書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

月本洋 『日本語は論理的である』

2018年01月31日 | 人文科学
 出版社による紹介

 「日本語にも形式論理と同じ、あるいはそれに近似・類似する論理の形式を見出すことができる」ではなく、「日本語の論理の基本は形式論理である」という主張。もちろん独自の点がみとめられるという但し書きを付けて。
 江戸時代末期から明治後「低レベルな英文法」に日本語文法が範を取ったという、その英語の論理が主体の論理(述語の部分の論理)であるのにたいして、日本語のそれは命題論理であるという、比較と指摘も。

(講談社 2009年7月)

鮑彤氏の「公正」の定義

2018年01月29日 | 抜き書き
 出典:ツイッター『美国之音中文网‏』【鲍彤:人人发表意见,人人做出自己的判断,这就是公正】2018/1/26

  鲍彤:我想你提出来的问题是一个有中国特色的问题。因为平反这个东西在全世界不存在。公正评论、公正评价这样一个事情,实际上就是言论自由。人人发表意见,人人做出自己的判断,这就是公正。但是在一个没有言论自由的国度里面,要想达到一个公正的评价是很困难的,是一个中国特色的问题。 (太字は引用者)

 「公正评论、公正评价这样一个事情,实际上就是言论自由。人人发表意见,人人做出自己的判断,这就是公正。」という定義が興味深い。

「眉目」から「ものごとの端緒、手がかり」へ

2018年01月29日 | 思考の断片
 「日本虚拟货币交易所价值约580亿日元新经币消失」【共同社1月27日电】2018年 1月 27日 - 17:02

  日本虚拟货币交易所的运营巨头Coincheck(位于东京)26日发布消息称,价值约580亿日元(约合人民币34亿元)的虚拟货币之一新经币(NEM)因非法访问流向了外部。从交易所的受损额来看,超过2014年2月Mt.Gox(位于东京)曝光的约480亿日元,为迄今最大规模。Coincheck停止了虚拟货币的存取和买卖等大部分服务,截至27日也未有恢复的眉目。


 上の引用部の最後に、「Coincheck停止了虚拟货币的存取和买卖等大部分服务,截至27日也未有恢复的眉目。」という一文があるが、「眉目」(まゆと目、転じて顔、そして顔から横滑りして面子の意味へ、あるいは話の眼目・筋道また万人にぬきんでた人間)が、更に転じて「ものごとの端緒、手がかり」となるのはわからない。どういう過程を通ってのことだろう。


スティーヴン・オッペンハイマー著 仲村明子訳 『人類の足跡10万年全史』

2018年01月28日 | 自然科学
 出版社による紹介

 そのほかの部分は素人でわからないが、そして以下の部分はどちらかといえばこの著のなかでは枝葉末節に属する所なのだが、「プロローグ」の言語の起源と発生に関する議論で、それと断りなしにチョムスキーとピンカーのみ(つまり生成文法論のみ)に言及するのは、これはどうなのかなと思う

(草思社 2007年9月)

ヴェーバー著 内田芳明訳 『古代ユダヤ教』

2018年01月28日 | 人文科学
 これは、どうなのだろう。只今の研究水準からして。発表・出版されてからほとんど1世紀が経過している。
 たとえばの話だが、石田友雄『ユダヤ教史 聖書の民の歴史』(山川出版社 2013年5月)では、その副題が示すように、前者の(比較)宗教社会学にたいし後者は(宗教)史学という、専門の違いもあろうが、“基本的・代表的な書籍(の一部)”とする「参考文献」欄にさえヴェーバーのこの著の名は挙げられていない。

(みすず書房 1985年9月新装版)

ウィキペディア「死海文書」から

2018年01月28日 | 抜き書き
 “5 死海文書の意義”条。

 1996年版の『オックスフォード考古学ガイド』は死海文書について、〔略〕死海文書によってわかったことは、2000年前のユダヤ教文書が現代の学者たちの想像以上に豊富なバリエーションを持っていたことということであり、それによって現代のヘブライ語聖書は歴史的には三つの源(マソラ本文、七十人訳聖書のオリジナルとなったヘブライ語聖書、サマリア五書(サマリア人共同体の伝えてきたモーセ五書))から発しているという広く定着していた仮説が覆されるに至った。現代の研究者たちは紀元100年ごろに行われたユダヤ教での聖書正典化作業以前ヘブライ語聖書の内容は非常に多様かつ流動的なものであったと認識している。〔と書いている。〕

「文質彬彬」の意味

2018年01月25日 | 思考の断片
 文质彬彬を「文:文采;质:实质;彬彬:形容配合适当。原形容人既文雅又朴实,后形容人文雅有礼貌。」と訳している語釈をみてたまげている。
 これは、一語ごとの解釈とそれを繋げた句としての解釈の間に断絶があるのも言語道断だが、それよりこれは現代人向けの超訳なのであろうか。文言文、それも『論語』の原典の解釈なら、何晏と邢昺の注疏(どちらも本文の理解に資するためではなく中世人らしく自説のため、また注のために注をつける人だ)の内容を、現代漢語に直しただけではないか。もっとまじめにやれというほかない。
 宮崎市定御大の訳は何如と検してみるに(『論語の新研究』)、私とほぼ同じだった。アプローチ(テクスト読解の際の)が基本的に同じだから答えも同じになるのだろうと理解した。
 徂徠の『論語徴』も見てみた。「文」は礼楽のことだと相変わらずの一辺倒だが(ちなみに「質」は德行であると更にとばしている)、「野」を「野人」と解釈もしくは翻訳するのは、宮崎御大と同じである。ただ「史」は、前者は「文書作成管理係」(現代日本語に訳せば)の一方後者は「代筆屋」と、ややずれる。

『西遊記』の筆者は、・・・

2018年01月23日 | 思考の断片
 『西遊記』の筆者は、自分の書く怪力乱神を、フィクションの一部、または自分の作り上げる娯楽作品で必要なパーツとして採用していたのか、それとも多少なりともその実在を信じていたのか。
 それはたとえば、宋代の士大夫が、天人相関説を本当にあるいはどこまで信じていたかという問いのようなものである。欧陽脩は『五代史記』で否定、もしくは人智ではその繋がりは理解できないという不可知論の立場をとっている。司馬光は本気で信奉していたらしい。しかし蘇軾はどうか。王安石になると方便や文飾だと割り切っていたとしても驚かない