今後の科学技術の発展が宗教にもたらすかもしれない影響で、私が深刻だと思うことをとりあえず三つ。
一、平均寿命が100歳を超える。
すると、一人の人間のアイデンティティーを何が支えていくのかが、重要な問題になるでしょう。近代以降の人間のように単一の職業で支えるわけにもいかず、家族や共同体の形式や構成メンバーがずっと不変であることも考えにくい。となると、「自分が何者なのか」という問いをどう引き受けるかは大問題です。
このとき、飽きなければずっと好きでいられる趣味や遊び、その気ならずっと信じていられる宗教などがアイデンティティーの重要な構成要素になるかもしれません。すると、従来では考えられないような競争や対立が社会に噴出するかもしれません。
二、特定の意識を別の生体に移植(たとえば脳移植)したり、コンピューター・チップへのコピーが可能になる。
これは自意識の永続と同義であり、「不死」の実現も同然です。すると「死」は個々の人間(自意識)の選択の結果となり、「人は誰でも必ず死ぬ」という前提が崩れ、新たな死と生の意味付けが要請され、宗教はこれまでとはまったく違う教説を案出しなければならないでしょう。
たとえば、「死の克服」という文脈ではなく、「生の始末」というようなパースペクティブで、宗教は我々の実存を考えざるを得ないかもしれません。
三、ネット技術で個々の意識がダイレクトに結合する。
それは人間の実存が「自己」という様式から変容することであり、インパクトは宗教のみにとどまらない話です。
ただ、あえて宗教に関して言えば、「自己」の実存を問う所謂「普遍宗教」が無意味化し、デジタル空間に新たな「アニミズム」が生まれてくるかもしれません。いや、それさえも無くなり、「宗教」も「人間」もついに解消し、まったく異なるデジタル的実存に変貌するのでしょうか。
ところで、これらは本当に「深刻」なことなのか?
一、平均寿命が100歳を超える。
すると、一人の人間のアイデンティティーを何が支えていくのかが、重要な問題になるでしょう。近代以降の人間のように単一の職業で支えるわけにもいかず、家族や共同体の形式や構成メンバーがずっと不変であることも考えにくい。となると、「自分が何者なのか」という問いをどう引き受けるかは大問題です。
このとき、飽きなければずっと好きでいられる趣味や遊び、その気ならずっと信じていられる宗教などがアイデンティティーの重要な構成要素になるかもしれません。すると、従来では考えられないような競争や対立が社会に噴出するかもしれません。
二、特定の意識を別の生体に移植(たとえば脳移植)したり、コンピューター・チップへのコピーが可能になる。
これは自意識の永続と同義であり、「不死」の実現も同然です。すると「死」は個々の人間(自意識)の選択の結果となり、「人は誰でも必ず死ぬ」という前提が崩れ、新たな死と生の意味付けが要請され、宗教はこれまでとはまったく違う教説を案出しなければならないでしょう。
たとえば、「死の克服」という文脈ではなく、「生の始末」というようなパースペクティブで、宗教は我々の実存を考えざるを得ないかもしれません。
三、ネット技術で個々の意識がダイレクトに結合する。
それは人間の実存が「自己」という様式から変容することであり、インパクトは宗教のみにとどまらない話です。
ただ、あえて宗教に関して言えば、「自己」の実存を問う所謂「普遍宗教」が無意味化し、デジタル空間に新たな「アニミズム」が生まれてくるかもしれません。いや、それさえも無くなり、「宗教」も「人間」もついに解消し、まったく異なるデジタル的実存に変貌するのでしょうか。
ところで、これらは本当に「深刻」なことなのか?