書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

馮友蘭著 森下修一訳 『新編中国哲学史』 全2巻

2012年11月30日 | 東洋史
 気の理論を、「初歩的な(=つまり原始的な)唯物論」と形容してある。「素朴唯物主義」なる概念の淵源はこの書か? 
 それにしても、唯物論と弁証法に近いかどうかですべてを裁断する論法は、いまでは到底、学問書として通用するまい。
 馮友蘭という人は、革命後馬鹿になった(あるいはされた、あるいはそのふりをした)のであろう。
 なお馮氏は公孫龍を実念論(客観的観念論)者として捉えていて、加地伸行先生と正反対の解釈である(下巻「第十一章 恵施、公孫竜およびその他弁者」、とくに85頁)。

(林書店 1966年12月・1967年3月)

吉田金一 「ネルチンスクにおける露清講和会議の経過について ゴロヴィーン報告書の問題点」

2012年11月27日 | 東洋史
 市古教授退官記念論叢編集委員会編『論集近代中国研究』(山川出版社 1981年7月)所収。
 ゴロヴィーンは自分が清側に押しまくられて自分の携えてきていた訓令案をすべて出すこともなく早々に相手の要求どおりに妥協してしまったことを隠すために、報告書に嘘ばかり書いていたらしい。
 なお交渉はラテン語とモンゴル語で行われた。当時のヨーロッパの外交文書はラテン語であったし、当時国際法の知識もなく、西洋式の外交交渉にも不慣れな清側(満洲人)を補佐したのがイエズス会士であったことを考えると、交渉においてラテン語が使われたのは当然であるが、ロシア人と満洲人の間で使われたのがモンゴル語というのが、不思議である。どちらもモンゴル帝国の後継国家であるロシアと清朝の本質を示唆しているようでもあって興味深い。当時のロシアは清朝皇帝を「ボグド・ハーン」或いは「黄色いハーン(ツァーリ)」と呼んでいた。対するに清側は、ロシア皇帝を「チャガン・ハーン(白いハン)」と呼んでいた。

(同書 555-580頁)

吉越弘泰 『威風と頽唐 中国文化大革命の政治言語』

2012年11月26日 | 地域研究
 再読。
 著者は文革時の政治的言説、とくに戦略的批判言語であるところの「大批判」言語について、王年一の以下の文章を引用して形容する。
 
 それは先に罪名を定めてから資料をかき集めるのを常とする。そのやり口は深文周納(事実をまげて人に罪をきせる)、断章取義(文章や話の前後を顧みずに、自分に都合のよい部分だけを引用する)、随意引申(勝手に拡大解釈する)、任意汚蔑(思うままに中傷する)、歪曲歴史(相手の経歴を歪曲する)、無限上網(ことを路線的問題にまで引き上げて批判する)というものであった。 (「はじめに」本書19頁。引用は、26頁注(21)によれば、王年一『大動乱的時代』河南人民出版社、1989年、239頁から)

 なぜそういう形を取ったかについてはこの大著のテーマではない。著者は何も語ってはいない。だがもし原因を個人の資質に求めるのであるなら、現象という集団的・社会的性質のそれとして分析することと矛盾していることになるし、さらにいえば言語とは文化項目の一つであるから、文化的範疇で捉えるべきであろうと思う。

(太田出版 2005年8月)

汪暉著 石井剛/羽根次郎訳 『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』

2012年11月21日 | 政治
 再度挑戦、やはりよく分からない。文体も晦渋だし、論旨もよく把握できない。そもそも文革・琉球・チベットというバラバラのテーマが一冊に纏められた理由と三題噺として相互の論理的連関が不明である。それ以前に、中国国内で暮らす中国人に、公の場でこんな“敏感な”問題を語らせても仕方がないと思うのだが。

(青土社 2011年1月)

維吾爾族簡史編写組 『維吾爾族簡史』

2012年11月20日 | 地域研究
 ①1921年のアルマアタ(現アルマトィ)会議について言及がない。
 ②1935年盛世才政権による「維吾爾族」名称採用について言及がない。
 ③1945年第二次東トルキスタン共和国(三区革命)における革命政府・軍における民族構成(数および比率)について言及がない。
 ④明初に湖南省に移住した高昌(天山)ウイグル王国のウイグル人について言及がない。
 ⑤明初(14世紀)から清初(17世紀)までヤルカンド・ハン国で繋いでいるが、ヤルカンド・ハン国はモグーリスタン・ハン国の後、モグーリスタン・ハン国は東チャガタイ・ハン国の後である。モグールはモンゴル、チャガタイはチンギス・ハーンの次男チャガタイ。ヤルカンド・ハン国の初代ハンとなったサイードは、トゥグルク・ティムールの直系の子孫である。すなわちチャガタイの裔で、モンゴル人。ウイグルとは何の関係もない。つまり遊牧ウイグルと現在の新ウイグル人の歴史は、この間、切れている。

(乌鲁木齐 新疆人民出版社 1991年4月)

漢語における「理由」と「原因」という語についての考察(3)

