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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

小池一夫氏@koikekazuoのツイートを見て

2017年12月22日 | 数学
12月21日

ある球団のオーナーが、ある選手のことを「賞味期限切れ」という言葉を使ったことがすごく心に引っ掛かっている。モノじゃあるまし、いくらなんでもその表現は無いだろうと。人間の旬は生きている限り何歳でもいいよ。自分が旬だと思えば、その時が旬だ。そして旬は何度あってもいい。誰であっても。

 スレッドごと眺めてふと思ったが、人を物扱いというのは。言語だけに限っていえばそれは「擬物法」だということである。修辞技法としての用例は擬人法ほど頻繁ではないが、歴史的にちゃんと存在する。たが、ここで問題は、人を物に喩える理由だ。そしてここにおいて「対象となる人間を貶める目的で用いる」と擬物法の用法が確定されてしまえば、過去の用例も吟味しなおす必要が生じる。


『ブックレット菜の花17 部落解放史の最前線 啓発・教育の現場と研究をつなぐ』

2017年12月16日 | 数学
 服部英雄・寺木伸明・布引敏雄・石瀧豊美著、社団法人福岡県人権研究所編集・発行、2013年2月。

 赤根武人の母親(生母、実の母親)は被差別民だったという説が山口市の被差別のなかに以前よりあることを知る。布引敏雄「幕末長州藩の被差別民 『有志』と『力量』」。高杉晋作の有名な赤根に対する罵倒「あに武人がごとき一土民の比ならんや」(天野御民の証言を筆記)も、本来は「土民」ではなかったのではないかとの推測も。本書74-76頁。

新時代の中国:第2部 再見北京/上(その2止)- 毎日新聞

2017年12月09日 | 数学
 副題「出稼ぎ労働者の村、一斉立ち退き 問答無用「低ランク」切り 」

 https://mainichi.jp/articles/20171206/ddm/007/030/124000c*

 「人は平等なはずなのになぜ「低端」扱いされるのか」

 中国の伝統的で主流の観念では、人は平等ではない。そこへ人は平等であるという近代(西洋)の前提、その上に建つ国家体制、さらにそれらすべての構造を形作る思考様式その他もろもろを継ぎ木したから軋みが生じていると私は状況をみている。さらに、伝統回帰でその主流であるところの儒教的なそれをどこまで本気かどうかわかならないが復活させようとしているから大なり小なりこの軋みはますます強くなると予想もする。
 私は、文革大革命にほぼたった一つ結局は果たされなかったものの意義がありえたとすれば、新中国の国家体制にあわせてそれとは合わない異質な過去の伝統を、それが当初から目指されたものか、運動の過程において生み出されたいわば副産物かは門外漢の私には判らないが、断ち切ろうとしたことだと思っている。

「高達美的詮釋學」

2017年07月24日 | 数学
 http://www.nhu.edu.tw/~sts/class/class_03_3.htm

 この高達美Hans-Georg Gadamerの学説と方法論を文言文および宋明の白話で書かれた中国哲学に当てはめて論じる某専著(中国語)を発見した。当てはめ学問は、借りてきた道具(適用の妥当性を問わないのならそれは何でもよい)が掘る形には形が掘れるだろう。たとえその掘った形が真を穿っていなくとも、それは道具の責任で、道具を使っただけの者には責任はない。道具が悪い、あるいはべつに悪いところはなくても、みなが使い出して独自性が薄れれば、次の新しい道具をまた借りてくるまでのことである。そんなところか。必要もあるまいから名は挙げない。

薩日娜 『日中数学界の近代』

2017年07月22日 | 数学
 出版社による紹介

 明末清初の西洋数学の中国流入について、頁は割かれているが、その流れは康煕時代以降中断し、影響は時期的にもまた分野的にも(数学・天文学・暦学)限定されたものだったとしてある。日本のそれについては、知らなかったが、1722(享保5)年の禁書令緩和以前に『幾何原本』が輸入されていた由。しかし、「和算には証明するという観点がなかったために」「その論ずるところは極めて簡単な事実のみで、一見して分りきっていると考え」(藤原松三郎説の引用、24頁。以下も同じ)、おそらくは「我邦がより進歩していると誤認した結果」、当時の日本の数学者はこれを重視しなかったとしてある。

