「信じる」とは、いかにして可能になる行為なのでしょう。
もし、ある存在や考えをそのまま受容すると言うなら、それは「了解」とか「理解」であって、「信じる」ことではないでしょう。
むろん、それは「あるものが存在してほしい」とか「ある考えが正しくあってほしい」と「願う」ことでもありません。「信じる」のはあくまで、「存在する」ことであり「正しい」ことなのです。
すると問題なのは、「信じる」ことは、「疑う」ことがない限り、不可能だということでです。そもそも、「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」と思う余地がなければ、「信じる」ことは成り立ちません。疑いがまったくないなら、「理解」「承認」するだけでしょう。ならば、「信じる」とは即、「疑いの排除」として以外に現実化しません。
だとすると、われわれは決して純粋に「信じる」ことはできないことになります。つまり、「信じている」限り、「疑っている」ことになってしまうからです(同時に、「疑っている」人間は、常に「信じる」ことを欲望しているのです。「信じる」何かを求めないなら、「疑う」必要はありません)。
この矛盾を回避する方法は、私が思うに二つです。一つは、「疑い」を排除することをやめて、「信じる」ことに取り込んでしまうのです。これを称して、「賭ける」といいます。すなわち、「信じる」ときに、最初から「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」ことを当然の前提とするわけです。
もう一つは、「信じる」何かを消去することです。「あるものが存在すること」「ある考えが正しいこと」を無視して、「ただ信じる」。他動詞の「信じる」を自動詞化してしまうのです。
ということはつまり、それまで「信じる」方法であった行為、あるいは「信じる」ことを表現していた行為それ自体を、目的化することになります。たとえば、「ただ坐禅する」「ただ念仏する」。
このとき、「信じる」対象は失われ、「信じる」主体は「信じる」行為に融解して、「信じる」行為は無意味と化して、ただの「行為」になるのです。そうなれば、もはや「疑う」ことも不可能です。
結局、「信じる」行為の極限には、「信じる」何事もない。「宗教」もない。
私は『正法眼蔵』や『教行信証』を読むたび、いつも「信じる」困難さを思わされ、こんなことを考えるのです。
われわれは、愛を絶対・至高のものと考えがちである。キリストは「汝の隣人を愛せ」と言い、孔子の説いた「仁」もまた愛であり、テレビは「愛は地球を救う」と叫ぶ。しかし、彼らと違って、釈尊は愛は苦だと説き、悟りへの障碍物と教える。
釈尊は、妻をすて、子をすて、家をすてて出家の道に身を投じた。それはまた愛を切りすてることでもあった。愛は深ければ深いほど、切りすてる時の苦悩もより強い。その強い苦悩を知っているからこそ釈尊は愛を苦ととらえたとも考えられる。
また愛という言葉自体は本来すばらしい言葉ではあるのだが、われわれ凡夫の愛の裏側には、常に区別の思いが隠れている。わが子を愛する心の裏には、わが子とよその子を区別する心があるように、何かを愛するという心の裏には、別の何かは愛さないという心が潜んでいる。愛国心という言葉が、時として危険性をはらむのはこのためである。そしてこの区別する心は、すぐに区別したものに対する執着の心を生み出す。
この執着を背景に持つ愛は、単なる己の欲望充足のための愛である。
そもそも仏教でいう愛とは、トリシュナーの訳語で、この欲望の充足を求める「渇愛」をいう言葉である。こういう凡夫の「愛」こそが悟りへの障害でもあり、円覚経という経典にいう「輪廻は愛を根本と為す」の愛なのである。輪廻を脱するために、言いかえるなら、解脱のためには障碍となるような愛、釈尊自身こうした凡夫の愛を切り捨てることによって、より大きな深い愛へ近づこうとしたのかもしれない。
たとえば飢えた獣の前に我が身を投げだしたという、本生譚に語られる愛。けして自己の欲望充足のためではなく、生きとし生けるものに広く等しくそそがれる絶対平等、無差別の愛、「仏の慈悲」と名づけられたこの愛こそが、釈尊が求めた愛であったのだろう。
また善人のみならず悪人にすら往生の可能性があると説いた、その背景にある我が親鸞の「愛」も、この愛であったように思われてならない。
現成公案がしっくりくる理由は、冒頭から「仏道をならうというは」と核心にせまり、言わずと知れた「自己を忘れるなり」ですからね。 私に信じるということを問うに足る素晴らしい言葉だからですね。
結論として、「おだいっさん」と「現成公案」は、私自身の在り方を問わせ現実社会の行為そのものに反映させる道標だから同じこと。 さらに加えて、直哉さんの言葉は物事の本質や根源をよりいっそう客観的に提示し興味を覚えさせ続けるのだから、リアルな世界のリアルな現成公案そのものですね。
