恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

みんな大好き

2018年06月20日 | 日記
「君も講演で言っていたが、坊さんが霊だの前世だの来世だの、はたまた輪廻だのという話をすると、俄然、聴衆は盛り上がるよな」

「そのとおり。みんな大好き。それまで浮かない顔で退屈そうに聞いていた人たちが、この話になると一斉に顔を上げ、ギラギラした目で話し手を見るもん」

「考えてみれば、梅雨が明けごろから、テレビ局だってヒュードロドロ系の『スペシャル』番組を定番で打つしな」

「以前、某テレビ局からすごい依頼をされたことがある」

「どんな?」

「幽霊の実況中継をしたいんだとさ」

「はあ?」

「ADらしき者いわく、いままでの心霊系番組はほとんど再現フィルムか、あるいは写真がせいぜいです。しかし、今回のウチは違います。恐山の岩場の奥にテントを張らせていただいて、霊が出るまで待ちます、だとさ。爆笑だぜ」

「本気で言ってるのか?」

「番組作る程度には本気だったんだろ」

「なにか、そのテレビ局大丈夫か、って気分になるな」

「ただね、ぼくはね、幽霊が本当にいるかいないかはどうでもいい話なの。そうでなくて、ぼくが興味深く思うのは、なぜ人はみなこの話がこれほど好きなのか、ってこと」

「なるほど」

「こういう番組、飽きずに繰り返されるでしょ。またそれを見ている人も半信半疑だけど、見るでしょ。見る人いるから、作るんでしょ」

「つまり需要があるから供給がある」

「だから『霊感商法』も成り立つ。まさに需要と供給」

「そうだな」

「となると、ぼくはその需要の正体が気になるの」

「どう思うんだ?」

「まあ、簡単だな。誕生と死という大イベントを超えて、自意識の連続性と同一性を根拠づけるものへの欲望だな」

「で、仏教の核心的教えはそれを設定しない」

「というより、『無明』と呼んで肯定しない」

「そんな根拠がないとすると、ないものを欲望できるのか?」

「ないとは断定しない。だから、欲望は消えずに、対象を喪失したまま無限大に膨らんで、裏口から『根拠』を引き込もうとするんだろ」

「根拠は仮説か?」

「当たり前だ。自意識の同一性は本人の記憶と周辺他者の承認だけで構成されている。よしんば記憶が現世を超えて連続しても、他人の承認は連続しない。同一性が維持できるはずがない。あるいは本人の錯覚や妄想と区別できない」

「前世や来世、あるいは輪廻は自意識の問題なのか?」

「あのねえ、自意識の連続性や同一性と無関係なら、そもそも、こんな話をしなきゃいけない理由があるの?」

「ないだろうなあ」

「そう。だから、こういう話から解脱しなきゃいけないの、仏教は」

「幽霊がいても?」

「いても、いなくても」



追記:

 この度の大阪・京都方面の地震によりお亡くなりなった方々に、心よりお悔やみを申し上げ、被災した皆様が一日も早く平穏な毎日を取り戻されることを、深く祈念いたします。