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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

中国科学院語言研究所編 實藤惠秀/北浦藤郎訳 『中国語文法講話』

2005年10月31日 | 人文科学
 倉石武四郎『支那語読本 2』(1939・昭和14年。いま手元にないので出版社がわからない)とならんで、これまで読んだ中国語の文法書のなかで最も明快で分かりやすく、しかも面白い。

(江南書院 1956年8月)

今週のコメントしない本

2005年10月29日 | 
 今週はマクラなし。

①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  今泉源吉 『蘭学の家桂川の人々 続篇』 (篠崎書林 1968年6月)

  中村栄孝 『日鮮関係史の研究』 上 (吉川弘文館 1970年5月再版)

  佐藤進一 『日本の歴史』 9 「南北朝の動乱」 (中央公論社 1974年2月) (再読)

  別宮貞徳 『日本語のリズム 四拍子文化論』 (講談社 1977年10月)

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本
  関川夏央 『海峡を越えたホームラン 祖国という名の異文化』 (双葉社 1985年5月第5刷)

  郭煥圭 『台湾の行方 Whither Taiwan?』 (創風社 2005年8月)

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本
  齋木哲郎 『秦漢儒教の研究』 (汲古書院 2004年1月)
  福井重雅 『漢代儒教の史的研究 儒教の官学化をめぐる定説の再検討』 (汲古書院 2005年3月)

  大久保利謙 『大久保利謙歴史著作集』 4 「華族制の創出」 (吉川弘文館 1993年6月)

  岡田英弘 『康熙帝の手紙』 (中央公論社 1979年11月)

  ベンジャミン・フランクリン著 松本慎一/西川正身訳 『フランクリン自伝』 (岩波書店 1982年8月)

  清水俊二 『映画字幕五十年』 (早川書房 1985年7月3版)

  プルタルコス著 柳沼重剛訳 『饒舌について 他五篇』 (岩波書店 1999年1月第4刷)

  橋本以蔵作 たなか亜希夫画 『軍鶏』 22 (講談社 2005年10月)

  山下和美 『不思議な少年』 4 (講談社 2005年10月)

④つまらなさすぎて感想も出てこない本
  原田武夫 『サイレント・クレヴァーズ 30代が日本を変える』 (中央公論新社 2004年6月)

⑤出来が粗末で感想の持ちようがない本
  該当作なし

⑥余りに愚劣でわざわざ感想を書くのは時間の無駄と思ってしまう本
  該当作なし

⑦本人にも分からない何かの理由で感想を書く気にならない本 
  該当作なし

「YOMIURI ONLINE」2005年10月28日、「中高年、本離れ進む…読売世論調査」→http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20051027it14.htm
 そんなものですか。私の知ったことではないのでどうでもいいが。
 いや、どうでもいいことはないな。私が文章を書くときに誰を読者として想定するかに関わってくる問題である。
 例えばこのブログにおいて、読み手がどこまで知っていてどこから知らないと見なすか。また、知らないことがあれば自分で調べてみようとする人間を相手と考えるか否か。これで、ずいぶん変わってくる。
 「巴金という人物について何の説明もないのは不親切だ」というクレームを読んでの随想。

ジョン・マグレガー著 真野泰訳 『奇跡も語る者がいなければ』

2005年10月27日 | 文学
 細部も神が宿りたまわねば・・・・・・。

(新潮社 2004年11月)

▲「大紀元」2005年10月27日、劉暁波「巴金是一面下垂的白旗」
 →http://www.dajiyuan.com/b5/5/10/27/n1099019.htm
 巴金は下手な物書きにて『随想録』はつまらぬ作にてこれあり候と、彼も思い我も思う。

▲「Sankei Web」2005年10月26日、「昨夏の公用車襲撃、中国が補償」
 →http://www.sankei.co.jp/news/051026/kok019.htm
 7月下旬のことだそうだ。日本政府はこのボール(もしくはシグナル)をどう受けて返したのだろうか。

10月28日追記。
 すくなくとも巴金より栄毅仁の生涯のほうが、中国という国のなにごとかをより多く示唆しているだろう。

「人民網 日本語版」2005年10月27日、「栄毅仁元国家副主席、26日死去 享年89歳」
→http://j1.peopledaily.com.cn/2005/10/27/jp20051027_54670.html

「多維網」2005年10月28日、「榮毅仁:偉大戰士 Vs中共工具?」  →http://www2.chinesenewsnet.com/MainNews/SinoNews/Mainland/2005_10_27_18_19_14_985.html

