書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

津田左右吉 『支那思想と日本』

2006年03月31日 | 日本史
 再読。

“言議を好み論弁を好むのが支那人の性癖であるが、それは外に向つて自己を主張し他を説服せんとするところに本色がある。彼等は思索に長ぜず、反省と内観とを好まない。対するものの心理の機微を捉へて我が言に聴従させようとすることに力を尽くしても、思惟を正確にする方法は考えられず、論理の学は微かにその萌芽を見ながら成長せずして早く枯死し、却つていはゆる弁者の弁の如く真偽是非を没却する詭弁の術がそこから発達した” (「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」〔1932年〕 本書24頁。原文旧漢字)

“或はまた自己の主張し又は要望するところを恰も現実に存在するものの如く考へ、それを根拠として理説を立てるのが支那の思想家に通有な態度であつて、儒家や道家の説が空疎に流れてゐるのはさういふところに一つの理由があるが、それは実は実行を要求する道徳や政治の教であるからであつて、畢竟、同じところに由来がある。実行を要求するところから、自己の主張を主張することにのみつとめ、それが実行し得られるかどうかを現実の事態そのものについて考へないのである” (同上 本書24-25頁)

 今日の中国を観るにおいても十分に参考となる意見だと思う。

(岩波書店 1938年11月)

佐藤優 『国家の自縛』

2006年03月30日 | 政治
 以下の二項目を書くために再読。

①「Sankei Web」2006年3月30日、「教科書検定 古い資料根拠に合格 著者らは後に記述修正」
 →http://www.sankei.co.jp/news/060330/sha035.htm

 相手の土俵で同胞敵味方に分かれて一所懸命戦う図。

②「多維網」2006年3月29日、孫秀萍「專稿﹕日本対華﹑韓由強硬到溫和的転折点」 →http://www2.chinesenewsnet.com/MainNews/Opinion/2006_3_29_9_49_16_616.html

 悪いのはいつも日本の由。
 ちょっとおとぎ話をしてみたい。
 孫秀萍と言う人は、実はジャーナリストではなくて本当はタイコモチ、幇間だったと考えてみる。
 タイコモチなら、言っていることはもちろん座を盛り上げるための口から出任せ、その場限りのデタラメだから、まじめに受け答えするのは野暮だし愚の骨頂ということになる。
 また彼女がタイコモチだとすると、それでは旦那は一体誰かということになるのだが、さしづめ日本と中国の関係が改善されて両国間の緊張が弛むことが己の利益に反することになる中国国内外の勢力あたりになろうか。そして彼らの意図は、中国人の間で「日本はけしからん」という感情が増大して中国政府が現実的・協調的な対日政策を取ることを困難にするところにあるのだろう。
 おとぎ話終わり。

(産経新聞社 2005年9月)

西村ミツル原作 かわすみひろし漫画 『大使閣下の料理人』 17

2006年03月29日 | コミック
“先日は失礼をしました / シェフ・オーサワ” (「誇りのレシピ⑧」)

 この巻における、まさに圧巻というべきシーンの台詞。古典劇の一場面を観るようである。
 青柳愛、持ち味はまったく違うが、ミン・ホアに迫る存在感が出てきた。これで続けて読む気になる。
 
(講談社 2003年9月)

西村ミツル原作 かわすみひろし漫画 『大使閣下の料理人』 16

2006年03月28日 | コミック
 N国(あきらかにNorth KoreaのN)編の、政府と一般人は別、人間としての感情はイデオロギーを超えて普遍的という主張は、そのとおりだと思う。だが、続くフランス・ロシア編の「どんな努力や誠意も相手の理不尽さの前には無力だ」という主人公の心の声もまた、そのとおりだと思う。
 ついでながら、N国編で、冷麺の起源について「高句麗時代の両班(貴族)の食べ物だった」という説明に首を傾げる。
 冷麺はともかく両班(ヤンパン)は高句麗(前37?--668)ではなく高麗(918--1392)起源である。科挙制度が実施されていなければ両班(科挙官僚およびその出身母体となる階層)は存在しないからだ。朝鮮半島で科挙が行われるのは高麗時代以降のはずである。

(講談社 2003年6月)

