書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

阮元 『疇人伝』

2013年10月31日 | 伝記
 中国歴代の暦算学者の伝記集。「疇人」は『史記』の語に因む。参考
 1799(嘉慶四)年刊。つまり乾嘉の学の産物である。
 阮元は王年孫を通じて戴震の学派の流れを汲み、清朝考証学の最盛期にそれを集大成する役割を果たした存在であると同時に、宋学を批判しつつも漢学を墨守することなく、自身の創見(ときとしてかなりの僻見)を陳べるのを辞さなかった点、次の時代の今文学派への橋渡しとなる学風を持っていたと評される(狩野直喜『中国哲学史』「阮元」条)。

 巻三十六に黄宗羲の伝がある。阮元は評して曰く、「博覧群書、兼通歩算」。歩算とは算術、数学のこと。
 この書にはあっと驚くような以外な人物が「疇人」として収録されている。
 反対に、入っていないこともある。清代に限って言えば、例えば、
 1. 戴震は入っている。(これは当然である。)
 2. 顧炎武は入っていない。(これもまあ妥当な判断かと思う。)
 3. 恵棟、王鳴盛といった呉派も入っていない。(これも同様。ただし銭大も入っていないのは少し意外。)

 なお、この書は時代順、王朝毎にその時代の人物の伝が配列されているが、三国時代、蜀漢からは一人も挙げられていない。魏・晋は各一名づついる。理由はわからないが興味を惹いたので記しておく。

(北京 中華書局 1991年 文選楼叢書版)

黄宗羲著 沈善洪主編 『黄宗羲全集』 9

2013年10月31日 | 自然科学
 黄宗羲の暦算関係(暦学・天文学・数学)の著作をまとめてある。

 『暦学假如』
 『授時暦故』
 『日月経緯』(新推交食法)
 
 これらの著作から判ることは、黄が中西両方の暦算に通じていたということ、そして顧炎武とは異なり、知っているだけではなく自ら計算できたということである。著作中、計算と数字の羅列が続く箇所が多い。数学的頭脳の持ち主だという印象を強くうける。
 巻末に呉光という人が「黄宗羲遺著考(五)」という論文を書いておられるが、その「二 暦算著作考」は、非常に教えられるところが多い。

(中国 浙江古籍出版社 1992年12月第1次印刷 1993年11月第2次印刷)

小松政夫 『のぼせもんやけん2 植木等の付き人時代のこと。』

2013年10月31日 | その他
 回想記もしくは自伝と思って読んでいたら、最後に「これは小説です」という旨の断り書きがあった。

  この作品は事実を基に創作した書き下ろし小説です。当該の人物・団体に許可を得て、一部実名を使用しておりますが、基本的に実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 どういうことだろう。

(竹書房 2007年12月)

志筑忠雄 『暦象新書』

2013年10月30日 | 自然科学
 再読。
 『日本哲学思想全書』6「自然篇」所収、同書67-321頁。

 『暦象新書』とはかいつまんで言えばこういうものだが、よく言われるのはこの書における彼の後世への最大の功績、「遠心力」、「求心力」、「重力」、「加速」、「楕円」などといった物理学・自然科学の概念・語彙についての日本語による新たな術語の創出である。しかしこの書の真価は、それ以上に、訳の明晰さや正確さ以上に、単なる翻訳の枠内を超えて、原書の部分を「奇児曰く」と訳述したあとで「忠雄曰く」と自身の意見による批評ときに自身の計算結果と比較しての批判を加えつつ、訳述した内容を再確認・再構成する形を取ってゆく部分にあるのではないか。

