恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

いま見えてくるもの

2020年04月20日 | 日記
 それまでの「常識」や「前提」を構成するシステムは、その外部から「異物」が侵入して拡大した結果、いきなり機能不全に陥ることがあります。それは、このシステムをあらためて見直す別の視点を提供し、さらに「次の」システムを考える材料を与えてくれます。

 今回のウイルス禍で、誰の目にも明らかなのは、暴走に近くなっていたグローバリズムと市場経済の拡大を、いきなり強制停止させたことです。
 
 ウイルスが、人・物・金の大規模な移動であるグローバリズムに乗じて、驚くべきスピードで蔓延したのは確かでしょう。

 したがって、終息には移動の遮断が不可欠で、その手段の実行役が国家でした。つまり、いまやグローバリズムによって衰弱したと言われて久しい国家が復権し、人々がその力に頼らざるを得なくなったのです。

 では、中国のような中央集権的国家主義、あるいは「アメリカンファースト」と叫ぶ大統領が掲げる「自国第一主義」が有効な解決法なのでしょうか。

 私はそうは思いません。現にいま、国家主義も自国第一主義も、事態を収拾し切れていません。できるわけがないのです。なぜなら、自国内でウイルスを駆逐できても、その外に残存していては、いつまでもリスクにさらされ、なおかつ貿易市場がまともに機能しないからです。

 ウイルス禍を世界的に蔓延させたグローバル化に一定の秩序を与えるのは国家とその連帯であり、この国際協調と協力が無くして、ウイルスを抑止することも、最終的に我々がこのウイルスと共存する道もありません。

 このような危機や「緊急事態」には、強力な措置をとれる、効率の良い独裁的な権力が有効のように思いやすいですが、それは錯覚です。そもそも先の大戦という「危機」で、勝ったのは民主体制の国家群であり、敗れたのはファシズム体制の国々でした。

 もちろん、危機に際して一時的に強権的な措置は必要であり、そのための権力を統治者に付与することは合理的です。

 しかし、その場合は、解決すべき危機を客観的に確定して、権力の執行過程を監視する制度を構築し、彼らが持っている情報を最終的に全部開示させて、検証・評価できるシステムを用意しなければなりません。つまり、権力を行使する側とされる側が、相互に責任を持ち合う体制が必要なのです。

 このとき忘れてはならないのは、本来権力の主体である行使される側が行使する側に暫時権力を預けているのが民主主義だという、言うまでもない事実です。

 ウイルスは市場経済の欠陥も明確にしました。

 自然を収奪する市場経済の欲望こそが、ウイルスを自然から我々の社会に導き入れたのであり、これは気候危機と同様、自らの欲望が招いた厄災です。

 世界に冠たる経済大国が、それこそマスクさえ満足に供給できません。それは、格差(要は、安く買って高く売る)を利用して稼ぎまくった市場経済が、世界的に分業を推進した結果でしょう。

 医療・福祉、教育・福祉、治安・国防などが、市場化に馴染まないこともはっきりしました。いま医療従事者が不眠不休で従事する仕事を、市場が正当に評価することは決してできません。この人たちは、いまや責任感と使命感だけで過大な負担を担っているのでしょう。責任感や使命感を、金に換算できるわけがありません。

 市場の欲望が結果的にその欲望を無意味にすることもわかりました。

 たとえば、儲からないから基礎科学に投資するのは止めようということになると、それはウイルスに対するワクチンを製造する応用科学を阻害するかもしれません。そうなると、自国でのワクチン製造は困難になり、高額の特許料を払って他国からワクチンを導入しなければなりません。

 状況からすると、このウイルス禍は、我々の社会と世界の在り様が根底から変わる始まりになるだろうと思います。

 これまで、過熱した市場経済は、正規/非正規という雇用の分断、大手/中小という企業経営の乖離、富裕/貧困という階層の断絶などを引き起こし、拡大してきました。

 このままウイルス禍の長期化がすれば、この市場経済・社会システムは甚大なダメージを被るでしょう。それは多くの人々、とりわけ立場の弱い側の人々の生活に著しい脅威を与え、個々の人生の設計に深刻な影響を与えるはずです。

 それでも、この誰も望まぬ苦難の中から、結果的に次の時代の社会システムの萌芽が見えてくると思います。

 すぐ目に付く兆候は、教育と労働のIT化(オンライン授業、テレワーク)です。これらは今後さらに進行して、学校と企業の体制と、経営と雇用の形態を不可逆的に変えていくでしょう。

 今後発展途上国、アフリカや南米などの諸国で感染が爆発したときに、先進国はどうするでしょう。救援するのか、見捨てるのか。それも自国がまだ苦戦の最中に、どうするのか。この問題はいずれ、国際と国内の両面で、政治システムの更新を迫るのではないでしょうか。

 文化・芸術、そして娯楽の窒息状態は、自らの存在意義と表現様式を、根本的に問い直す機会を与えるでしょう。そこから必ずや「コロナ後」の新たなスタイルを生み出すはずです。

 このような変化は様々なところで同時多発的に進行して、我々の社会を地球規模で変えていくのではないでしょうか。

 私は今、「コロナ後」を考えるとき、以前拙著で述べた「他者から課される自己」というアイデアを思い出しています。

 ウイルスには常に他者から感染します(「感染」とはそういうことです)。ということは、自己の安全と安心には、他者の安全と安心が先立つことになります。

 もし感染した他者やその周辺の人々を差別し抑圧し排除すれば、それはすべて自己に反転する危険を高めます。逆に、その他者への共感と援助は、感染するかもしれない自己の存在を強化します。

 ならば、「利他行」という仏教語、「情けはひとのの為ならず」とう諺が意味するものが、コロナ後の社会システムを構成する基幹的なルールの一つとして、「社会福祉」というジャンルを超え、様々な領域で具体的な制度として組み込まれるべきではないでしょうか。それが、我々の社会と自分を確実に守ることになるはずだと、私は考えています。