恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

渡すが勝ち

2018年04月30日 | 日記
 恐山開山直前、思いつき禅問答シリーズ。

 昔、ある高名な禅師のところに、ひとりの修行僧がやってきて言いました。

「長いこと、あなたは悟りの岸へ渡ることのできる堅牢な石橋だと思っていましたが、実際に来てみると、あるのは粗末な丸木橋だけですな」

 すると禅師は

「君はただ丸木橋を見ているだけで、石橋は見てないんだな」

「じゃ、どんなものが石橋なんですか?」

「驢馬も渡せば馬も渡すさ」

 

 この問答の核心は、私に言わせれば、あるものが何であるかはそのもの以外のものがどう関わるかで決まるということ、この場合で言えうと、そのものが何であるかは、それが何に使えるかで決まるという、「縁起」の教え(私流「縁起」説)です。

 つまり、「石で堅牢に作ってある」(本質)から「石橋」(現象)で、「木で簡単に作ってある」(本質)から「丸木橋」(現象)なのではなく、大小重軽、驢馬だろうと馬だろうと「何でも渡らせることができる」(機能)こそが「石橋」としての在り方(概念)決定するのであって、それができないものを「丸木橋」と言うべきだ、ということです。

 ということは、禅師が説き示すことが真理かどうか、偉大な教えかどうかなどという議論はどうでもよいことで、彼の言葉が修行僧の修行に役に立つのかどうか、その志を励ますのかどうか、それこそが問題だということです。

 だとすると、問題は修行僧に投げ返されます。彼は何をテーマにどう修行しようとしているのか、それが明確でなければ、石橋が必要なのか丸木橋で用が足りるのか、自分で判断できないでしょう。

 つまり、禅師はこの問答で、暗に修行僧の志と覚悟の如何を問うているわけです。