▲麻原彰光・松本智津夫被告の控訴棄却。手続き上当然であるし、よしんば同被告の控訴審をやったところでオウム真理教関連事件の真実が明らかになるとは思えない。そもそも他人の人権を侵害した者の人権をそこまでして守らなければならない必要性がわからない。つまり私は賛成である。

阮美妹(げんみす) 『台湾二二八の真実 消えた父を探して』

2006年03月28日 | 東洋史
“二二八事件の調査は、公的なものなどさまざまあるが、阮さんのように、個人の立場でこれだけの調査をした人は私はほかに知らない” (李登輝「序」)

 天安門事件における丁字霖/蒋培坤『天安門の犠牲者を訪ねて』(文藝春秋、1994年12月。→2003年2月2日欄)と互いになぞらえられるべき、飽く事なき真実探求の軌跡。かつ国家と個人の関係について思いを馳せるのに、これ以上はまたとないであろう事実の記録でもある。

(まどか出版 2006年2月)

▲『民主中国』(http://www.chinamz.org/MZ_Magzine/chinamz.htm)掲載、
 焦国標「畸形的日本親中派」(2006年3月21日執筆日付)
 →http://www.chinamz.org/MZ_Magzine/151issue/151zx5.htm

 日本の親中派(現在只今の中国共産党・政府を賞賛支持もしくは弁護する人々)について、私は、一言でいえば、彼らは馬鹿か嘘つきだと思っているのだが、焦氏は、これも一言でいえば、彼らは馬鹿と嘘つきだと言っている。題名の「畸形」という言葉に籠められているのは、この意味とそれから筆者の蔑みの感情である。
 ちなみに、中国語の世界において差別語や差別表現という概念は、ほとんどない。

▲「産経新聞」2006年3月28日、「首相、中韓を重ねて批判 靖国参拝」
 →http://www.sankei.co.jp/news/060327/sei090.htm

 これだけ見れば小泉首相が強硬な持論をいつもどおりに開陳しただけに見えるが、以下の報道を念頭に置いて観れば、中国側が投げ込んできたボールを投げ返したと取れる。素人考えだが。

 ●「asahi.com」2006年3月26日、「『靖国』『戦犯』言及避ける 中国主席の日本向け講話草案」
 →http://www.asahi.com/special/050410/TKY200603250330.html

 ●「YOMIURI ONLINE」2006年3月28日、「『歴史を基礎にするな』中国政府系元所長が対日転換論」
 →http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060328id01.htm

▲「人民網日本語版」2006年3月27日、「評論:『政冷』で『経涼』を促してはならない」
 →http://j1.peopledaily.com.cn/2006/03/27/jp20060327_58503.html

 The Economist かどこかの英国メディアが以前、「中国と日本は、とことんまでいがみ合った挙げ句、互いが不可欠の存在である現実を確認するのだろう」という旨書いていたそうだ。多分そうなのだろう。

今週のコメントしない本

2006年03月25日 | 
 仕事で脳漿を絞りきったので、気の利いた言葉は何も出ません。

①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  外務省百年史編纂委員会編 『外務省の百年』 上 (原書房 1979年10月再版)

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本
  該当作なし

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本
  梅棹忠夫編著 『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』 (日本放送出版協会 2000年6月)

  大久保利謙 『大久保利謙歴史著作集』 7 「日本近代史学の成立」 (吉川弘文館 1988年10月)

  葉山禎作編 『日本の近世』 4 「生産の技術」 (中央公論社 1992年1月)

④つまらなさすぎて感想も出てこない本
  イワン・シマトゥパン著 柏村彰夫訳 『アジアの現代文学』 17 「〔インドネシア〕渇き」 (めこん 2000年12月)  

⑤出来が粗末で感想の持ちようがない本
  該当作なし  

⑥余りに愚劣でわざわざ感想を書くのは時間の無駄と思ってしまう本
  陸培春 『アジア人が見た8月15日』 (かもがわ出版 1995年8月)
  
⑦本人にも分からない何かの理由で感想を書く気にならない本 
  該当作なし

▲最近、発見したこと。

“悪友を親しむ者は、共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり” (福沢諭吉「脱亜論」)

