書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

銭国紅 『日本と中国における「西洋」の発見 19世紀日中知識人の世界像の形成』 

2005年02月28日 | 東洋史
 これは「洋務論(中体西用論)」の鼻祖・魏源(1794-1857)と「東洋道徳と西洋芸術(和魂洋才論)」の鼻祖・佐久間象山(1811-1864)の比較研究である。

“象山と魏源との最大の差異は、(略)超越の立場にあるのではないかと思われる。簡単に言えば、魏源は東西両価値の中間にあって、双方への超越を強いられる立場にあり、象山の場合には、東西両文化の向こう側にあって、双方の対象化を通じて、西洋の価値にせよ、中国の価値にせよ、日本の現実に合うか否かによって選択することができる立場にあった。ゆえに彼ははじめから、西洋の価値と戦うとか東洋の価値と戦うとかいう発想がなかった。その反対に、魏源は東西両価値とも戦わなければならない運命に置かれていた。さらに象山は、西洋の価値を認めた上で、両文明の再構築に踏み込み、近代への始動を試みたが、魏源は西洋の価値か東洋の価値かを選択するのに迷い、結局西洋の価値を基礎とし、在来の秩序の改造を遂行する方向を明確に打ち出すことができなかった” (第三章「世界の発見――日中の知識人の精神軌跡」 167頁)

 私は魏源の『海国図志』を読んでいないし、象山の文章も読んでいない。だから著者による両者に対する評価と結論についてはなんとも判断しかねるのだが、それはさておくとして、著者の言う“超越”がどういうことを指しているのかよくわからない。

“両国の(近代化の歩み)の差異を作り出したのは、両国の文化と社会との関係のあり方にあるのではないかと思われる” (終章「近代化の現実的意義」 350頁)

 これだけなら当たり前ではないかと思うが、この後がとても説得的である。

“中国では、学問(広義の文化)は、科挙によって政治と緊密に結びつく一方、科挙制度では生まれつきの序列を認めず、中華文化の水準を示す科挙の学位を持つか否かによって社会的な身分や位置づけが常に変動する。清末の知識人にとっては、中国と西洋との序列関係を問う前に、まず中国文化の有無を問わなければならない。中国文化を失ったら、中国における士大夫としての存在が意味をなさなくなる。そのような危機は、西洋の文化を認めないことで抹消することができるのではないか、と多くの士大夫が妄想していたかのように見える。もちろん、中国文化の優秀性そのものに対する愛着や自信にも大きく作用されている側面もあろう” (同上)

 それにしても、つまりは己の保身のためというのである。アイデンティティ・クライシスなどという大層な言葉を使いかねるほどに卑近な消息である。

“徳川時代の日本社会では世襲制度で儒学や洋学を学んでいた。特に直接に政治と結びつくことがないために、学問ができることが立身出世の手段になるわけではない。そのため実際と合わなくなった学問を捨てたり批判したりすることが比較的しやすかったといえよう。一方、世襲制度のもとでは、序列意識や上と下を強く意識する価値観をも作り出していると言えるのではないだろうか” (同 350-351頁)

 これは、そのとおりだと思う。

 ところで、日本の西洋化を「いわゆる宿命として」として捉え、「西洋文明の中でもとくに近代的な要素であるところの技術や制度や生活習慣の摂取や同化とそれの国内における発展という形で行われ」た「近代化」(平川祐弘『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』「和魂洋才の系譜 はじめに」)と見るのは正しいのだろうか。これを近代化の定義としていいのかという疑問である。
 「西洋文明の中でもとくに近代的な要素であるところの技術や制度や生活習慣の摂取や同化とそれの国内における発展という形」のうえなら、日中ともに同じである。この尺度によれば両国の「近代化」はその速度や程度が異なっていただけということになる。何をもって成功とするか失敗とするかは見る者の主観によらねばならないし、これではほぼ同時期に同じやり方で近代化を図った日本と中国のうち、日本がなぜ成功し中国が成功しなかったかという質問の答えは出てこない。

 朱子学が江戸時代の日本人に合理主義の思惟を植え付け、それが日本の近代化――西洋文明の中でもとくに近代的な要素であるところの技術や制度や生活習慣の摂取や同化とそれの国内における発展という形のそれ――を準備したというよく言われる見方を、本書の筆者も取っている。

