「悟り」が何なのか教えて下さるという、ご親切なお手紙ありがとうございます。久方ぶりにこの種のお手紙を拝読いたしました。
貴台のお話では、誰かの本を読み、書いてある通り修行したら「預流果」を得られたとのこと、謹んでお慶び申し上げます。
さて、御説によると、脳が色々と余計なことを考えて「世界」や「自己」の存在を錯覚するので、特定の方法(主としてある種の瞑想)によって、その錯覚と錯覚する主体をありのままに観察できれば、錯覚はことごとく解消される。そうなったときが「悟り」であって、そのときのありのままに観察する主体こそが「本当の自分」だ、というアイデアのようです。
私は出家して以来、このテの話を、上座部から大乗まで様々なデザインで、それこそ耳にタコどころか、顔中にタコができるほど繰り返し聞かされて、心底から辟易しきっています。大変申し訳ありませんが、私は、「悟り」と「本当の自分」が出てくる言説には、もはや全く興味も関心もないのです。面白いとも役に立つとも思いません。ただの駄法螺にしか聞こえず、自分には端的に不要なのです。
以前にも書いたので、長々繰り返しませんが、それまで「悟った」ことがない人に、ある日特異な何事かが起ったとしても、それが「悟り」だとわかるはずがありません。すると、だれか別の「悟った」人に「君は悟ったよ」と「認定」しもらうしか、自分の「悟り」を証明できますまい(貴台の場合は他人の書物を証拠としているようですが)。
すると、事情は先に「悟った」人も同様ですから、その証明は次々に遡り続け、結局、釈尊まで至ります。
ところが、当の釈尊は「悟り」が何なのか、自分の口で語っていません(それを明言する文献が無い)。となれば、物は言いよう、考えようで、あとは支持者の分布と多寡の問題にすぎず、「悟り」の内容は結局、ポジショニングによるでしょう。
「本当の自分」も同じ。「本当」を判断する「正しい」根拠は一切ありません。せいぜい「とりあえず今は、これを『本当』にしておこう」程度のことです。
「観察する主体」にしても、それがあるなら、「観察する主体」を観察することが可能ですから、ことは無限遡及になります。どこで「本当の自分」を打ち止めにするかは、完全な恣意でしょう。
少なくとも私には、今やそんなことはもうどうでもよいのです。
私は、坐禅という身体技法を使って、言語機能と自意識を低減させることによって、「自己/世界」というがごとき、通常の二元的認識パラダイムを解除できることを知りました。わかったのは、そこまでです。それ以上の話は、所詮お伽噺にしかなりません。
現在の私の、日常生活における坐禅の位置づけは、およそ以下のようなものです。
「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して、いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし、その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する。その過程で、「自己」と「世界」は、<それはいかにあるべきか>という「問題」として構成されていく。この「問題」に、時の条件に応じて適宜選択された方法でアプローチし、できる限り明瞭に言語化する。
かくして「問題」が取り組むべき「テーマ」にまで構成されたなら、まずは好悪・善悪・虚実・正誤のような価値判断を一切差し控えて、「テーマ」をめぐる諸存在の関係性を認識した上で、それに取り組む具体的な工夫をする。実際にやってみれば中々上手くいかないこの行為を、それでも繰り返して改善しながら習慣にできれば、「悟り」も「本当の自分」もまるで必要がない。意味もありません。
以上、所感です。あしからず、御免ください。
貴台のお話では、誰かの本を読み、書いてある通り修行したら「預流果」を得られたとのこと、謹んでお慶び申し上げます。
さて、御説によると、脳が色々と余計なことを考えて「世界」や「自己」の存在を錯覚するので、特定の方法(主としてある種の瞑想)によって、その錯覚と錯覚する主体をありのままに観察できれば、錯覚はことごとく解消される。そうなったときが「悟り」であって、そのときのありのままに観察する主体こそが「本当の自分」だ、というアイデアのようです。
私は出家して以来、このテの話を、上座部から大乗まで様々なデザインで、それこそ耳にタコどころか、顔中にタコができるほど繰り返し聞かされて、心底から辟易しきっています。大変申し訳ありませんが、私は、「悟り」と「本当の自分」が出てくる言説には、もはや全く興味も関心もないのです。面白いとも役に立つとも思いません。ただの駄法螺にしか聞こえず、自分には端的に不要なのです。
以前にも書いたので、長々繰り返しませんが、それまで「悟った」ことがない人に、ある日特異な何事かが起ったとしても、それが「悟り」だとわかるはずがありません。すると、だれか別の「悟った」人に「君は悟ったよ」と「認定」しもらうしか、自分の「悟り」を証明できますまい(貴台の場合は他人の書物を証拠としているようですが)。
すると、事情は先に「悟った」人も同様ですから、その証明は次々に遡り続け、結局、釈尊まで至ります。
ところが、当の釈尊は「悟り」が何なのか、自分の口で語っていません(それを明言する文献が無い)。となれば、物は言いよう、考えようで、あとは支持者の分布と多寡の問題にすぎず、「悟り」の内容は結局、ポジショニングによるでしょう。
「本当の自分」も同じ。「本当」を判断する「正しい」根拠は一切ありません。せいぜい「とりあえず今は、これを『本当』にしておこう」程度のことです。
「観察する主体」にしても、それがあるなら、「観察する主体」を観察することが可能ですから、ことは無限遡及になります。どこで「本当の自分」を打ち止めにするかは、完全な恣意でしょう。
少なくとも私には、今やそんなことはもうどうでもよいのです。
私は、坐禅という身体技法を使って、言語機能と自意識を低減させることによって、「自己/世界」というがごとき、通常の二元的認識パラダイムを解除できることを知りました。わかったのは、そこまでです。それ以上の話は、所詮お伽噺にしかなりません。
現在の私の、日常生活における坐禅の位置づけは、およそ以下のようなものです。
「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して、いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし、その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する。その過程で、「自己」と「世界」は、<それはいかにあるべきか>という「問題」として構成されていく。この「問題」に、時の条件に応じて適宜選択された方法でアプローチし、できる限り明瞭に言語化する。
かくして「問題」が取り組むべき「テーマ」にまで構成されたなら、まずは好悪・善悪・虚実・正誤のような価値判断を一切差し控えて、「テーマ」をめぐる諸存在の関係性を認識した上で、それに取り組む具体的な工夫をする。実際にやってみれば中々上手くいかないこの行為を、それでも繰り返して改善しながら習慣にできれば、「悟り」も「本当の自分」もまるで必要がない。意味もありません。
以上、所感です。あしからず、御免ください。