(臨川書店 2016年12月)

曹長青 「余傑歩到劉暁波撕裂後塵」

2017年07月22日 | 数学
 原題:曹长青 余杰步刘晓波撕裂后尘

  按余杰的逻辑和价值观,他今天已经没有价值了,因为他自己躲到了一个安全的地方。

  余杰的这种“死跟人”的做法也不是孤立的,也有相当的代表性;但它不代表大多数普通人,只代表大多数利益圈子里的人(文化人和政客)。为什麽? 

  “死跟人”只是有利可图的人才做。这种利益可以是金钱、虚荣、强化自己在权威圈子里(文化圈或政治圈)的地位,或起码不得罪那个影响你仕途的圈子。而普通百姓在“人”和“理念”选择的时候,就靠自己的“常识”判断了,虽然他们很有可能受文化人的影响。但只要有机会得到更符合逻辑常识的观点,没有利益相关的普通人就会去“跟理念”了。

  哈哈。但这并不是开玩笑好的话。又不是限于那一位人的问题。像曹长青先生指出那样,他是具有某种代表性的存在。

Victor H. Mair,"Buddhism and the Rise of the Written Vernacular in East Asia"

2017年07月01日 | 数学
 副題:The Making of National Languages"
 The Journal of Asian Studies, Volume 53, Issue 3, August 1994, pp. 707-751

 仏教漢訳における繋辞の「是」は、A is Bの文意を漢語で示すさい、文言文では構文はABで繋辞はもともとなかったが、“わかりやすさ”のために、それが存在する口語から輸入された、という説明である(p. 710)。しかしもとの文言文のABという構文が英語のA is B、すくなくともそのままの文意ではなかったとしたらどうするのだろう。すくなくともそうだという証明はない。それにその“わかりやすさ”とは、誰がそう考えた誰のための“わかりやすさ”なのだろうか。

日原利国編『中国思想辞典』「体用」項(山崎道夫執筆)

2017年07月01日 | 数学
 2017年07月01日「島田虔次「體用の歴史に寄せて」」より続き。

 体と用は「事物の本体とその作用,または原理と現象」と説明してある(。先ほどの「本質」よりも「原理」のほうが宜しかろう。ただし「体と用とは,天と人とも置き換えられる」(同項)ともあって、するとつまり、体」=「理」という理解が成り立つ。「理」という「原理」である。こうしてみれば「体用一源」(体と用のもとは一つで区別はない)という議論も、「理と気は分けられない」という議論と並行したものであるという納得がいく。さらには、理と気の(因果)関係に時間の要素が乏しいわけもまた。
 土田健次郎氏の『道学の形成』(創文社2002/12)では、朱子の言説において「性」=「体」だとする(「第5章 道学と佛教・道教」277頁)。朱子は人間一人一人の裡にある理を性と呼ぶからこれは当然だが、著者は「知」は「用」であるとし、この構図が「朱熹の基本」であると注意される。

(研文出版 1984年4月)

渡辺純成 「満洲語資料からみた『幾何』の語源について」

2017年05月16日 | 数学
 CiNii 論文。
 もと『数理解析研究所講究録』1444、2005年7月掲載、同誌34-42頁。 … *読んだ。内容は、もともと「幾何」はGeometriaのGeoの音訳ではないこと、「幾何学」は西洋の数学全体mathematicaを指したのが本来の意味であること、幾何学を専ら意味するようになったのは19世紀以降という主張。たしかに、マテオ・リッチ/徐光啓の『幾何原本』はその内容に代数も含んでいる。さらに言えば、「幾何」はもともと漢語において「いくら」「いくばく」という数(と量)を指し示す言葉であるから、アリストテレス「範疇論」における10範疇のうちの「量」の訳語として当てられたという指摘もなるほどと素直に頷ける。