“朱子学の合理的な思弁は、日本人の合理主義の発展を大きく推進する役割を果たしたのである。それは藤原惺窩の合理的な思惟や幕末の横井小楠などの国際平等を唱える合理的な精神につながったのはもちろん、幕末における西洋の自然法の思想や自然科学的思惟を受け入れるための基盤を提供したとも推測されよう” (序章 31-32頁)

 ならば朱子学の本家である中国は(清代は考証学の時代というが、科挙で出題される四書の設問は朱子の新註に基づくものだった)、それから中国と同じく科挙体制を持ち、日本とはくらべものにならないくらい儒教(朱子学)国家だった李氏朝鮮も、日本以上に合理主義だったはずだが事実としてそうでなかったことはどう説明するのか。

 今年2月7日欄(桂米朝『桂米朝 私の履歴書』)で、林語堂の"My Country And My People”から中国人の思考様式に関する以下の説明を引用した。

“分析的思考の欠如”
“科学精神の欠如”
“真理はただ直感によって感じとることができるだけと考え論理というものを信じていない”
“自己の目や手を煩わすような愚かな苦役は望まず、自己の直感力を無邪気に信じている”

 じつは、"My Country And My People”にはこんな指摘もある。

“中国では常識が帰納推理や演繹推理の代わりをしている” (鋤柄治郎訳『中国=文化と思想』、講談社、1999年7月より引用。以下同じ。同書、151頁)

“この常識に対する崇拝は哲学的基礎を持っている。中国人はことの是非を判断するに、理性のみで判断することはせず、同時に人情をもその判断基準としているのである。これを中国語では「情理」と呼ぶ” (152頁)

“「情理」は二つの要素から構成される言葉で、「情」は人情を意味し、「理」は天理を意味する。「情」は人間の可変的な要素を代表し、「理」は宇宙の不変の法則を代表する。中国人はこの二つの要素の結合により人類の行為の是非や歴史的問題に評価を下していくのである” (同上)

“中国人は情理を理性の上に置いている” (同上)

“西洋人は通常論理的に筋が通っていさえすればそれで十分とするが、中国人は論理的に正確なだけでは遙かに不十分で、同時に人情に適っていなければならないとする” (153頁)

“人情に適うこと、すなわち中国語の「近情」は、論理に適うことに較べ遙かに重要なのである” (同上)

“中国人は理に逆らって行動したがり、人情に適っていないものは一切受け付けようとしない” (同上)

 「理」=宇宙の不変の法則が客観的な自然法則ではなく、儒教(朱子学)の観念的・主観的な宇宙論のことであり、同時に儒教の倫理規範であることはこれまでに述べたとおりである。つまり「理性」あるいは「論理」とは朱子学のイデオロギーそのものもしくはそれを尺度とする価値判断のことであって、英語でいう reason や logic のことではない。
 そして情=常識だが、これもたとえば英語でいうところの人類が普遍的に有するとされる common sense ではなく、単に中国文化(正確には漢族文化)のそれでしかない。the common mind-set of the ethnic Han Chinese である。
 中国人においては「理性」が普通一般にいうところの理性ではないうえに、さらにそれに優越するとされる「情」もしくは「常識」に基づく判断とはいかなるものかと言うと、たとえばこういうものである。

“中華民族は「和をもって尊しとなす」や「中庸の道」を信奉する、温良な民族である” (林治波「当代中国是否需要民族主義?」、『人民網』インターネット、2004年12月21日付掲載)

 この論説の内容自体は過激な反日行動や日本敵視・排斥の言論などの行き過ぎた民族主義や愛国主義を、義和団が中国の国益をかえって損じた例を引いて戒めたものだが、それでもこんな根も葉もないことが書いてある。たとえばチベット人やウイグル人や回族なら(それから台湾人も)、林氏のこの発言を事実とは決して認めないであろう。
 またしても世界認識に事実観察を必要としない、自分の信念が即客観的現実だと思う心性である。「不可能なことを除いて残ったものはどんなにありえないように見えても真実である」という論理思考の鉄則は、これでは存在しえない。「そんな馬鹿な。常識で考えてみろ」でおしまいである。しかもその「常識」たるや、中国人(漢人)以外には通用しない「常識」である。
 それにしても『日中「新思考」とは何か 馬立誠・時殷弘論文への批判』(昨年12月21日欄)で、まさに義和団的反日言論を熱狂的に鼓吹していた当の本人が、よくこんなことを言えたものである。私の理性(論理)によれば林治波氏の言動は矛盾しており、私の常識は筆者を信用すべきではないと私に告げ、さらに私の日本人としての心性によればこの者はその時々によって言を翻す恥知らずの汚き下郎ということになるのだが、当人はべつに矛盾しているとは思っていないだろうし、日本人なぞに信用されなくても平気のはずであろうし、もちろんのこと恥ずべき行いとも思っていないだろう。中国人にしか通用しない“論理”と“常識”しか持たないのであれば、だ。

 中国の有人宇宙飛行船「神舟5号」は中国の“論理”と“常識”で飛んだのか?

