その昔、中国にある和尚がいました。
彼は毎日自分自身に「主人公」と呼びかけ、自分で「はい」と返事をしてから、「よしよし、しっかり目を覚ましていろよ」「はい」、「これからも人に騙されないようにな」「はい、はい」と言っていました。
この話は、『無門関』という有名な禅問答集にあるものです。「主人公」という言葉はここでは「真の自己」「本当の自分」くらいの意味にとればよいでしょう。
従来、この話は往々にして、次のように解釈されてきました。すなわち、呼びかける今の自分のほかに「真の自己」などいない。「真の自己」をことさら区別して、それに執着してはならない。そういう思い計らいなど一切捨て、今ここにいる自分こそまさに「真の自己」だと悟ることこそ、「騙されるな」ということなのだ・・・
私はこの無邪気な解釈を採用しません。私が考えるのは、自己とはその存在の構造として、対話的であるということです。「主人公」とは、《呼びかけられ・返事をする》ような構造のことなのです。自己が始まるのは、自己ではない誰かの呼びかけに「はい」といったときです。私は、およそ倫理的なるものは、この「はい」に発すると思います。もし、自己が自己自体から始まるなら、およそ人間に倫理はいらないでしょう。
お知らせ。「仏教・私流」は、12月はお休み。次回は2009年1月26日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて行います。