アガサ・クリスティー著 清水俊二訳 『そして誰もいなくなった』

2005年10月26日 | 文学
 巻末、各務三郎氏の後書きによれば、パズル・ストーリーといわれるこの種のミステリー物はいくら注意深く読みたどっても犯人は最後まで絶対に分からない由。読者に手がかりを与える気は作者にもともとないからだそうである。書き手の手並みをひたすら楽しめということか。

(早川書房 1976年10月5刷)

原田武夫 『北朝鮮外交の真実』

2005年10月25日 | 政治
“ある種の「愛国主義的」な見解を述べる者たちは、あえて日本の「世論」の中で混乱を演出させるため、本当の改革を望む勢力への対抗勢力として外国当局(太字は引用者による)によってセットされたものなのかもしれない。メディア力、あるいはパブリック・ディプロマシーでは、ターゲット国の世論を不安定化させるのも大きな戦術だからだ” (「第三章 情報操作をめぐる暗闘」 本書147頁)

 たとえばこんなのか?
「★在日芸能人・有名人 PART5」
→http://mimizun.mine.nu:81/2chlog/korea/kaba.2ch.net/korea/kako/1015/10152/1015298722.html
 あまりにひどい。ひどすぎる。愛国無罪ならぬ愛国無智、いや愛国白痴。

“北朝鮮の最高権力者である金正日国防委員会委員長の下に、いかなる「特殊機関」「工作機関」があるのかについて、北朝鮮自身が対外公表したことはもちろんない。(略)これらは、外交という「表」の世界との比較で言うならば「裏」の世界にあたる。表には表のしきたりがあるとおり、裏には裏のルールがある。そうである以上、表からどんなに叫んでも、扉の向こう側にある裏の「真実」が当然出てくるものではないのだ。
 「では日本も『裏』の世界、すなわち単なる情報収集だけではなく、手足となって本当に動く対外諜報・工作機関を創るべきではないか。」ここまで読まれた読者の方々はそう思われるに違いない。ところが、我こそは日本の「世論」の代弁者だとばかりに、声高に対北朝鮮強硬論を叫ぶ論者たちは、そちらの方向に議論を進めようとはまったくしないのが現状だ。
 彼ら・彼女らはむしろ、あくまでも「表」から「裏」を引きずり出そうと、急ごしらえで制定した「経済制裁法」の発動を求め、政府、とりわけ「表」の世界の住人に過ぎない外交当局の「無策」をなじる。
 だが、こうした「表」と「裏」を敢えて無視した議論こそ、「無策」なのではなかろうか。民主主義と自由主義を信奉する国であっても、いや、そうであるからこそ、「裏」の世界にも対応できる国家機関を備えているのが国際社会の常識だ。「拉致問題」はこの常識に沿って解決法が見出されなければならない。
 そうであるにもかかわらず、こうした「常識」を無視し、いたずらに「世論」を怒らせる方向へと議論を展開しようとする者がこの国には大勢いる。外交の現場から見ると、率直に言うとそこには、日本を混乱させ、拉致問題の解決をあえて遅らせようとする意図を感じざるを得ないのである(太字は引用者による)” (「大同江の夕陽の彼方に――「結び」に代えて」 本書242-243頁)

 だから日本も同じ事をやり返せという著者の主張には、ちょっとついてゆけないところもあるが、この著書で展開される日本外交の問題点分析と解決のための提言には、一理も二理もある。
 ちなみに著者は元外交官だが、この本は書名から想像されるのとは異なって日本外交の内幕暴露物ではない。暴露物ではない証拠に、肝心なところが曖昧にされて読者にはわからないようになっている。
 例えば“外国当局”について、具体的にどことは、単なる可能性としても名前を一切挙げない。“日本を混乱させ、拉致問題の解決をあえて遅らせようとする意図”に至っては、それがどの国(あるいは誰)によるものかについて触れないだけでなく、その前後において読者に推測――もしくは憶測――のいかなる手がかりをも与えないように慎重に配慮された書き方がなされている。こういう意味ではこの本には“真実”は書かれていないと言っていい。
 この本は論旨・文章ともに、一見明晰である。だが上で引用したくだりでそれが北朝鮮なのか、中国なのか、韓国なのか、あるいはロシアなのか、それとも米国なのかいずれともわかりかねる如く、一歩踏み込めば不透明さが全体を覆っている。佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社 2005年3月)のほうがこの点、はるかに“正直”な印象を与える。

(筑摩書房 2005年4月)

今週のコメントしない本

2005年10月22日 | 
 とうとう⑦が出ました!