(山川出版社 2004年10月)

萩原遼 『金正日 隠された戦争 金日成の死と大量餓死の謎を解く』 

2005年02月27日 | 政治
1.著者本人による主張の要約

“大量餓死は、金正日が意図的に引き起こしたものである。前代未聞の数百万人の自国民殺戮であった。金正日の戦争であった。/この金正日の戦争は、父親金日成が生きている限り起こせなかった。戦争遂行の最大の障害として立ちはだかったのが金日成であった。この障害の除去なしには金正日の戦争はありえなかった。もうひとつの戦争として金日成は除去された” (「はじめに」 3頁)

2.著者の主張の具体的論点

“金正日は金日成が生きている限り絶対に着手できない恐るべき計画を考えていたのである。敵対階層がいる限り自分は生き残れないという恐怖心から、これを抹殺するという凶悪な計画の実行に踏み切るのである。その手口は、食料配給を断ち大飢饉を人為的に作りだす。餓死という自然死を偽装して大量殺戮をおこなう。だが金日成は、九〇年代の危機突破策として農業を建て直し人民にまず食わせることを最優先しようとした” (第五章「“敵対階層”を餓死絶滅する」 193頁)

“ここから父子間の激烈な路線対立となり、その結果金日成は死に至ったという仮説にたどりついた。敵対階層の抹殺という“金正日の戦争”遂行の障害として金日成は除去されねばならなかったのである。この仮説を導入することによってはじめて金日成急死の意味を正確に認識できるのである” (同、193-194頁)

“そして、大飢饉を演出して敵対階層を抹殺するという仮説によってそのほかの疑問、すなわち食料援助を受けながら援助を関係者を北東部に一歩も寄せつけない、この地域へのいっさいの支援を断固として拒否するという異様な事態の謎もとける。さらに国際的な援助の食料が九五年、九六年から大量に入り始めてから餓死者が急増するという不可解な現象がなぜ起きたのかの理由もはっきりする” (同、194頁)

“わたしは以下のことを明らかにした。
 ①国際援助の食料が大量に入り始めてから餓死者が急増する不可解な現象が起きている。
 ②大量餓死者の発生する九五年からピークの九七年まで北朝鮮政府は毎年二百五十万トンから三百万トンの食料を輸入している。国際援助と合わせれば国内生産が仮りにゼロでも全国民を食わせるに十分である。
 ③餓死者が敵対階層の多く住む咸鏡南北道に集中している” (「あとがき」 272-273頁)

“(金日成・金正日)親子の対立は、たんなるいさかいや不和の域ではなく、生死のかかったのっぴきならない政策的対立であった。金日成は農業を建て直し人民に食料を供給することで民生安定と政権維持の道をとり、肥料生産に役立つ火力発電所建設を主張した。一方、金正日は内外の的に脅しのきく核開発による政権維持の道をとり、それに役立つ軽水炉(原子力発電炉)に執着した。金正日は父親に手ほどきされて九三年から九四年の米朝核対決で核の脅しの効果とうまみを知ったのである” (同、273-274頁)

“火力発電所か軽水炉か。アメリカからどちらを獲得するか。最終的に論議される一九九四年七月八日ジュネーブでの米朝高官協議の前日、金日成は急死した”(同、274頁)

“金正日は敵対階層の反乱によるチャウシェスク型の処刑におびえて、生き残りを賭けた戦争に打って出たのである” (「あとがき」 273頁)

3.私の判断
 
 ①餓死を装った大量虐殺、金日成の殺害、ともに直接的な証拠はない。従って著者の主張は推論の範囲を出ない(著者が文中「仮説」と断っているのはそのためであろう)。

 ②人工的な餓死政策について、引用された根拠が正しいとする前提に立てば東北部における餓死者集中については事実であり、さらにこの事実を認めるかぎり著者の推論は相当の説得力を持つものと認める。

