人の数が知識愛のある非ギリシャ人に勝っていたのか、あるいは知識愛を受容する文化がギリシャに強く他文明・地域ではそうでなかったのか、それともいまだ解明されていない要素によってギリシャでのみ他の追随をゆるさぬ数学や科学や合理的思惟が発達したのか。それは判らぬ。

(岩波書店 1955年4/8月第1刷 1991年9月第13/6刷)

韓愈 「師説」 冒頭句新釈

2012年03月28日 | 東洋史
 古之学者、必有師。 師者所以伝道授業解惑也。 人非生而知之者。 孰能無惑。 惑而不従師、其為惑也、終不解矣。
 
 伝統的な読み下し文は以下の通り。

 古の学ぶ者は、必ず師有り。師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。人は生まれながらにして之を知る者に非ず。孰か能く惑ひ無からん。惑ひて師に従はざれば、其の惑ひたるや、終に解けざらん。

 「古の学ぶ者は、必ず師有り。師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり」の箇所、「古の学びは、必ず師有り」と訓むのはどうだろう。
 つまり学者の“者”を、“~する人”ではなく、たんに主語を示す虚詞として解するわけである。もともと後の師ではそう解しているのだから(師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり)、べつに否定する理由はないだろう。それどころか、“学”と“師”が措辞・意味的に対存在になっている以上、字数としても一字でそろえてあると見るほうが普通ではなかろうか。
 さらに言えば、前の“学者”が“学ぶ人”ではなく“学ぶこと”であるとすれば、後の“師”もしくは“師者”は、“教える人”ではなく“教える人に就くこと”あるいは“師に就いて教えをうけること”ではないか。つまり動詞もしくは抽象名詞と取るわけだ。
 さてこの考え方に従えば、「古之学者必有師。師者所以伝道授業解惑也」の訓みは、以下のようになる。

 古の学びは、必ず師とする有り。師とするとは道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。

 とすれば、文中の“授け”は、“さずけ”と読むのではなく“うけ(受け)る”とならねばならない。“授”はどちらの解釈も可能な字だが、実際に“授”ではなく“受”になっているテキストもある。このことは、私のこの解釈を取る立場があったことの一証拠となるだろう。
 ところで、古来の訓読が「古の学ぶ者は、必ず師有り。師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり」のみであるのは何故だろう。断定できる理由はないと思えるが。

藤原定家 『毎月抄』

2012年03月26日 | 芸術
 三枝博音編『日本哲学思想全書』第11巻「藝術 歌論篇」所収。
 有名な「紅旗征戎吾が事に非ず(紅旗征戎非吾事)」の句が若い頃の行蔵を弁護するために後から書き足されたものだという指摘を聞いて、卑劣な奴だと余り好きではなかったが(注)、「本歌取りは、あまり多用するものではない。一首にせいぜい二語、上と下に各一つまでにせよ」とか、歌のよしあしとはその歌自身の出来不出来のことである、作者の権威に目を眩まされるな、名のある歌詠みでも出来の悪い作もあるという教えを見て、これも一廉の人物であると見直した。

 。「ウェキペディア」で「藤原定家」を閲してみると、このエピソードについての言及がない。私の記憶違いだったのだろうか。

(平凡社 1956年4月初版第1刷 1980年7月第2版第1刷)

山田慶児責任編集 『日本の名著』 20 「三浦梅園」

2012年03月26日 | 自然科学
 『玄語』(抄)、『贅語』(抄)、『造物餘譚』収録。この本、総742頁とかなり分厚。そのうえ冒頭山田氏の解説が295頁にも及び、さらに途中『玄語』と『贅語』の間に、吉田忠氏のさらなる解説(364-412頁)があらためて加えられるという、このシリーズのなかでは相当異質な造りである。これらすべては三浦梅園の哲学の持つ、極端な難解さによる。
 基本的に明末清初の西洋宣教師によって紹介された水準の自然科学知識しかなく、ニュートン力学を知ることのなかった梅園の理論が、陰陽五行と気の哲学に基づく、緻密とはいえ思弁的なものであったことは彼についてなんら評価を下げるものではない。彼は、自らの言うところに従えば、生来「世の中ではそうなっているから」という考え方を理解できない、きわめて自律的な思考の人間だったという。しかし晩年、地動説を耳にして検討することもなくそれを一蹴した点において、私は彼をそれほど偉い人間ではないと判断する。なぜなら徹底的に自律的ではなかったということだからだ。たとえば彼にとってさえはるかな古人であるところのソクラテスに及ばぬだろう。

(中央公論社 1983年8月)

E.ブローダ著 市井三郎/恒藤俊彦訳 『ボルツマン 現代科学・哲学のパイオニア』

2012年03月21日 | 伝記
 ルートヴィッヒ・ボルツマン(1844 - 1906)。ブラウン運動の関係者としてその伝記を確かめる。彼は原子論者だったが、彼がその人生のほとんどを生きた19世紀には、原子の存在はまだ視認できていなかった。よって実証できないものを実在すると認めることはできないという陣営も強かった。オストワルドやマッハがその代表的存在である。ボルツマンはもともと鬱病の気味があったらしいが、オストワルドやマッハらとの終わりのない論争に疲れ果て(どちらも確証がないのだからそれは終わらないだろう)、それが原因で自殺してしまったとされる。

(みすず書房 1957年11月)

E.N.ダ・C.アンドレード著 久保亮五/久保千鶴子訳 『ニュートン 私は仮説をつくらない』

2012年03月21日 | 伝記
 表題サブタイトルの「私は仮説をつくらない」はニュートン自身の言葉で、「これまでの哲学におけるような、自然を観察することもなく、測定によって数理的に計測されることがなく、また実験によって検証されることもなく、そのままで真理と見なされるような仮説(すなわち臆測)は、私はつくらない」という意味である。何かの原因を考える際に、「その本質がしからしめるのだ」という考え方を取らないということである。より難しく言えば、「『根本原理→現象論的法則』という道筋を放棄する」と表現するらしい。

(河出書房新社 1968年9月)