恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

祝!大記録達成

2009年09月20日 | インポート

 いまや「日本のヒーロー」ばかりか、「アメリカのヒーロー」にもなった感のあるイチロー選手。今年も、シーズン200本安打の連続記録を、実に1世紀ぶりに更新しました。その抜群の技量のみならず、若いころからの彼のユニークな言動に注目してきた私にも、大変うれしい活躍です。

 以下は、2004年(だったと思いますが)、シーズン最多安打の世界記録を樹立したとき、剣道の専門誌にエッセーを頼まれ、書いたものです。ささやかな祝意のしるしとして、転載させていただきます。

イチローの「作法」

十個の台風、大地震。おまけに熊の出没。国の外ではテロ・戦争、内に連日の殺人事件。昨年はお世辞にもよい年とは言えなかった。

 その中で、日本中の耳目を集めた数少ない明るい話題はスポーツ、金メダルラッシュのオリンピックと、あの大リーガー、イチロー選手の歴史的大記録であろう。

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 いまや神業の域に達した彼の活躍は、今更素人の私が言挙げするまでもない。が、彼の勇姿を目にするたびにいつも気になるのは、例の打席に入って打つ構えを整えるまでの、一連の動作である。私にはあの独特の動作が、いつも何かの礼儀作法のように思われる。

 それにあの構えは、打ち気満々、一発かっ飛ばしてやろう、という風にはとても見えない。両膝が着かんばかりの内股で、バットを肩にかつぐように倒して構える姿は、打ちに行くと言うには、あまりに静かだ。

 この構えから彼が芸術的と言えるヒットを量産する様を見ていたら、なんだかボールを打つというより、来たボールをバットで出迎えに行っているような感じがしてきた。

 昨秋、テレビでイチロー選手のインタビュー番組が放送されたが、その中で彼は自分の構えに言及して、最後に気をつけるのは背筋である、という意味のことを言った。やはり!と私は思った。体の軸が決まらなければ、どこへでも即座にお迎えにいくわけにはいかないだろう。

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 私には剣道五段の弟子がいるが、以前彼と話していたら面白いことを言っていた。

「試合をしている最中、何かの拍子に坐禅しているときと同じ意識状態になることがあります。そのときは必ず一本取れます。打ち込むと言うより、当たる。もっといえば相手の方から当たってくる感じさえします」

 少なくとも坐禅は相手に何かを仕掛けていく体勢ではない。なのに、それと同じ意識状態が鋭い攻めを可能にしている。そういえば別の有段者が「強い人は見ればわかります。前に踏み込んでいる足ではなく後ろに引いている足、その足の先まで頭から強い軸線が貫いているのです」と言っていた。まるでイチロー選手の構えであり、坐禅で言う「正身端坐」である。

 けだし、これらの姿勢に共通するのは「待ち」とか「受け」と呼ばれる態度だろう。それは他者を迎え入れる態度なのであり、その迎え入れによって自己を立ち上げようとするのである。剣術が「敵」を打倒する技術だとすれば、剣道は「相手」の存在を根拠に「自己」を鍛え高める修行だと言えるのではないか。もしそうなら、「相手」の到来を「待ち」、それを十分に「受け」容れる姿勢と態度が必要に違いない。

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 東京の禅道場で坐禅指導などしていると、色々な人がやってくる。もちろん坐禅に関心があるのだろうが、ある種の不安や屈託を抱えてやってくる人もいる。中でも若い人に多いのは、「自分のしたいことがわからない」「本当の自分が知りたい」という悩みである。 こういう話を聞くと私はよく思う。発想を変えろ、と。案外「自分は他人の役に立つ何ができるのか」を考えた方が、早く「自分のしたいこと」がわかるのではないか。「本当の自分を知る」ことができるのは、目の前の他人が自分にとってどういう存在なのか知ることによってではないか、と。

 彼らは相手を見ないまま、急いで自分を前に出し過ぎている。人生の構えに「待ち」と「受け」が足りないのだ。だから焦る。焦れば、たとえイチロー選手でも、ヒットは打てないだろう。(了)

 よく弓道などで、「百発百中の極意は、無心だ」などと言うようですが、私はこういう意味ではないかと思ったりします。

 最初は的に当てようと必死に練習する。すると当たるようになる。それは的に向かって立つ自分の構えや姿勢から発射される矢の軌道が体感され、記憶されるからだろう。

 ただし、そのまま体感にまかせて、ひたすら当てようとしても、「すぐれた選手」になれても、「百発百中の名人」にはなれまい。

 そうではなく、むしろ、的に向かう軌道にあわせて構えや姿勢を作り直したとき、「名人」の域に入るのではないか。

 軌道にあわせた構え・姿勢が確立すれば、構えたとたんに筋肉や骨格は自動調節され、そのバランスの維持以外に余計な一切の力を必要としないだろう。

 すると、意識は特定の対象を狙うよりも、的から自身の体の全体をつつむ絶妙なバランスの維持に集中することになり、これを称して「無心」と言うのではないか。

 以上、ついでに考えたことです。