書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

塚田清策 「沖縄の安国山樹華木之記碑」

2016年09月30日 | 地域研究
 『信州大学教育学部紀要』20、1968年10月掲載、同誌107-113頁。

 同碑文の原文が収録されている。著者も指摘される通り、全体として平易な漢文(古文)で書かれているが、ところどころ“単純”ながら“駢体文を思わせる”対句が挿まれている。だが古文でも対句(的手法)をまったく使わないわけではないから、破格というほどではない。そしてこれも著者が仰るように、対句を文章で用いるのは、「その文の音調を整える点に於て重要な価値がある」のであり、その事情は、古文においてもかわらない。
 碑の文章を草したのは、碑文の末尾にその名が記されている安陽澹菴(あんようたんあん)という人物だが、これは、上里隆史氏のご意見によれば、禅宗の僧侶らしい。

David Brophy, "Uyghur Nation"

2016年09月26日 | 地域研究
 副題:"Reform and Revolution on the Russia-China Frontier"
 出版社による紹介

 非常に興味深い。
 セルゲイ・マーロフはその人生の早い時期にブルハン・シャヒディと出会っている。1913-1915年の間のいつか(1914年2月?)、ウルムチにおいて。本書51頁。ブルハンの『新疆五十年』にも載っていたかどうか。1921年アルマアタ(もしくはタシケント)会議のことは出て来ないが、1934年に彼が行った”唯一公的な”関係コメントとして、“クラプロートが主張しているように、新疆のテュルク系住民はウイグル人の伝統を受け継ぐ者であると科学的見地から言うことができる”(大意)という発言が紹介されている。本書229頁。
 ただ、この“ウイグル人”認定の全過程において、マーロフのような言語学者の果たした役割は偶発的・副次的なもので中心的なものではまったくなかったと著者は断じている。ただしその根拠は示されていない(同上頁)。

2016年9月30日注記。

 『新疆五十年』(北京、文史資料出版社 1984年2月)を、念のため「楊増新統治時期」の終わりまで繰ってみたが、マーロフの名は出て来ない。

(Harvard University Press, April 2016)

大野晋 『文法と語彙』

2016年09月25日 | 抜き書き
 現代社会には、各国に異なる政治的経済的諸制度が行われている。その制度を比較すれば、A国の正義は、B国では不正とされ、B国の善は、A国では必ずしも善でない。これは常識的事実である。
 しかし、人間の思考に関しては、万人に妥当する論理があると信じられている。つまり同一律、矛盾律、排中律、充足理由律の原則の四つは、国境を越え、民族の別なく、妥当する論理の基礎とされている。この同一律は英語なら A is A. 矛盾律は A is not Non A. で表現される。そして日本語ではこれを「AはAである」「Aは非Aにあらず」と訳している。だが、日本語には「AはAである」と並んで「AがAである」も存在する。A is A. は果して、そのどちらに当るものであるのか。「AはAである」という表現は、本当に A is A. に当るのであるか。もし A is A. が必ずしも「AはAである」と等しくないならば、日本語によっては、いわゆる「思惟の法則」は正しく理解されない懼れがあるのではなかろうか。
 (「Ⅰ 文法 2 日本人の思考と日本語」 本書25頁)

(岩波書店 1987年2月)

漢典 「欠佳」項

2016年09月25日 | その他
 http://zdic.net http://www.zdic.net/c/0/160/359984.htm
 
 「欠佳」とは「あまりよくない」という意味のことば。私は個人的には漢語を品詞に分類するのはあまり意味がないと思っているが、この言葉は品詞分類はされていない。単語か熟語かどうかの説明もない。それはさておき、文言文の例文が一つもない。『國語辭典』の方にある唯一の例文「他因態度欠佳而被父親責罵」は白話文である。新語か。出典の指示がないから文脈その他を閲しようがない。そんな必要もないほど、日常多用される表現ということなのかもしれない。
 「佳」という字は、文言文の、それもわりあい古い時代から抽象的な意味あいを持ったことばであるように見えるところが、興味深い。『楚辞』「大招」、「姱修滂浩,麗以佳只。



冨谷至 『中華帝国のジレンマ 礼的思想と法的秩序』

2016年09月25日 | 抜き書き
  主権者が定める準則・命令、成文法を絶対とする、これはいわゆる法実証主義にほかならず、人間の善なる性を前提とする自然法とは根本的に相容れない考えである。性善説に縛られず、また天と人との分離を宣言した荀子、韓非にあっては、立法権を有する君主が定める成文法規のみに依存する現実主義、法実証主義へと傾斜すること、理の当然と言ってもよいかもしれない。〔中略〕さらにこのことを言っておこう。荀子から韓非へ、そして秦漢からはじまる律と令、それはきわめて現実的かつ現世的な法規であり、そこには神明は存在しないとも。 (「Ⅱ 中国古代法の成立と法的規範」 本書133頁。下線は引用者、以下同じ)