長々とくだらないことを記しましたが、私の投稿に何かを言うのであれば、HNは記していただきたいね。
客観性を保ちながら、お互いに認めあう努力をする、ということは美しいことだ、と思います。
信じることができるはてなさんはきっと、私よりは幸せに、気楽に過ごせるのではないかな、と思います。とは言え、私は道元禅師の思想を知ることができたことを素晴らしいことだ、と思っているのですが。
今年になって、おだいっさんという言葉が浮かぶだけで優しさに抱かれるような心境になり「してはならないこととしなければならないこと」が明確に意識できるようになりました。 要するに在り方を明確に示されるという事態にまでなっておりますね。
現成公案がしっくりくるだけのことであって、それ以外興味を覚えることはありませんので分かろうともしていないと思いますね。
空腹から空頭へ
本当に<空腹>になってから何かを食べれば
ほとんど何でも美味しく感じやすくなっている。
それでもそう感じないほど
本当にまずい食物はたしかに存在するが
<空腹>でなければそれは分からない。
頭と知識の関係もほとんど同じである。
われわれはつねに美味しい知識を食べ過ぎている。
<空腹>と<空頭>とを同時的に連動させて学習すると
物事の相互関係がもっとも効果的に理解できる。
人類の圧倒的な時間は
意図に反して
<空腹>と<空頭>に費やされてきたからだ。
2013年12月28日
直観について
直観的に理解できる能力は
専門分化できないが
その能力がなくても専門家になれる教育が
生き残っているかぎり
数学者がシナジェティクスを理解するよりも
こどもがシナジェティクスモデルを作るほうが簡単だ。
結婚し生まれた子供を我が子だと極自然に思っている父親が圧倒的大多数でしょうが、そう思っていても現実は違うぞということがあります。
それはそれとして、日常の様々な行為を信じて疑わないことの多いこと多いこと! でもね、それだからこそ社会が社会として成り立っているのですよね。
20数年前、私自身の行為をビデオに残し早送りでそれを観れば・・・? なんて、馬鹿げたことを一瞬思いましたが、今の私には「現成公案」があるからね。
今回のテーマは「信じる」困難ですが、私にすれば「疑う」困難の方がピンとき易いですね。 何れにしてもね、何時もながら、おもしろいことを言われますね。
正確にいうと、「専門家」の考えや道筋をある程度理解することにより、むやみやたらと「疑う」ことが格段に減り、「信じてもよい対象」を絞り込むことができます。
(もちろんどの「専門家」に委ねるかを選ぶかまでには、判別可能な程度に、自分自身も学ぶ必要がありますが)
具体的に例えるならば、「重力」のように日常的に当たり前のように実感しているものを、とことん疑い出したら、身の置き所も無い程に苦しくなるかと思われます。
それでも、「重力」について深く考え、深く悩んでいる物理学者等(専門家)の存在を知ることがあれば、
「こういう苦しみは自分だけでは無い、自分よりもっと深度のある人達がいる、"非常に苦しくなったら"、その人達の試行錯誤を後追いで学ぶことができる」
という、心の奥底からどっと湧きだすような安堵感を抱くことが出来るのではないかと思われます。
(これは極めて個人的な経験に基づいた「例え」であります・笑)
私はこういうことからも、「専門家」には深い敬意を抱いてしまいます。
追伸:
ふと考えたのですが、凡人よりも深く考えたり、悩んだり、試行錯誤していない「専門家」というのは、「自称」を除き、原理的にありえるのでしょうか。
あなたの考え方は、道元禅師の思想とはかけ離れている、と思います。
喧騒を離れて静かに黙とうするのが良いですね。
一つの解決方法は、考えすぎないで行為を正しく行うことに専念。禅では行為自体を目的化することですね。理屈をこねても脱出できませんから、師の警策を励ましと思い素直に受け入れることです
『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammā-anattā ????? ????? ??????)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。
・大乗仏教
大乗仏教では自性(法がそれ自身で独立に存在する実体であること)を否定し無自性を鮮明にした。そして空であることを徹底し、その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。
このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。
(wikipedia)
無我とは法の事ですか?
