人間が「死を選択しうる存在」であることは、善悪以前の事実です。したがって、「生きなければならない理由」も「死んではいけない理由」も、それが理屈である限りは、まったく反対の理屈が成り立ちうるわけで、それは「生死の選択」、すなわち自殺の是非を理屈で決着させることの無意味さを示しています。
このことは、同じ理屈で生死を否定も肯定もできることを考えれば、さらに明瞭になるでしょう。
たとえば、「生きてるって、それだけで素晴らしいことよ!」と言われても、生きている当人は「死を選択しうる存在」ですから、「死の選択」も「素晴らしい」ことの内でなくてはなりません(中学生のときに考えた理屈。テレビドラマの主人公が大声でこのセリフを叫んでいて、それがたまらなく嫌だった)。
逆に、「生きていることは無意味だ」というなら、同じ理屈で「死の選択も無意味」になりますから、いわゆる「存在論的」自殺は妄想にすぎません。
しかし、この問題の本当の深刻さは、「死刑になりたいから人を殺した」という人物が現れたときに、我々が感じる居たたまれないような不気味さを思えば、わかるはずです。
この発言は、「死刑になりたい」を「自殺したい」と事実上同じことだと考えれば、時として人が他人を励ますときに使う「死ぬ気になればなんでもできる」という言い方と、理屈の枠組みは同じです。理屈は同じなのに、一方は自己と他者の同時否定を意味し、他方は自己と他者の生の肯定を意味する。この場合もやはり、理屈は無効なのです。
「死刑になりたいから人を殺した」という言い方の不気味さの核心には、その否定を理屈で根拠付けられないこと以上に、我々の「倫理」が人為的な強制(刑罰)で確保できなくなるという事実があります。「極刑」が「死刑」ならば、「死刑を望む者」には、およそ刑自体が無意味になるからです。このことは、結局、「倫理」もまた、これを理屈で根拠付けることの不可能性を意味するでしょう。
刑罰は法的に根拠を持たねばならず、その法にも根拠がなければ、法たりえません。その根拠は、何らかの、万人にわかるように善悪を区別しうるものでなければなりません。このとき、刑自体の無意味は、その刑を規定する法の根拠、すなわち善悪の区別も無意味化するでしょう。すなわち、頭から理屈で善と悪を分けることは出来ない相談なのです。
ここでまず問題にすべきは、自殺の是非や倫理の根拠を理屈で考えることではなく、「死を選択しうる存在」、「死刑になりたくて人を殺す存在」の、その存在の仕方を考えることです。
人間は「自己」という様式でしか存在できず、その存在の仕方は「他者」に由来します。つまり、「他者に由来する自己」という、原理的に矛盾した存在様式を持たざるを得ません。自殺とは、この存在様式の矛盾に耐えられなくなることであり、単に「自分」を殺すことではありません。すなわち、自殺は「他者に由来する」という事実と、その根源的な困難さを否定することであり、だからこそ、自殺の肯定は構造的に他殺の容認に結びつくわけです。
「死刑になりたくて人を殺す」という言い方を可能にするのは、この「自己」の構造ゆえです。この構造の不安定さが露呈するからこそ、我々には不気味なのです。
となれば、「人を殺してはいけない」という「倫理」の根幹は、「自殺してはいけない」ということになるでしょう。しかも、これが理屈でないとすると、「自殺しない」という、理屈以前の我々の決意こそが、「倫理」の根拠を作り出す、とうことになります。
そして、「自己」が「他者に由来する」なら、「自殺しない」決意とは「他者に由来する自己を受容する」決意を意味します。
ならば、「自己」の孤立、あるいは「他者との断絶」は、自己と他者の危機なのであり、単純な「自己責任」論の浅薄で一方的な強調は、やがて「倫理」の根幹を侵害していくでしょう。
そうです。以上の理屈も余計です。ことは、すでに誰にでも実感としてわかっていることです。他者から大切にされ、他者を大切にすること、そうすべきだと確信し続け、さらに確信できるようにし続ける行為が、我々の「善」と「倫理」を可能にするのです。
理屈は、いりませんね。
唯円「何事も信じます」
親鸞「私の言う事に背かぬか」
唯円「申すまでも御座いません」
親鸞いわく「なれば人を千人殺害せよ、そうすればお前の極楽往生間違いなし」
勿論、親鸞は殺人を教唆したわけでは有りません。
人間、殺人を犯せと言われて人を殺せるものではない。
殺人するもしないも、因縁によるものである。
人は、自らの計らいで善悪を行えるものでない事を説こうとしたのです。
しかし、自殺と他殺は悪い事であると決めつけ、法律で取り締まった方が楽に生活できるから、そうしているだけのこと。
ただし、私は自殺や他殺に嫌悪感を感じるし、嫌いです。
だから、偶然、生まれたにせよ、感謝して生きるわけです。
勿論、生きるということは辛いことだらけです。
犬や猫の去勢を推進するのも、この世は辛い事だらけだからです。
だからこそ、人間は相互扶助という事を発見し、社会・組織の構成員同士が互いに助け合って生き抜いてきたわけです。
