恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

宗教者の素質

2009年09月09日 | インポート

 早いもので、私も出家してから今年で丸25年が過ぎました。で、そろそろタイトルのような話をしてもよかろうかと思い、書かせていただきます。

 宗教者の素質として私が一番大事だと思っているのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。

 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安です。どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか。なぜここにいるのか、どこから来てどこへ行くのか。そういう問いが自分を底の方から揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことでなく、「持たない」ことなのです。いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も大切だと、私は思っています。それは、ある意味、「無明」や「原罪」などという言葉に極めて敏感に反応するセンスでしょう。

 宗教者は、人間の苦悩を扱う立場です。多くのそれは貧困だったり、病気だったり、人間関係の争い事だったりでしょう。それらの解決は、直接宗教が関わることではないかもしれません。しかし、そうであろうとなかろうと、いずれにしろ、何らかの苦しみ、悩み、切なさを抱えて、人々は宗教にアプローチしてくるのです。

 だとすれば、宗教者は、まずその苦しさ切なさに寄り添えなければなりません。問題はそれぞれ別であっても、いま苦しいという、その苦しみに共感できなくてはなりません。それには、自分が存在していること自体に、ある種根源的な苦しさを感じていることは、極めて重要な「能力」になるのです。

 その不安や苦しさは、劣等感とは違います。他人と比較可能な能力の不足感に由来する劣等感は、それが宗教に紛れ込むと、「神」や「仏」を道具に使って他人を支配することで優越感を味わおうとする、とんでもない欲望に転化しかねません。

 劣等感はないにしろ、人間の免れ得ない苦しみに対する想像力や共感をほとんど持たない人物が宗教にコミットするなら、「他人の弱み」につけこんで儲けようとする、悪質な「宗教商人」に堕しやすいでしょう。「商人」にならないまでも、おそろしく傲慢な「支配者」になるでしょう。

「一番危険な欲望は正義の顔をしている」と言った人がいますが、この「危険な欲望」とは、他人を支配したいという欲望のことです。ならば、それは「正義」の顔ばかりでははなく、「真理」や「美」、さらには「神」や「仏」の顔をしているかもしれません。

 だからなのです。自分の中に、その根底に、どうしようもない苦しさ、切なさ、痛みを、激痛でないにしろ、疼痛のように感じ続けていることが、宗教者として大事なのです。この痛みを知る人間は、他人を支配しようと、巨万の富を得ようと、自分の問題が何も解決されないことを、骨の髄から知っています。エセ宗教者になりようがない、ということです。

 妄想癖のある私などが恐山にいると、しち七面倒くさい仏教なんぞは放り出して、適当な教義をでっちあげ、「教祖」になって大もうけしてやろうか、などど思ったりします。ロケーションがロケーションである上に、禅寺で20年近く修行したことは事実なのですから、さらに経歴を超能力者的に粉飾したら、並みのインパクトではありません。さらに私の過去を知る人が全員黙っていてくれて(あるいは全員を黙らせて)、かつ急ごしらえの「霊能力ごっこ」を手伝ってくれる若干の協力者を調達できれば、おそらく大成功は間違いありますまい。オマエはその方が向いてるぜ、と言う口の悪い友人さえいます。

 なぜ、できないか。それほど自分を騙して平気でいられる才能に乏しく(つまり、「ごっこ」が恥ずかしい)、他方「苦しみ」の能力はいまだ高めの水準を保っている(つまり、「ごっこ」が馬鹿々々しい)からでしょう。

追記: 次回の講座「仏教・私流」は、10月20日午後6時半より東京・赤坂の豊川稲荷別院にて行います。