 中篇になると、「附」という前置きとともに補論が、しばしばつくようになる。ここは、原書の言うところを己が生まれてより受けた儒教(朱子学)の教えとその宇宙論(気や陰陽五行説)の枠組みでなんとか破綻なく理解しようとし、かつまた自身および世間一般の従来の認識体系の内へ無理矢理にでも収めようとする、忠雄の後世から眺めれば凄惨とさえ見える精神的な奮闘と努力の跡である。たとえば中篇末尾のそれ(「不測」と名づけられている)などがその代表的なものだ。
 その中篇は、「巻之下」以降、「奇児曰く」「忠雄曰く」の形式すら文中に溶解して影をひそめ、全文がいわば「附」つまり原書を忠雄が再解釈し、忠雄の解釈と世界観によって再構成・叙述する形へと変わってゆくという、奇妙な体裁を取っている。その変移は、いま述べた志筑の精神的な奮闘努力と関係があるだろう。
 
 一読すれば明らかなことだが、この訳書は語彙および表現ともに、じつに端正な漢文訓読体でしるされている(部分的には漢文そのもので書かれている)。このことは志筑が正統的かつ水準以上の漢学(儒学、則ち朱子学)の知識があったことを証拠立てている(注1)。だがそれが志筑の西洋科学受容にとっては、却って障害となったかと思える。
 下篇はほぼ前篇、原書の忠実な翻訳である。ただし末尾の「混沌分判図説」に至って、原書を無視した(あるいは内容を踏まえた上での)、儒教(朱子学)知識人としての志筑の反論あるいは折衷論としての宇宙論となる。もちろん内容は志筑独自の作にかかるもので、原書にはない。そこでは、「理」すらも、(儒教) 倫理と物理の連続した「性理」の理の意味に変わってしまう(注2)。
 この部分は、思想家としては志筑という人の独創性を示すところかもしれないが、翻訳者としては蛇足、さらに言えばやってはいけないことだった。中篇の巻之下以降がすでにそうである。読者の便を考えた原書の理解に資するための訳者による注釈という節度を越えてしまっている。


 注1。下篇の「凡例」に、この巻はニュートンの物理学の紹介であるという断り書きがある。そこで志筑は、ニュートン力学および物理学を指して「度数之学」という語を用いている。
 注2。この書において、「理」という言葉は「物理法則」もしくは「論理的前提」「形式論理」「論理的結論」の意味で用いられる。「数理」という言い方もあるが、これは「公式」で表される物理法則を指す(基礎方程式)。

藪内清 『支那數學史』

2013年10月29日 | 東洋史
 戦後書かれた『中国の数学』(岩波書店 1974年9月)とは見方の違うところもあるので、両方読んだ方がよいと思う。
 和算を中国数学と比較して優劣を判じたり、中国数学の西洋数学に比しての立ち後れを「偏狭な中華思想」の故だと論じたり(「結語」)、時代が窺える内容である。だが同時に、「然し以上の二点は独り支那人のみの問題ではない」と、返す刀で日本人も斬っている。

(山口書店 1944年3月 原文旧漢字歴史仮名遣い)

吉川幸次郎 「清代三省の学術」

2013年10月29日 | 東洋史
 初出1938年8月『大阪毎日新聞』掲載、のち同年9月大阪毎日新聞社『揚子江』収録。

 清代学術についての簡にして要を得た俯瞰である。著者は、言及する人とその著作のことごとくに、自らの観点からする内容紹介と評価を付している。

(『増補 吉川幸次郎全集』16 筑摩書房 1975年12月、3-10頁)。

川本幸民訳述 『気海観瀾広義』巻八/巻十四(1857・安政3年刊)

2013年10月29日 | 自然科学
 (古典籍総合データベース - 早稲田大学) 

 巻八「大気」条。
 『気海観瀾』では「雰囲気」と訳してあったものを、ここでは「大気」と、いまと同じ訳語を当てている。ただ冒頭、「大気ハ一〔いつ〕二雰囲気トイフ」と断ってある。
 
 巻十四「光」条。
 当時の科学ではあたりまえのことだが、光を「光素」という粒子(もしくは元素・原子)の集合体として捉えている。
 

北野武監督 『アウトレイジ』(2010年)