人類の誕生以来、相互扶助そのものは世界各地に存在していましたが、ヨーロッパにおいて特に相互扶助が注目されるようになったのは産業革命以後に様々な社会問題が発生するようになった後です。
産業革命によって封建社会の共同体下で存在した相互扶助の形態が解体され、これに代わり得るものを人為的に組織する必要が生じたからです。
例えば、救貧法はギルドや農村共同体が担ってきた最低限の生活保障の機能を担い、その他の分野でも自発的な結社や慈善団体による相互扶助機能の提供が行われました。
18世紀になると、各地に友愛組合・共済組合・労働組合・協同組合など集団的自助を目的とした団体が結成されるようになりました。
こうした団体は厳格な規則とともに組合員に共同基金の創設・維持のために一定の組合費や拠出金の出費や組織活動への参加を義務付け、代わりに死亡・疾病・老齢・失業などに対する給付を請求する権利を得ました。
こうした組織はイギリスでは主に労働者階級が主導して結成され、フランスでは名望家階級の後ろ盾の存在が大きかったのです。
また、国家もこうした組織の登録制度や優遇税制による把握に努め、その組織結成を促しました。
こうした政策は後の社会保障制度や福祉国家の形成に大きな影響を与えました。
ただし、その一方でこうした団体は主に組織労働に従事する成人男性とその家族を対象としており、低所得者や女性の参加は考慮されていませんでした。
とはいえ、こうした組織は移民や商業活動を通じてヨーロッパ以外の地域にも広まりました。
アジアでも中国の義荘や日本の講・友子などの一族単位、地域単位あるいは職種別の互助組織が存在していたが、近代以後はヨーロッパを範とした共済組合などが結成されるようになりました。
ただし、当初こうした組織の背景には企業主義に基づく恩恵付与と言う東アジア独特の考えが含まれていました。
自殺や他殺は悪ではないという理屈は捨てて、一人は万人の為に、万人は一人の為に生きていきましょうよ。
現在の日本において、自殺は法的には犯罪とはされていません。
しかし、飛び込み自殺などにより、第三者に被害が発生した場合には、刑事手続上は重過失致死などの罪により自殺した者は被疑者死亡で送検され、民事上は自殺した者の遺族に対して損害賠償責任が発生する可能性があります。
また、他人を自殺させること、自殺を援助することは自殺関与罪(刑法第202条)の犯罪とされます。
尚、単独の自殺未遂は現在の日本の刑法では刑罰に科せられることはないが、複数で行った場合は相互に処罰されます(自殺関与・同意殺人罪)。
ガス自殺など他者に危険を及ぼした場合は被害がなくても未遂も処罰され得ます。
アメリカ合衆国で自殺を罪と定めている州はアラバマ州とオクラホマ州だけであるが、実際に犯した人を処罰するのは現実的には不可能なことなので罰則はありません。
いくつかの州では自殺未遂も軽犯罪法に触れるが実際に罰を受けることは滅多にありません。
30の州においては自殺ないし自殺未遂はいかなる罪にも問われていません。
しかし、全ての州で一致している点があり、自殺を唆したり勧める行為は例外なく重い罪に問われます。
なお、自殺を「加害者と被害者が同一人物である殺人」と理解される場合、自殺は「犯罪」であるという法的根拠と成ります。
オランダにおいては、2000年に安楽死が合法化されました。
ただし、死期が近く、堪え難い肉体的苦痛があり、治療の方法がない等の厳格な要件が付与されています。
「ママをさがして7こくらいのよるをすごした
ママはぼくがきらいになったのかな?
ママはどこへいっちゃったんだろう
すてられたの?
おなかがすいてぺこぺこになった
しかたがないからゴミすてばにいたんだ
そしたら
おにいちゃんがきて ぼくをいえにつれていった
あたらしいおうちだとおもって とってもうれしかった
おいしいごはんもくれたのに‥・
なんで?
なんでぼくのしっぽをきったの?
なんでぼくのあしをきったの?
ぼくいいこにしてたよね
なんのためにぼくうまれたの?」
他己と自己がクロスする意味をなんとなく感じる今日この頃です。
おめでとうございます!!
子供は可愛いですよね!!
大変な事も有りますが、本当に癒されます。
親が子をつくるのではなく、子供を育てる事によって親になっていきます。
「子供を持たない者は親の気持ちが解らない!!」と、師匠に怒られた事が有りますが、その通りだと思います・・・
無論、それらで括り得るほど森羅万象は単純ではないものの 「自然人であるにもかかわらず、単なる観念で行為する」 というのが多数の人々であること位は身に覚えておくことでしょうね。
人という自然の一部は、一見、複雑怪奇な現象を起すように見えて、 つまるところ 「名利など何かに執着している」 だけであることがアホらしくもあり、 大真面目に考えるところでもあると来ますからね。
人が作ったどんな映画(物語)よりも面白くはあるものの 「自身も登場人物の一部」 なのだから、 とどのつまり、 如何に演じるか? 如何に生きるか? になるのだから、 やはり、人生笑えるぞ! でしょうかね。
今回もいろいろと考えさせていただきます。
屁理屈を言うな。黙って坐ってろ。