 ③金正日による金日成の殺害については、どちらとも判断できない。

 ④根拠となる事実や数値はすべて、本文中に出典とともに明示されており、なかでも根幹をなす事実と数値の典拠は、巻末に〈おもな参考文献〉として列挙してある。すなわち著者の主張を誰でも検証できるようになっている。私もいずれ確認したい。

(文藝春秋 2004年11月)

榎原雅治編 『日本の時代史 11 一揆の時代』 

2005年02月25日 | 日本史
“中世後期の社会においては、武士も、農民も、僧侶も、「一揆」を取り結んだ。大名の家臣たちの結合や、さらには中央政権を構成する大名たちの結合でさえ、「一揆」と呼ばれていた。構成メンバーの平等性を原則に結ばれた「一揆」は、集団の合意を得たものであることを正当性の最大の根拠として、上位の権力に対してしばしば要求行動を起こした。「下剋上」とは、この行動を、要求を突きつけられた側から表現した言葉にほかならない” (榎原雅治「一揆の時代」 9頁)

 だから用語として使用しないというのは、一つの見識だと思う。

 しかしである。
 「あとがき」によれば、室町時代研究は「研究上の関心の多様化、対象とする史料の広がりという、歴史学の一般的傾向」の例にもれず、「新たな事実の発掘が進み、魅力的な論点が次々と提起されている」現状にあって、「本書を一読し、流通関係の論考が多いなと感じられた読者もあるかもしれないが、それはまさに現在の研究状況を反映したものである」とのことである。室町時代の研究者は新史料があるから流通史をやっているだけで、自分がそれを何のためにやっているのか、室町時代研究全体の中で自分のやっていることがどういう意味をもっているのかといったことについては考えていないということらしい。
 室町時代の概説であるこの書の全五章のうち、三章もが流通史であることの理由は何もないということだ。一冊を一冊たらしめるモチーフのない本は本と呼ぶに値しない。

“歴史学者は、知られている事実を次々に提示して、歴史の話を構成する。そのこと自体には問題がないように思われるかもしれない。しかしじつは、その「知られている事実を次々と提示すること」が科学好きの私のようなものには我慢がならないのである。(略)科学の話は「知っている事実」からではなく、「知りたい事実」から出発する。(略)ふつうの歴史の本には(もともと歴史好きの人は別にして)、ごくふつうの人が「知りたいと思わない」ようなことが一杯書き連ねてあるかと思うと、一般の人々が「知りたい」と思うような事実はほとんど書かれていないのが普通だ。歴史学者はいつも、「たまたま知られた事実」をもとにして研究する習慣が身についてしまったために、「どんな事実が知るに値する事実なのか」ということを考える習慣がほとんどないことによるのだろう”

 という、今月23日『日本史再発見 理系の視点から』における板倉聖宣氏の指摘を地でいくような話である。

(吉川弘文館 2003年4月)

西順蔵編 『原典中国近代思想史 第二冊 洋務運動と変法運動』

2005年02月23日 | 東洋史
 中国は今でも民族の思考洋式においては近代化に成功していないと言えるのではなかろうか。
 この問いは、こうも言い換えることができる。変法維新運動に成功しなかった中国は結局、現在にいたって洋務運動に――軍事面だけでなく経済面においてもだが――成功した段階と言えるのではないのかと。
 中国人の言論、とくに反日言論の多くに共通する、主観的認識が客観的事実に優先する旧中国そのままの伝統的な思考様式がその証拠である。「中国の特色を持った社会主義」など、いわばいまだに中体西用論の段階の発想なのではないだろうか。

 ――というようなことを雑駁に考えつつ、洋務論(中体西用論)と変法論の主要な言論を翻訳収録してあるこの書から、論者の“数理学”に関わる言及箇所を、とりあえずは拾ってみることにした。

●洋務論

馮桂芬 「西学を採るの議」 (野村浩一訳)

“いま、西学を採り入れようとするならば、広東、上海に、それぞれ翻訳公所を設け、近在の十五才以下の聡明な文童(科挙試験準備中の児童)を選び、給費を倍にし、寄宿舎に住まわせて学習させ、西洋人を招聘して諸国の語言文字を学ばせ、また国内の高名の師を招聘して、経学、史学などを学ばせ、さらに合せて算学を学習させるべきである” (55頁)