ならば、無我になる自己を信じてはいけませんか?
>物事を理解する時、理解する側は何なんでしょうか?
理解するのは、自己でしょうね。人間が完璧に自己を失うことは、死なないと不可能です。
ただ、自己の意識は様々な外的要因等から成立するものであり、固定されたものではないですし、また、固定された「強烈な自己の自覚」は望ましいものではない、というのが仏教の考え方なのでしょう。だから、無我を目指すわけです。
理解しようとすること、真実に近づいた、と感じることは良いことなのですが、どんなに素晴らしい状態でもあくまで「いまここ」での自分の個人的な感覚に過ぎません。それは絶対的なものには永久に成り得ない、と意識しながら生きるのは楽なことではありませんが、そうでなければ客観性を保つことは出来ません。ちょっとハードですが、それが仏教徒の生き方なのではないでしょうか。
信仰とか悟りとか!この人生を迷わせる物事が、横行してますが…
ニュアンスが違うかもしれませんが、信じることは賭けること、つまりギャンブルである、と。
ギャンブルで「生きる」に賭けた際、そのゲームの負けは「生きて失敗だった」と自覚することでしょう。しかしなお、「生きる」を信じることができれば、失敗にならないといったところでしょうか。これは、詐欺師に幸せになれる水晶なるものを買わされてしまったが、その水晶で幸せになれると信じていて、実際に幸せを実感できている、という例え話に通ずるところがあります(私が即席で作った例え話ですが・・)。
ただ、仏教的な「信じる」は、水晶の例ならば、詐欺師から買ったことを知っていて、その水晶の効力も疑わしい、けれど信じる。といったところでしょうか。
この信じる難しさ、苦しさに対処するために、神が仮定されたのでしょうかね・・。
よろしくお願いします。
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
私の尺度を持って、あらゆる物事(万法)について「ああだ、こうだ」いうのは迷い。あらゆる物事がみずからすすんで、私を生かせてくれ ているという気づきが悟り……かなりフリーですが、意訳すれば、そういうことになると思います。この言葉に続いて、道元禅師は付け加えています。
迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
仏といわれる、あらゆる目覚めた人たちは、自らの迷いにこそ目覚めた。迷える衆生は、彼らが追い求めている悟りについてこそ大いに迷っ ているのだ……私は、そういうふうに解釈しています。ここで大事なことは、仏は迷いの世界からきれいさっぱりおさらばをしているのではないということで す。迷いに気づいてこそ、ブッダと言えます。
でもまあいいや。
南さんのように、どうかしてる方がそうして生きてらっしゃることが、大げさに言えば救いです。
(世の多くのお坊さんは、なぜあんなにナイーブに信じている風なのでしょうか)
釈尊もそうとう疑り深いと思いますが、疑わざるをえない性分の人間が自暴自棄にならずに生きていける証左として、南さんが大好きです。
道元禅師、苦笑してるわ。
↓
何と読んでもいいとしてもだ、「正法眼科蔵」ではない。
これは、正法眼蔵を変換しようとして、「眼科」と「蔵」を入力して「科」を削除し忘れたのだろう。
「しょうぼうげんぞう」と入力して「正法眼蔵」が出てこないPCなど捨てちまいな。
いわゆる縁起、無自性、空!