 荀子の礼論の背景には、自然 (nature) としての天と、人間の性 (human nature) との相関関係の否定があった。礼は自然に人性に備わっているのではなく、外から規範として人為的に創作されたもので、情欲を抑制し、人間を理性的にかつ善なる方向に教化するものとした。
 それは、荀子の教えを受け継いだ韓非の法理論へと踏襲されていく。韓非の法は、為政者が制定した度量衡的基準であり、それでもって犯罪を測り、決められた刑罰を適用するためのマニュアルであった。荀子や韓非の説く礼と法は、ともに人間の放恣な行動を制御し、社会の安定秩序を目した手段にほかならず、両者の違いは放恣な行動を未然の段階で教化によって防ぐか、犯罪が起こってから制裁という形で処理して、そこから一般予防、秩序の安定をはかるかにあった。しばせんは、それをこう一条で説いている。
  夫(そ)れ礼は未熟の前に禁じ、法は已然の後に施す。 (『史記』太史公自序)
 (「総論」 本書206-207頁)

(筑摩書房 2016年2月)


蘭千壽/外山みどり編 『帰属過程の心理学』

2016年09月23日 | 人文科学
 帰属過程attribution、あるいはさらに溯って因果関係の認識が、人類普遍の思考様式であるのかどうか。またそうであるとして、ここでの”原因”がもっぱら作用因であることについて、なぜそうであるのかの説明はない。
 前者についてはNisbettによる反証井筒俊彦による反論(こちらは近代以前の非西洋文化圏における)があるし、後者においては中村元の通時的な全否定がある(インド仏教論理学においては作用因ではなく質料因もしくは形相因が原因として認められていること等)。

(ナカニシヤ出版 1991年3月)

高梨素子 『古今伝受の周辺 』 

2016年09月23日 | 日本史
 出版社による紹介

  古今伝受(伝授)の内容(記録を「聞書」とよぶらしい)は、字の読み方あり、発音あり、字義の解釈ありと、漢籍の注疏をおもわせる。個人的に連想したのは朱子の新注、また次いで『資治通鑑』の胡三省注である。歌そのものの解釈になると、「こう読むべきだ」という信念の吐露と、「こう読むのだ」という強制になる。

(おうふう 2016年5月)

張洋 『新疆漢語方言与維吾爾語比較研究』

2016年09月23日 | 人文科学
 原書名:张洋『新疆汉语方言与维吾尔语比较研究』
 百度百科の説明

 「第二章 新疆语言大观园中的奇葩——汉语方言」の、”第一节 新疆汉语的历史足迹”および、”第二节 新疆汉语方言的形成及分片”を、もっぱら読む。  

 第一節の要旨:前漢時代から新疆では漢語が話されるようになり、南北朝をへて唐宋時代には彼の地の藩王ですら漢語を使用するようになった。元明時代になるとこの傾向はますます拡大深化の傾向を進めるが、それを受けた清朝はこの地方での言語政策に意を用い、統治者の言語の通用と同時に現地語の存在にも留意した。この過程において、現地の漢語にウイグル語からの影響(借用語)が見られるようになった。
 第二節の要旨:こうして現在、新疆地域で話される漢語は①蘭銀官話北疆片、②中原官話南疆片、③北京官話片の三種に分類できる由。新疆における漢語話者は867.88万人、全人口の44.03%。最も話者が多いのは①である。

(乌鲁木齐 : 新疆人民出版社 2009年8月)

伊東俊太郎 『近代科学の源流』

2016年09月20日 | 抜き書き
 前述の『分解』〔引用者注・帰納〕と『合成』〔引用者注・演繹〕の科学方法論は、十四世紀の終りにイタリアのパドヴァ大学に伝わり、そこでさらに発展せしめられ、十六世紀にはアゴスティーノ・ニーフォ〔略〕やジャコポ・ザバレッラ〔略〕らの人々により活発に唱導された。ガリレオはパドヴァ大学において、このザバレッラの方法論に影響を受け、彼がまさし く『分解的方法〔略〕』と『合成的方法〔略〕』とよんでいるこの方法を、彼自身の自然現象の数学的で実験的な分析と結びつけて、今日『仮説演繹法』とよばれる近代科学の方法論をつくり出したのである (第9章「西欧ラテン科学の興隆」、同書293頁)

(中央公論新社中公文庫版 2007年9月、もと中央公論社 1978年10月)

モリス・クライン著 中山茂訳 『数学の文化史』 下

2016年09月20日 | 抜き書き
 もう一つ、相対論研究が注意を喚起した問題は、無意識に仮説を作ることである。これは進歩への障碍になる。無批判に気軽に仮説を作ることは戒るべきである。たとえば時間、距離、同時性がこの宇宙のすべての人に対して同一である、というものなど、無批判な仮説の好例である。今日の数学者、科学者は、表向きに認められ仮説としてのべられたものよりも、無意識裡に作られた仮説にもっと注意をはらわねばならないことを自覚している。 (第二十七章「相対性理論」、同書286頁)

(社会思想社 1987年2月)