“一切の西学は、みな算学から出発している。西洋人は、十歳以上になると算学を学ばないものはない。いま、西学を採り入れようとするなら、算学を学ばないわけにはいかない” (同上)

鄭観応 「盛世危言」 (野村浩一訳)

“『大学』の八条目のうち第五の「格致」の一伝の部分が亡失し、『周礼』から「冬官」の一冊が欠如してのち、古人の名、物、象、数の学は、流徙してヨーロッパに入り、その工芸の精妙なることは、ついに中国のはるかに及ばないところとなった。けだし、我は、その本に専心し、彼は、その末を追求したのであり、我は、その精髄を明らかにし、彼は、その粗を手にしたのであり、我は、事物の理を窮め、彼は万物の質を究明したのである” (「道器」、71頁)

張之洞 「勧学篇」 (野村浩一訳)

“各省、各道、各府、各州、各県は、すべて学堂〔注・新制の学校〕を設立し、首都・省城には大学堂、道・府には中学堂、州・県には小学堂を設置すべきである。(略)小学堂では四書を学び、中国の地理、中国史の大略、及び算数、図画、格致の初歩に通ずる。中学堂の各教科は、小学堂より程度が高く、さらに五経を学び、『通鑑〔注・資治通鑑〕』を学び、政治学を学び、外国語を学ぶことがつけ加わる。大学堂では、これらをいっそう深く習得するのである” (「外篇第三」、112頁)

“学堂の方針にはおよそ五つの要点がある。(略)
 一、新学、旧学をあわせて学ぶ。四書五経、中国の歴史・歴史・制度・地図は旧学であり、西政・西芸(西洋の技術)・西史は新学である。旧学は体であり、新学は用である。
 一、政と芸をあわせて学ぶ。学制・地理・財政・税制・軍事・法律・工業政策・商業政策は、西政であり、数学、製図、鉱業、医術、音響学、光学、化学、電気学は、西芸である。(略)小学堂では、まず芸を学んでそれから政を学ぶ。大学堂、中学堂では、まず政を学んで、それから芸を学ぶ。(略)およそ時局を救い、国のために謀る方策についていえば、政は、芸よりは、はるかに急務である。しかしながら、西政を講究するものは、また西芸の効用についても、おおよそ考察しておくべきであって、そうしてこそはじめて西政のねらいを知ることができる。
 一、少年を教育すべきこと。数学を学ぶには、思考力の鋭いものが必要であり、(略)格致、化学、製造を学ぶには、素質、鋭敏なものが必要である。(略) 中年以上の人間は、智力、精力はもはや減退し、課業をつんでも往々にして合格できず、しかもそれまでの考え方が深く染みこんでいるので、虚心に受け入れることが難しい。(後略)” (同、114-115頁)

●変法論

康有為 「大同書」
  →今月18日「坂出祥伸『大同書』/ 譚嗣同著 西順蔵・坂元ひろ子訳注『仁学 清末の社会変革論』」を見よ。

譚嗣同 「仁と学」
  → 同上。

(岩波書店 1977年4月) 

板倉聖宣 『日本史再発見 理系の視点から』 

2005年02月23日 | 日本史
 これも考えるヒントとしての書き抜き。

“一般の科学好きの人の中には、私のように歴史嫌いの人が少なくない。私はそれを、単なる好みの問題だとは思わない。それは、「これまでの歴史学というものが科学になっていない」という感覚に基づいているように思うからである。(略)
 こういうと、歴史学者から大変な抗議が寄せられるかもしれない。その人々はいうだろう。「歴史学だって立派な学問だ。戦前の天皇中心主義的な歴史学は非科学的なものだったが、いまの歴史学は科学的なものになっている。実証的な学問になっている」と。
 問題がそこにある。科学好きの人々も、ここでしばしば誤魔化されてしまうのだが、「実証的」ということと「科学的」ということとは違う。もともとすべての学問は実証的である。事実に根ざさない学問なんか、原理的にはありえない。しかし、科学というものは、その「事実に基づく」段階から一歩踏み出したところに成立しているのである。
 たとえば、地球説や地動説、原子論といったものを考えてみるといい。そんなものは、事実に基づいて出てきたものではない。むしろ、「直接的な事実を無視した大いなる空想、仮説が、もとになって生みだされた」と言ったほうがいいほどである。
 歴史学者は、知られている事実を次々に提示して、歴史の話を構成する。そのこと自体には問題がないように思われるかもしれない。しかしじつは、その「知られている事実を次々と提示すること」が科学好きの私のようなものには我慢がならないのである。(略)科学の話は「知っている事実」からではなく、「知りたい事実」から出発する。(略)ふつうの歴史の本には(もともと歴史好きの人は別にして)、ごくふつうの人が「知りたいと思わない」ようなことが一杯書き連ねてあるかと思うと、一般の人々が「知りたい」と思うような事実はほとんど書かれていないのが普通だ。歴史学者はいつも、「たまたま知られた事実」をもとにして研究する習慣が身についてしまったために、「どんな事実が知るに値する事実なのか」ということを考える習慣がほとんどないことによるのだろう” (「はしがき――歴史と科学と」 2-4頁)

