恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「苦」と「解脱」

2015年11月20日 | 日記
 私の知人に、お母さんが認知症の方がいます。その症状が、おそらく前方向性記憶障害と言われているものの一種ではないかと思います。

 このお母さんの場合、過去の記憶も家族の認知も確かですし、話の筋も通っていて、日記も書いています。ただ、ある時点(認知症発症の時点でしょう)から以後、まったく記憶が積み上がらず、直近の記憶が2、3分ですっかり消えてしまうのです。

 最近では、骨折したことも、入院したことも忘れたんだそうです。

「なんで、こんなとこにいるのかねえ?」

「おばあちゃん、骨折したのよ。ここ病院」

「あれえ、そうなのかい。だから足がぐるぐる巻きなんだね」

しばらくするとまた、

「・・・なんで、こんなところにいるのかねえ?・・・」

 こんな調子。短時間の痛みは忘れてしまうので、ずっと同じ痛みが途切れず続いて初めて、「痛い」らしいのです。

 日記も、まさに書いているその時に見たり聞いたり感じたりしたことだけが、箇条書きのような文章になっていると、知人は言います。

 すると、結果的に彼女は、不平・不満・不安をほとんど持たない状態になっているはずです。もちろん、時々、気に入らないことがあるとその瞬間、「もうやだ! 死んだほうがまし!」とキレることもあるという話ですが、直後に忘れて、またニコニコしながらテレビを見ているのだそうです(見ていると言うより、映像と音声の流れを追っている)。

 では、このような彼女に、「苦しみ」はあるのか?

 もちろん、その時々に快・不快の感覚あるいは感情はあるでしょう。しかし、それは仏教が言う「苦」と言えるのか? 仏教がテーマとしている「苦」なのか(たとえば、「生老病死」)?

 あるいは、彼女は「欲望」を持つのか? 本能的・生理的欲求とは水準がまるで違う「欲望」、その根本である「思い通りにしたい」という意思と感情は、彼女に働いているのか?

 本能的・生理的欲求それ自体は仏教の問題ではありません。トカゲや昆虫の「生き方」は、仏教の関わるところではありません。そうではなくて、これを「欲望」に構成する「思い」の作用こそが、問題なのです(「若くありたい」とも思わない限り、「老い」は「苦」にならない)。

「思う」ためには、物事の比較対照と因果関係の把握が不可欠です(と言うより、それをすることを思考という)。しかし、これは一定の記憶能力が前提の話です。その能力が不十分なままで、「思い通りにしたい」という自覚を、「欲望」「煩悩」レベルの強度で持つことは不可能でしょう。

 だとすると、「欲望」を「苦」の根源と考え、そこから「解脱する」という思考パターンに乗る限りは、彼女は事実上、「解脱」したも同然になります。そうでなくても、少なくとも、もはや仏教や宗教が「導き」「救う」対象にはならないでしょう(彼女にどうやって「教え」を説くというのか? そもそも、どこにそんなことをする必要があるのか?)。

 このことは、仏教の基本概念である「無明」を「根源的欲望」とか「本能的生存欲求」などと言ってすませているナイーブな考え方を、きわめて見当違いなものにします。それが「思う」ことと無関係なら、「苦」の原因になりません。

「無明」の核心は、「思う」こと、すなわち言語と意識にあります。それと無縁な、あるいは意識と言語がほとんど関わらない感覚や情動は、「苦」を生み出す「欲望」とは言えないのです。

 すると結局、言語の機能と作用に対する自覚と批判を方法論的に遂行し、これを通じて「欲望」を構成する「意識」のコントロールに努力することが、言語内(=意識的)存在である者における、仏教修行の内実ということになるでしょう(「解脱」が「記憶障害」とは違うなら)。

 ちなみに、彼女は日頃、あれこれ世話をしてくれる息子夫婦に「ありがとうね、ありがとうね」と言いながら、私の見る限り、穏やかに暮らしています。