①感想を書くには目下こちらの知識と能力が不足している本
  今泉源吉 『蘭学の家桂川の人々』 (篠崎書林 1965年8月)

  上田正昭編 『朝鮮通信使 善隣と友好のみのり』 (明石書店 1995年5月)

②読んですぐ感想をまとめようとすべきでないと思える本
  彭明敏著 鈴木武生/桃井健司訳 『自由台湾への道 新時代の旗手・彭明敏自伝』 (社会思想社 1996年2月)

  柴田宵曲 『古句を観る』 (岩波書店岩波文庫版 1999年4月第12刷)

③面白すぎて冷静な感想をまとめられない本
  佐藤誠三郎 『「死の跳躍」を越えて 西洋の衝撃と日本』 (都市出版 1992年12月) (再読)

  野田宣雄 『ヒトラーの時代』 下 (講談社 1989年2月第8刷) (再読)

  宋希著 村井章介校注 『老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本』 (岩波書店 1987年3月) 
  申維翰著 姜在彦訳注 『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』 (平凡社 1974年5月)  
  金仁謙著 高島淑郎訳注 『日東壮遊歌 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』 (平凡社 1999年11月) 

  プルタルコス著 柳沼重剛編訳 『食卓歓談集』 (岩波書店 1987年10月)

  大石慎三郎 『虚言申すまじく候 江戸中期の行財政改革』 (筑摩書房 1983年7月)

  森銑三 『瓢箪から駒 近世人物百話』 (彌生書房 1983年6月)

④つまらなさすぎて感想も出てこない本
  上田正昭/辛基秀/仲尾宏 『朝鮮通信使とその時代』 (明石書店 2001年6月)

⑤出来が粗末で感想の持ちようがない本
  勢古浩爾 『ああ、自己嫌悪』 (PHP研究所 2005年10月)

⑥余りに愚劣でわざわざ感想を書くのは時間の無駄と思ってしまう本
  該当作なし

⑦本人にも分からない何かの理由で感想を書く気にならない本 
  ヘレン・ミアーズ著 伊藤延司訳 『アメリカの鏡・日本』 (アイネックス 2000年8月初版第17刷)

 なお⑤の『ああ、自己嫌悪』は、著者の主張が矛盾していて結局何が言いたいのかよくわからないのに滅法面白いという、奇態な本であります。

金完燮著 荒木和博/荒木信子訳 『親日派のための弁明』

2005年10月21日 | 東洋史
“近年、日本でおきている歴史を見直そうという動きは、まちがったことを正すという当然の動きであり、韓国でいう右翼の蠢動とはまったくべつのものである。彼らは右翼ではなく、日本を愛する愛国者であるだけだ” (序文「ショービニズムの狂風のなかで」 本書22頁)

“あらゆる韓国人が、日本にたいしてだけは熱烈なファシストになっているようだ” (第1部「私たちはなぜ日本を選択したか」 本書60頁)

 日本の軍国主義は駄目だが自分たちの軍国主義はいいのであるといわんばかりの、幼稚園児級の低能ダブル・スタンダードにおいては、韓国と中国の“愛国反日”はうり二つである。
 もっとも当たり前ながら韓国のそれには中国と違うところがある。

“韓国の言論界は、祖国の歴史に自負心をもとうとする日本人に「極右派」とか「保守右翼」とかのレッテルを貼る。かれらはまともな精神状態ではないとか、あたかもヒトラーのようなファシストでもあるかのように罵倒する。これが果たして公正な態度なのか、考えてみなければならない。(略)また韓国の言論界には、日本で自分たちの気に入らない発言が出ると「妄言だ」といって罵倒する癖がある。相手の立場に立ってみようとせず、自分の考えと違えばすぐに「妄言だ」という” (第3部「『馬鹿たちの行進』はいつまでつづくのか」 本書275-276頁) 

 こんな自分を客体視した意見は中国国内ではまず聞こえない。国外でならあるが。

“韓国が、はるかに後進国である中国とおなじレベルの非難を受け、またそういう非難を認めざるをえないのは恥ずかしいことだ” (同上)

 これは、ノーコメント。

(草思社 2002年8月第8刷)