“それでは、日本史を〈理系の目〉=科学の目で見ようと思ったら、まずどんな史料に目をつければいいのだろうか。私はまず、数量的なデータに注目することが大切だと思う。自然科学が対象を数量的に研究してその権威を確立したことはよく知られている。ところが、一般の歴史家は、数量的な事柄にあまり注意を払わない。そこで、歴史の中の数量的なものに注目しただけで、科学の目で見た歴史が構築できることになる” (第14話「江戸時代を数量的に見る――江戸時代後半の相馬藩――」 167-168頁)

“それなら、どんな数量に目をつけるか。「広い地域をおう長い時代にわたる数量の変化が見られるものなら、なんでもいい」というのが、いまの私の結論である。(略)長期にわたる統計資料が入手できれば、長期にわたる社会の変化を見るのにとても役立つ” (同、168頁)

“(明治維新の)結果、まがりなりにも、四民平等が実現し、職業と移住の自由が完全に実現した。そういう結果からすると、「明治維新は市民革命と呼んでもいいのではないか」と私は考えるのである。今日の日本までの間には、敗戦後の民主化の時代があるが、日本は敗戦以前から封建的な時代を脱して、かなり自由・平等な国になったことは間違いあるまい。
 つまり私は、「革命の性格は、その革命の担い手やスローガンを見て判断すべきものではなくて、その革命の結果を見て判断すべきものではないか」というのである。本書の主題と関係させて言えば、「物事を動機よりも結果で判断する」という考え方は、「理系の目」の特徴でもあると思うのだが、どうだろうか” (第24話「不思議な革命=明治維新――明治革命は市民革命か否か――」 295-296頁)

“私はいま、「科学研究においては〈実験〉の前の〈仮説〉が決定的に重要だ」と書きましたが、その場合の「科学」というのは、自然科学だけではありません。私は長いあいだ、「社会の科学の場合も実験ができるし、実験で確かめられない理論は、いかにもっともらしくても信用できない」と考えてきました。この場合、私が「実験」というのは、必ずしも「実験器具を使って対象を制御するもの」ばかりではありません。「〈まだその結果を知らない事実について予想・仮説をたてて、その予想・仮説の正否を客観的に確かめる行為〉は、すべて実験と呼ぶべきものだ」というのが、私の実験論=科学認識論なのです” (「あとがき」 309-310頁)

“これまで自然科学教育の中で教えられてきた一つひとつの事実は、間違っていることはほとんどありません。けれども、「その科学のもっとも基本的な概念を理解するためにはどんな問題提起が必要か」ということの研究が見過ごされてきたのです” (同、310頁)

“社会の科学の教育の場合には、これまで真理とされてきたことが本当に真理と言えるかどうかということさえ怪しいことが少なくありません。またその事実そのものは間違っていなくとも、それがもっとも普遍的・一般的な事実でないときには、「そういう事実を教えこまれたために、却って全体が見えなくなる」ということが少なくない” (同、310-311頁)

 次は、同じ著者による『社会の法則と民主主義』(仮説社 1988年)を読んでみる予定。
 なお冒頭の“考えるヒントとして”が“重大な指摘や貴重な示唆”の婉曲表現であることは言うまでもない。

(朝日新聞社 1996年12月第6刷)