2012年11月15日 | 思考の断片
 それにしても『辞海』(1979年度版)に「原因」が収録されておらず、この語を含んだ「原因和結果」、すなわち causality (因果関係)という西洋伝来の哲学用語の項しか立てられていないのは何故だろうか。
 やはり因果律というのは漢語では外来の観念なのであろうか。既出『辞海』の「原因和結果」項にも、「また因果関係とも言う」と書いてある。ところが今度はこの「因果」という語が単独では同じ『辞海』に収録されていない。因果とはこれも元来仏教用語であるが(『諸橋大漢和』)、同じ仏教用語で意味も同様の「因縁」という語が漢語にはあるが、こちらは入っている。
 但し、両方を収録する『諸橋大漢和』によれば、「因果」の例は『華厳経』(東晋・唐)『涅槃経』(東晋~劉宋)、また史書で『北史』『南史』(唐)と、4-5世紀が上限なのに対し、「因縁」は『史記』と紀元前2世紀に遡る。もっとも本来の意味はやや異なり、「きっかけ」「つて」「よりどころ」等である。
 仏教には詳しくないのでここで博雅の士の教えを乞いたいのだが、「因果」は、仏教の中国伝来後に仏典翻訳に当たってあらたに造語された言葉なのだろうか? また「因明」(仏教論理学、サンスクリット:हेतुविद्या hetu-vidyaa の訳語)の成立と関係はあるのだろうか? (続)

漢語における「理由」と「原因」という語についての考察(2)

2012年11月15日 | 思考の断片
 「原因」という中国語も、もしかしたら日本語起源なのであろうか。
 ウィキペディア中国語版に項なし、『百度百科』に項がある。動詞・名詞双方の意味があり、前者は、「もとをたずねれば~のせいである」、後者は「ある結果や事態を引き起こす条件」の意味とある。
 前者は出典として、明・施耐庵ほか『水滸伝』、清・魏源『聖武記』、清・李伯元『文明小史』、民国・蔡元培「対于学生的希望」、後者には明・朱有炖『仗義疎財』、清・作者不明『霓裳続譜』、民国・魯迅『南腔北調集』、民国/共和国・洪深『電影戯劇表演術』からの例が挙げられている(注)。 
 つまり「原因」は漢語で、日本語からの借入語ではないという事だ。ちなみに『水滸伝』『文明小史』『仗義疎財』『霓裳続譜』「対于学生的希望」は、各時代の口語或いは口語的な文章語(書面語)であり、『南腔北調集』は魯迅独特の欧文脈を交えた口語文(白話文)、『電影戯劇表演術』に至っては完全な現代北京話である
 もともとは「元因」と書いたらしい。『諸橋大漢和』に、「物事のおこり。元因に同じ)とある。そこで「元因」を見ると「もと。おこり。後世は原因の字を用ひる」とあり、「仏本行論」という書籍から「因縁生相、是為元因」という文章が引かれている。冒頭に仏教用語であることを示す印がある。
 ただ、「仏本行論」という書物がわからない。もし『仏本行経』のことであるとすれば、これは劉宋(5世紀)の宝雲が訳した経典だから、『百度百科』の「原因」(名詞)で示されている例より古い。つまり古くは「元因」と書いたという『諸橋大漢和』の説が正しいことの一証拠となるわけである。
 ちなみに『佩文韻府』には、「原因」「元因」ともに載っていない。これは、この語が中国古典の語彙から外れた特殊な言葉であったことを示す。おそらくは仏教用語であることがその理由であろう。 (続)

 。『漢語大詞典』の「原因」項に引かれている例文も『百度百科』と同じである由。御教示くださった大磐利男氏に心より感謝申し上げます。

漢語における「理由」と「原因」という語についての考察(1)

2012年11月15日 | 思考の断片
 「充足理由律」をウィキペディアで読んでいて、ふと中国語版を見てみた。「充足理由律」、そのままである。ちなみにこれは、「どんな事実であっても、それに対して『なぜ』と問うたなら、必ず『なぜならば』という形の説明があるはずだ、という原理」である。
 少し前に、中国語の「理由」は日本語からの借入語だという御教示をいただいていた。そこでこれをよい機会に、「理由」も引いてみることにした。しかし「維基百科」には項目が立てられていない。そこで「百度百科」で調べてみると、あった
 それによれば、基本的な意味は「ものごとの根拠、由来」「ものごとがどうしてそうなっているのか、あるいはああなっているのかの原因」とあって、そのあと実例として出典が三つ挙げられている。一つは康有為の「上摂政王書」、二は老舎の『茶館』、三番目は巴金の「关于<神·鬼·人>」である。
 そのいずれも19世紀末~20世紀のものであって、新しい。やはり日本語からの取り入れた言葉なのであろうか。ただし康有為の「上――」は、文言文(古典漢文)である。文言文のしかも皇帝への上奏文に次ぐ摂政王への上書の中で新来の日本語語彙を使うだろうか。やはり然るべき来歴をもつ漢語なのではないかと疑われる。
 そこで、こんどは例によって文言文の語彙を調べる手順で確かめてみることにした。ところがまず諸橋『大漢和辞典』、「理」の項に「理由」が立てられていない。これにはちょっと驚いた。次に『辞海』(1978年度版)。ここにも無論「理」はあるが「理由」はない。ますます驚く。
 もちろん手持ちの普通の中日辞典や漢語詞典に「理由」は載っている。だが外来語かどうかまでは書かれていない。ならばと『佩文韻府』を見ることにした。しかしない。こうしてみると、「理由」は文言文の語彙ではないか、或いはそうであったにせよ、よほど特殊な語彙ではないかという推測が成り立つであろう。(続)