 国は引っ越しできないのだから、清や朝鮮とは隣国として通常必要なつきあいは続ける。もちろんその場合、国際社会におけるルールに則り、外交的な礼儀を欠かすことはない。貿易などの実務的な関係は、もちろん続ける。しかしこれら両国がこの先どうなろうと、日本の国益や安全保障に影響しないかぎり、一切関知しない。衰退するのも勝手だし、よしんば亡びようとも勝手であって、その国の政府と人民の自由である――。
 これが「脱亜論」を書いた福沢の真意だったと思うようになりました。いまの言葉でいえば、“政冷経熱”、それから“自己責任”、つまりビジネスライクのすすめです。立国が私なら亡国も私なのは当たり前すぎる理屈です。

高橋ツトム 『SIDOOH 士道』 4

2006年03月24日 | コミック
 この人の作品で、読んだあとで値段が高すぎると思った本は、これが初めてである。

(集英社 2006年3月)

▲「Infoseek ニュース」2006年3月23日、「(スポーツ報知)韓国が10月以降 再戦要求 ドーム球場ある日本で」 →http://news.www.infoseek.co.jp/topics/sports/wcup_baseball.html?d=20060323hochi006&cat=60

 辛相佑・韓国野球委員会(KBO)総裁なる人物、信じられないほど精神の柄が小さい。この人の民族意識は「反日」のほかには何もないのだろうか。貧しすぎるアイデンティティである。
 しかも、勝手な屁理屈をこねて負けを認めず、「もう一度戦え」などと強制する上に、それについては自分のところにはドーム球場がないから試合場はお前の責任で準備しろ、と当然の権利のように要求するのはどういう神経だろう。
 国内向けのジェスチャーなのかもしれない。しかしながらそのダシに使われる側としては、人さらいを国家の英雄として処遇する北朝鮮もだが、ちょっと、もう付き合いきれないというのが、私個人としての正直な感想である。

▲「人民網日本語版」2006年3月22日、「歴史否定に処罰を 『歴史の刺客』たちの末路」(1)(2)
 →http://j1.peopledaily.com.cn/2006/03/22/jp20060322_58389.html
 →http://j1.peopledaily.com.cn/2006/03/22/jp20060322_58401.html

“過ぎ去ったばかりの2006年2月は、歴史の重々しさに満ちていた。2月14日、日本の安部晋三官房長官と麻生太郎外相は国会答弁の中で「日本の国内法ではA級戦犯は犯罪者ではない」と発言した。同23日、フランスではシラク大統領やドビルパン首相など多くの政府要人がユダヤ人青年アリミさんの葬儀に参列した。アリミさんはユダヤ人であるために殺害されたのだ。同25日、米オーランド市ではナチスの軍服を着たネオナチがデモを行い、抗議する人々と殴り〔原文ママ〕になった。さまざまな「歴史の刺客」が歴史を抹殺する中、英国の右翼学者デビッド・アービング氏は歴史を否定したために、オーストリアで禁固3年の判決を言い渡された。この判決は「歴史の刺客」たちへの警鐘である” (前掲両記事の冒頭)

 「日本の国内法ではA級戦犯は犯罪者ではない」。事実である。
 東京裁判=極東国際軍事裁判は、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)に拠って行われたものである。(そしてA級戦犯とは、その極東国際軍事裁判所条例 Charter of the International Military Tribunal for the Far East の第五条A項に該当する犯罪を犯したとして極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。)
 だからサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)の第11条で、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない」と、定められているのである。
 事実を述べることがなぜ「歴史の否定」になるのか。否定しているのは厚顔無恥な虚言の散布者、下劣な扇動者たるこの論説の筆者ではないか。「歴史の刺客」とは、この者をこそ指して呼ぶべき名である。
 こういう輩(背後で糸を引く黒幕も含めて)にまともに相手になって、彼らに真摯に語りかけて誤解を解こうとする行為は、いったい意味があるのだろうか。こちらもまた、私個人の感情を正直に言えば、もううんざりなのだが・・・・・・。

上坂冬子 『虎口の総統 李登輝とその妻』

2006年03月23日 | 政治
 再読。
 日本では武士道精神の鼓舞者としての李登輝氏はよく語られるが、クリスチャンとしての李登輝氏はあまり顧みられることがないようだ。

“台湾の人々の直接投票によって総統に就任してから、よりかかれるものが何一つなかった私を支えてくれたのは、神だった” (「補章 息子の遺稿に見る李登輝とその妻」 本書307-308頁)

(講談社 2001年4月)