王敏 『ほんとうは日本に憧れる中国人  「反日感情」の深層分析』

2005年02月23日 | 政治
 中国の歴史教育は反日教育ではなく、教える歴史事実が近現代中心のため、「反封建」「反帝国主義」がどうしても重視されてしまう結果だそうである。つまりこの筆者は中国の歴史教育では日本に関してまったく正確な事実を教えているのだと、こういう形で暗に言っているわけである。
 隠微な形の嘘である。そしてこれが嘘であることは例を挙げるまでもない。嘘であることは――少なくとも真実ではないことは――、専門家の本人が百も承知のはずであるから。

 一つ目。人は真実を語らなければならない。
 二つ目。だが真実を語りたくてもできない時は沈黙すべきである。
 三つ目。環境からの圧迫によって沈黙を守ることも不可能な時は、虚偽を語るほかはないが、他人に害をあたえることはあってはならない。
  (「曹長青評論邦訳集・正気歌」2003年7月12日「呉祖光氏の誠実、銭理群氏の原則――呉祖光氏追悼」参照)

 この人もまた銭理群氏の“三つの原則”の遵奉者なのだろう。筆者がいま二番目か三番目のどちらの段階にいるのかは微妙なところだが、いずれにせよ劉暁波氏の言葉を借りれば“人たるをやめるための”道をこの人が取っているということは、紛れもない。 
 昨年12月21日欄で取り上げた同じ著者の『なぜ噛み合わないのか 日中相互認識の誤作動』は素晴らしい本である。その評価を変えるつもりはない。しかしこの人ですらなお斯くの如きか。

(PHP研究所 2005年1月)

モーナノン/トパス・タナピマ著 下村作次郎訳 『台湾原住民文学選 1 名前を返せ』 

2005年02月22日 | 文学
 台湾の先住民族は、清朝時代は「生蕃」、日本統治時代は「高砂族」、中華民国時代には「高山族」、「山地同胞」、のち「原住民」さらには「原住民族」と呼称は変わったが、彼等が台湾社会において底辺の無視される存在であることに変わりはなかった(モーナノン「僕らの名前を返せ」および巻末下村氏「解説」)。彼等はおのれの本名さえ奪われていた。
 彼等の視点からすれば、李登輝前総統でさえ「早住民」という「でたらめな命名」を勝手に作って自分たちに押しつけようとする「傲慢な国民党主席李登輝氏」ということになる(トパス・タナピマ「名前をさがす」)。
 ちなみに「名前をさがす」および同じくトパス・タナピマの「ぬぐいされない記憶」によれば、二・二八事件当時の彼等にとっては台湾人が「漢人」であり、日本人は「漢人より凶暴で野蛮」、外省人(トオル)は見たこともなく、姿形の想像さえできず、台湾人を殺しまくるという噂から、まるで怪物かなにかのようなイメージを抱いていたという。

(草風館  2002年12月)

唐木順三編 『明治文學全集 27 森鷗外集』 

2005年02月22日 | 文学
 今月16日欄平川祐弘『和魂洋才の系譜』に触発されて、森鴎外を読み返してみる。
 「ヰタ・セクスアリス」では宴会で下谷第一の美人芸者が隣りにいても頓着せず、その芸者に持ってこさせたどんぶり一杯のきんとんを一心に食い続ける好漢・児島に久しぶりで出会い、「普請中」では例の「日本はまだ普請中だ」の科白と同じくらいに「日本は藝術の國ではない」の一句を重視すべきではないかと思い、巻末に収録された中野重治「鷗外論目論見のうち」では書き手の精神のなんともいえない卑しさに辟易した。
 肝心の「洋學の盛衰を論ず」と、それから「かのやうに」の感想は、またのちほどあらためて。
 
(筑摩書房 1983年10月初版第三刷)

実藤恵秀編 『近代支那思想』 

2005年02月21日 | 東洋史
“現在、民族運動が普遍化しているのは、必ずしも西洋伝来の民族主義思想が多数人民に理解されたからではなく、却て少数の先覚者が大衆の原始的民族感情、換言すれば義和団的亢奮を合目的に指導したからである。/われわれはこの点を明確に認識する必要がある” (橘樸「支那思想の将来性」 343頁。原文は旧漢字)

 橘樸が1942年の中国民衆を指して形容したごとくに、こんにちの愛国的分子の理性を喪失した興奮は義和団的である。サッカーアジア杯の際、テレビの取材班に「日本人なら殺してやる」と青竜刀を持って叫んでいた女性などがその例である。外国人を殺すことが愛国である。
 これは極端な例による極端な論かもしれない。しかし反日を叫ぶ若年層の言動に、記録に残る五四運動時期の頭に血が上ったやみくもな学生たちの叫びをだぶらせるのは私だけか。「直ちに青島を取り戻せ!」「日貨排斥!」と「直ちに釣魚島を取り戻せ!」「日貨排斥!」。本当にできるのか、できると思っているのかと訊きたい。

