恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

理解の不理解

2019年03月01日 | 日記
「理解する」「わかる」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。

 一つは、事象Aと事象Bとの間の対応関係を記述して、「理解した」「わかった」と言う場合です。例えば、脳の物理的・化学的過程と意識現象の対応関係を記述して、「意識が解明された」と称するときなどです。

 意識の場合、対応関係の記述で「理解」とするのは、無理があります。なぜなら、「怒る」という現象を脳の物理的・科学的過程として解明したとしても、「自分が正しい」という「信念」も持たない者は怒れないからです。「自分が正しい」を科学的に解明することは不可能でしょう。

 もう一つは、事象AとBを因果関係で説明できたときに、「理解した」と考えることです。つまり「AによってBが起こった」と説明することをもって、「理解した」と考えることです。

 すぐにわかるように、この説明にも難があります。つまり、同じ事象に複数の因果関係を設定でき、どれが正しいかは、説明そのものでは決められないからです。

「宇宙は神によって創られた」という説明と「宇宙はビッグバンによって生まれた」説明の正誤は、説明自体から結論できません。

 対応関係にしても因果関係にしても、説明の正誤は再現性にかかっています。つまり、事象Aを再現したら、かならずそれに対応して、あるいはそれを原因として、事象Bが再現されるかどうかです。

 怒ったときの脳の物理的・化学的過程を解明したと言うとき、同じ過程を再現したら、必ず人が怒れば、それを「理解」としようというわけです。

 あるいは、特定の角度と特定の力で、特定の重さのボールを打ち出せば、何回やっても同じ距離まで飛ぶことを再現して、ボールの飛翔についての「理解」と考えるのです。

 この再現性によって説明の正誤を判断する場合の最大の障害は、たった1度しか起こら無いことに関しては、正誤が判断できないことです。まさかビッグバンを再現するわけにもいきますまい。

 すると、再現不能な事象の理解は、所詮「信念」にすぎません。ということは、宗教が時に「迷信」となるように、科学もやはり「迷信」になる時があるでしょう。

 その一方、再現可能性による理解は、結局、人間が対象を操作し支配することと同然です。しかし、操作し支配できることが「正しい理解」だと言うなら、「権力を持つ者が正しい」ということと違いがありません。それは浅はかというものでしょう。

 人間に開かれた世界と魚に開かれた世界は決定的に違い、どちらが「正しい」世界か誰にも決められない以上、我々の理解はすべからく誤解であり、そのうちで最も支持を得た誤解を理解と決めておこうという、所詮は身もフタもない内輪の多数決話になるしかありません。

 ゴータマ・ブッダが「真理」の主張を戒めるゆえんでしょう。