縁起を我々は、空性であるというのであると龍樹がいっています。
また、依存しないでしょうじたものなぞなにもないのであるともいっています。
苦しみも真理なのですね。
ありがとうございます。
苦しみを滅するために修行をするのですね。
その方のご指摘ではないですが、授業態度(ロールプレイング)など見て、やはりまだ私は余裕がなく、必死な感じがあると言われました(他人と関わるの苦手でしょとも)。自覚はしています。少しでも楽に、自由になれるとも言われました。医療機関もよければ、と紹介されました。この苦しさは仕方ないと、実践しかないと思ってたんですけど、重荷が減るのであれば、受けようかと検討しています。
とはいっても、だいぶ人間らしくはなってきたとは思うのですけれどね。しかし、まだそのようには見られていないようですね。
開祖である釈迦は、「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」という、「煩悩」と「苦」の認知的・心理的な因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教・大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになった。
>では何故無意味なら修行などするのでしょうか?
皆、悟りを得るために修行するのでは?
仏教にふれ始めた人がよく持つ疑問ですが、まず、知らなければならないことは、「悟りを得るため」に修業をしても、悟ることはできない、という事実です。全てに意味などない、ということを本質的に感じることが出来た時、いわゆる悟り、と称するものを得ることが出来るのかもしれません。
>よりよく生きて行くためだったら縁起など知らなくてもいいのでは?
より良く生きる、と一言で言っても、それは様々な状況が考えられます。あなたがより良く生きるために縁起は必要ない、と思うのなら、必要ないのでしょう。
逆に私は、縁起によって成立している世界をイメージすることが、人生に取り組む上でプラスになるので、利用している、といった感じです。
>仏教は今ここで幸福になる教えと聞きました。
誰が?ですか?
それを必要としている、全ての人にとって、です。世界全体で考えると、そうでない人の方が圧倒的に多数です。多分あなたも、異なった思想の方が、向いている、と思います。
比較について
比較から新たな解決策は生まれない。
淀んだ自己満足と競争意識は
他者との比較の歴史である。
もっとも効果的な学習方法は
その自己放棄から始まる。
負け惜しみを書くんじゃなくて
もっとうまい返しをお願いします
では何故無意味なら修行などするのでしょうか?
皆、悟りを得るために修行するのでは?
よりよく生きて行くためだったら縁起など知らなくてもいいのでは?
仏教は今ここで幸福になる教えと聞きました。
誰が?ですか?
確かに、あなたに準備が出来てない、ということでしょう。まあ、最近は一生そのままでも生きていける環境も揃っています。責任さえ背負っていければ、すべてあなた次第なのです。
縁起は、例えば数式などのような法則であり、考え方に過ぎません。それを観測するのが誰なのか、と論じること自体、無意味なことだと思います。
より良く生きる上で、使い安い、と思うのならば利用していけばよい、と考えています。
人の意識には限界があります。宇宙の全てを把握できる人など存在しません。何かしら、自分にしっくりくるルールを持つことが、生きるためのテクニックといえるでしょう。
『ある存在や考えをそのまま受容する』
おそらく、何かを「感じる」といった身体感覚が先にあり、その身体感覚に「解釈」を加えていくことにより、「受容」や「信じる」ことを促していることもあるのではないかと思われます。
スピリチュアルな感覚に乏しい私であっても、登山の際には時折、敬虔な気持ちになるのを促すような身体感覚を経験することがあります。
その身体感覚は、まったく上手く言い表せないのですが、「何か」を極めて身近に感じることに近いようにも思われます。
その「何か」は、心の奥底にある自分のような気もしますし、超越的存在のような気にもなります。
このような身体感覚を受けている時に、「ブロッケン現象」などを見てしまったら、「神仏を見た」という解釈を加えてしまいたくなる気持ちになることは、とても良くわかります。
山岳信仰などは、恐らくこのような身体感覚をもとにしているのではないかと、私は思っております。
誰も、読んだとか読んでないとか書いてないよ。
言葉の解らない人が正法眼蔵読んで理解しているとは思えない。
その人が「一回読んで見てね!」ってどういうことなんだろう。
あっ、これが禅問答ってやつでしょうか?