(光風館 1942年6月)

B.I.シュウォルツ著 平野健一郎訳 『中国の近代化と知識人 厳復と西洋』 

2005年02月21日 | 東洋史
DVD-ROM《世界大百科事典 第2版》より
厳復 (1853‐1921)

「中国,清末から民国時代初の啓蒙思想家,翻訳家。字は又陵(ゆうりよう),号は幾道,晩年は瘉穫(ゆや)老人と号した。福建省侯官(髪侯(びんこう))県の人。1871年(同治10),福州船政学堂で航海術を学んで卒業,77年(光緒3),イギリスに留学,ポーツマス大学,グリニッジ海軍大学で海軍に必要な科学技術知識を習得した。しかし,このときから近代的軍事技術を支えている西欧の政治経済や哲学に強い関心を寄せていた。帰国後,80年,北洋水師学堂総教習,90年,同総弁(校長)になったが,科挙出身でないために,自分の意見が政界で軽んじられるのを不満として,郷試を4回も受験した。95年,日清戦争で中国が敗北して後,彼は政治論文〈世変の亟(すみ)やかなるを論ず〉〈原強〉〈救亡決論〉〈闢韓(へきかん)〉の4編を発表,中国富強の根本は,民力を鼓舞し,民智を開き,民徳を新たにすることにあり,その障害となっている科挙制度や専制政体の廃止を説き,ひいては,思想的基盤である朱子学,陽明学の非実用性を鋭く批判し,西洋の学問や議院制の必要を主張した。
 98年,ハクスリー《進化と倫理》(1894)の漢訳を《天演論》と題して出版した。生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。」 (坂出 祥伸)

“朱熹は格物致知の語を、事物から原理を探り出す意味であると説明している。しかし、彼はこの原理の探究を書を読むことに適用したのである。・・・・・・かくして、中国の学問では、人は古人の解釈を探り当てなければならないことになる。古人が誤っていたとしても、その誤りは明らかにされない。古人がたとえ正しくとも、人は彼らがなぜ正しいのかを知らない” (厳復「原強」、1895年。本書第九章「ミル『論理学』」188頁の引用)

 この人は科学的思考における論理学――とくに帰納――と数学の重要性を正しく認識していたにもかかわらず、いわば詰めを間違えた。社会科学を自然科学に勝る最高の科学と誤認したのである。

“厳復がミルと共有する主な敵意は、生得的観念、思考の先験的・主観的な範疇、直感的知識などの観念すべてに対する敵意であった。しかし、客観的な合理的秩序が現象の流れの背後に横たわっているとする考え方に対する絶対的な反対は、厳復にはなかった” (第九章「ミル『論理学』」 193頁)

“厳復が科学という語を理解するかぎりでは、科学は、スペンサーの形而上学の全体系と正確に同一でなければならなかった。すでにミルが科学の論理的方法を説明してくれていたにもかかわらず、スペンサーの総合哲学はもっとも厳格な帰納法的論理の基準によって得られたものであるという厳復の確信は揺らがなかった。すでに一八九五年の論策に見られたように、厳復は、スペンサー主義をとっくに中国の形而上学の一元論的・汎神論的主流と同一視していたのである。この評点で厳復がしたことは、老子をこの中国哲学の源流と指定することなのであった” (第十章「『道』に関する省察」 198頁)

“現象の流れは合理的な秩序に組織化されるが、その合理的な秩序自身は、根元的な不可思議――「道」――から発するのである。かくして、厳復の哲学の師であり続けるのは、ミルではなくてスペンサーなのであった” (第九章「ミル『論理学』」 193頁)

 彼もまたイデオロギストだった。
 彼がやったのは、儒教というイデオロギーに基づく「君子の支配」に対して、スペンサー(その実老子)という別のイデオロギーに基づく「法の支配」で対抗しようとしたということでしかない。
 この書の著者は彼を形容して“よくいってもいささか荒っぽい形而上学者”と呼んでいる(第十章、199頁)。

(東京大学出版会 1980年11月第2刷)