たとえば、ある絵の美しさは、言葉でいくら説明しても伝えることは不可能で、実際に見る以外に、その美しさを知ることはできません。そういうことから、言語能力の不完全性に言及することは、よくあるパターンです。
ただ、私が今回考えたいのは、そういうことではなく、言語が何かについて語るときには、不可避的に、そのもの、それ自体の存在を消失させてしまうということです。そして、そのものについて何か語っているときには、大抵の場合、その消失に気がつかない、ということです。
たとえば、私が、いま目の前の「この」茶碗について語っているとき、まさに、ここに今たった一つのものとしてある、そういう茶碗です。それを称して「この」と言っているのです。
ところが、茶碗を指す「この」という語は、いつでも、どこでも、何にでも使えます。けっして、いま私の目の前にある、まさに「この」茶碗だけに限定されて使われるわけではありません。つまり、本来「この」が意味すべき、その茶碗の存在の単独性、ユニークさには、決して届きません。
と同時に、「この」は、いま「私の」目の前にあるということの、特別さも取り逃がします。なぜなら、「この」という指示が意味を持つのは、「この」茶碗が存在する場を、誰か他人と共有している場合だけだからです(実際に他人がそこにいるかどうかは別です)。すなわち、「この」という語は、その茶碗そのものを指しているのではなく、その茶碗について語られている場を意味しているのです。
かくのごとく、言語が意味在るものとして通用している場では、いつでもどこでも、まさに言及されている当のものの存在それ自体は、決して語られません。むしろ、それを失うことで、言語は成立するわけです。
ここまで言うと、察しのよい方は、私の言いたいことがおわかりだと存じますが、ならば、「私」という語も同じでしょう。
「私」も、いつでも、どこでも、誰でも使う言葉です、しかし、「私」が本来意味すべきなのは、この世界で、まったく代替不能で、ほかに比べようも無く単独で存在する、まさに「この」「私」です。
いま、ここに、「私」のように世界を見、聞き、感じている者は誰もいません。この苦しくなるような単独性を、「私」という語は、けっして担えないのです。その比類なさを失うことでしか、「私」を語ることはできません。
さらに切ないのは、「私」の単独性や比較不可能性は、まさに「私」を成立させる言語によって他者に媒介されないかぎり、気がつかないということです。実際、単独性の自覚は、複数性が前提とされ、比較不可能性は、不可能を判断できる程度に比較されて始めて成り立ちます。「私」がこの世でたった一人の人間として生まれてきたなら、絶対に自分の単独性にも比類なさにも気がつかないでしょう。
ときとして切迫する「私」という存在の居心地の悪さ、つい「本当の自分」を妄想するやるせなさは、そのものの存在を失わせるという、言語の「この」根源的な力に由来するのです。