2013年10月28日 | 映画
 肉体的・言語的暴力の露出がモチーフなのだろう。続編のインタビューでそれらしいこと(後者について)を、監督自身が喋っていた。やくざ社会はそのための単なる借景という印象。やたらな殺人とか、街中でのあたりかまわぬ銃の乱射とか、犯行のあと死体を放置とか、非現実的なシーンが多すぎる。恐怖と嫌悪さえ催す凄まじいストーリーと描写だが、画面の端正さに、最後まで観てしまった。

えちぜんの書斎 「廿二史考異 卷二十一 晉書四 王祥傳」

2013年10月28日 | 東洋史
 (http://www.eonet.ne.jp/~echizen/nijunisikoui/21-2%20ohsho.html

 つまり二十四孝の一人として数えられる王祥は魏の時代を、『晋書』の伝で言われるほどには身ぎれいに過ごしたわけではないということになる。では彼が魏を承けた晋代にあれほど重用あるいは尊崇されたとされるのは何故か。
  そもそも瑯邪王氏は、王祥とその弟王覧の代から漸く顕れる氏族であって、その前はそれほどの名の通った家柄ではなかった。抑もこの一族は本当は二房あって、魏と西晋時代に隆盛だったのは王祥・王覧ではなく、別の王雄の房のほうである。竹林の七賢で有名な王戎とその従弟で、清談でやはり有名な王衍は、こちらの流れである。
 王雄の房は、王戎を含め瑯邪とは縁がない。『晋書』で彼を瑯邪出身というのは一族の本貫であって実際の出身地ではないであろう。東晋時代になって入れ替わるように盛んになった王祥/覧の房の王導とその子孫たちが、西晋滅亡時の司馬氏(司馬睿・元帝)への協力および東晋建国時における貢献の結果、一流となった己の家門を装飾する為に、過去に遡って一族の歴史を改竄したのではないか。

青地林宗 『気海観瀾』(1825・文政八年)

2013年10月27日 | 自然科学
 (古典籍データベース 早稲田大学)

 『気海観瀾広義』他および『理学提要』より続き。

 既に「理科」という言葉が見える(「序」や「凡例」)。「凡例」冒頭に、これは若年層の初心者(童蒙)向けだとはっきり断ってある。これも『理学提要』同様、蘭書を訳したものだそうが(ちなみに両者は体裁内容が類似している)、漢文としてはこちらのほうがはるかにこなれている。
 医学を含む西洋科学の徒を「藝術家(技術者)」と訳す所など、明末清初の用例に沿った正統的な文言文である。明らかに最初から漢文で発想している。訳者の青地林宗は漢方から蘭学に転じた人だから、根っからの蘭学者である広瀬元恭よりも漢籍の素養が深かったのだろう。
 「理」が「物理」の理であること、此方のほうが出版年代的には前だが、『理学提要』と同じい。ただ「空気」或いは「大気」とあるべきところを「雰囲気」としてある。調べてみたところ、これがこの語の第一義の由である。また、「極微」という仏教語を「分子」(あるいは「原子」)の意味に使っている。
 読んでみて、広瀬元恭が『気海観瀾』を批判する理由がわかった。項目が『理学提要』に比べるとやや雑駁で、物理学の全般的な入門書としては体系だっていない(脱けている項目がある)。さらに叙述が簡潔にすぎて、論理的に飛躍がある。
 後者については、ある程度説明がつく。
 『気海観瀾』は『理学提要』とは違い正統的な文言文で書かれているから、その為の語彙と表現がなく、近代科学の実体と論理を叙述しきれなかったのかもしれない。正確具体的に書こうとすると文体が乱れてただの漢文訓読体になってしまうであろう。実際そうなりかかっている部分がある。漢文の造詣の深い(少なくとも広瀬よりも)青地には、それができなかったのではないか。