恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「身心一如」考

2018年04月10日 | 日記
 仏教、特に禅宗系で重要視され、よく使われる言葉に、「身心一如」というものがあります。「身心不二」という言葉もあり、同じ意味として使われていますが、私は必ずしも同じとは思いません。ただ、今回の記事では、あくまで「一如」を考えます。

 この言葉は、宗教辞典や思想辞典などでは、「身体と精神は一体にして不二であり、各々が独立して存在するわけではなく、同一体の両面と見ること」などと説明されています。

 しかし、これは人間の「精神」を可視化して「身体」と区別することができないという認識上の事実か、あるいは「病は気から」という類いの生活実感を言い換えたに過ぎず、我々の実存における意味を明らかにしているわけではありません。

 以下は、私の愚見です。

 いわゆる意識には、それ自体に個別性はありません。意識の現実態が言語なら、言語は一般性を持つから他人同士で「通じる」わけで、それぞれが個別の言語を持つわけではありません。だったら、意識それ自体に個別性があるはずもないでしょう。

 意識に個別性を与えるのは、身体の物理的個体性です。意識は身体の個体性に囚われる(定住する)ことで、個別性をもつわけです。と同時に、身体の個体性は、意識の個別性から捉え返されて、自覚されます。

 ところで、個別性と個体性の自覚は、それ自体が「自己」の獲得であり、「自意識」の発生です。

 この「自己」の獲得は、すなわち個別性と個体性の自覚は、あるものが、それではないものに関わり、関わられるという行為的関係においてのみもたらされます。
 
 そして、原初的で決定的な行為的関係は、そのものではないもの、他なるものからの一方的な関わりとして到来します。それが個体としての身体の出産・養育と個別性の確定としての命名です。

「自己」は、この「他者からの一方的な関わり」への反作用として現実化します。そして、その後の行為的関係の作用と反作用の往復の中で自らの強度を高め、輪郭を明確にしていきます。

 私は、「身心一如」の実存的意味を、この一連のプロセスに見ています。すなわち、「自己」という存在様式を生成し維持する「行為」こそが、「身心一如」の現実であり意味なのです。 

 まあ、これも、精神と肉体の統合は「自己」としてしか現実化もしないし実感もされないという端的な事実の、面倒くさい言い換えにすぎませんが。