どこの出版社だ?誰が訳したんだ?
その縁起を観察してる人?心?は何のですか?
自我なのでしょうか?
なさそうだよね。一回読んでみてね!
そのとおり
丁半博打の壺の中の目がどっちか
壺を開けるまで分からない
けど、お金が欲しいから賭ける
現世利益が欲しいから神を信じる
同じだね
・正法眼蔵欲しいさん
あのー、お寺からもらってもお寺はお布施で用意するんだから・・・自分で購入してもお寺からもらっても結局は同じことだと思うんですがね
仏教では人は「縁起」によって生かされている、と考えます。縁起とは、この世界のあらゆる存在や現象は、あたかも縦糸・横糸が複雑に絡み合うようにして成立し、そこに時間という要素も加わった複雑な条件によって成立している、という考え方です。
私が存在しているのも縁起によるものであり、その無数の条件の一つでも変化すれば、全体の変化につながり、それは私の肉体的存在や精神的作用といえども例外ではないということになります。
したがって仏教的な考え方では、私という存在も「自分独りの力で生きている」のではなく「無数の条件のもとに生かされている」と考えることになり、実体が私自身のみにある訳ではない、ということになります。
言い方を変えれば、「私が誰であるか、ということには、何の意味もない」とも言えるでしょう。
意味がなくとも、縁起によって私は存在しています。生きる上で意味が必要であれば、自分で組み立てるしか、ありません。
しかし、座禅などで自分をフラットにした時、自分の意思からではなく、やるべきことを示めされるかのように、方向性が閃くこともあります。その方法は個人で異なるかと思いますが、なにかしら自分をフラットにする方法を実践することも、意味を見つけることにつながるでしょう。
檀家ってショウボウゲンゾウを欲しがっているのか?
欲しがっていなくても、配付すれば院代上記を言ってもいいのか?⇒ここは院代のブログなんだから何を言ってもいいのだよ。
それともショウボウゲンゾウを欲しがっているのはお前さんか?
送ってやるからここに氏名住所を書いてみな。
>祖師すら知らない梅花講はどうすんだ!『正法眼蔵』を読まない代わり金銭納めれば良しとするか?達磨をただ真似て去って行くか?
一体どういう文脈で言っているのかな?それとも逝っちゃってる?(笑)
>たかくくってねえで、どう考えているのか、応えろ!
たかをくくる?「見くびることby広辞苑」
分かって使ってね。
元来、神仏混合で発展した日本の仏教の中で、インド仏教の原点に立ち戻ろうとして研究を重ねた道元禅師は、どっちかといえば特殊なのかもしれませんね。
かと言って、やはり道元禅師も日本人。その感性は決して釈尊と全く同じ、というわけではないでしょう。(お育ちが良いところとか、発想が近くなる共通点は多いでしょうが。)意識しないうちに本来、自分の内面にある感覚と融けあい、道元禅師独特に味付けされた、私たちにとってしっくりくる思想を構築してくださったのです。それは、なんやかんや言っても、禅を発端とする今の日本の文化における思想的な基盤の一つになっていることは確か、と言えると思います。
極東である日本は、世界中の文化の終着点といえるのかもしれません。全てが集まり、そしてそれを咀嚼し、よりクオリティを高める。精神的な壁をつくらず、物理的にも思想的にも、変化を続けていく。よく西洋人から「日本人は神秘的だ」と言われますが、そんなところが理由なのかな、と思います。
厩戸皇子(うまやどのみこ)生誕の下りがイエス・キリストの生誕伝承と余りにも似ている所から、「日本書紀」が西洋からの伝聞を借用して「創造された人物」との指摘もある
以前、私の家にホームステイをしたアイルランド人と、日本人の宗教観を話す機会がありました。その際、人間や動物だけでなく、植物や鉱物にも心があるように感じることや、大切に使っている物(楽器や道具など)も心を持っているように感じる人も多いこと、などを話した時、「なぜ、そのように思うのか?」と聞かれ、「そのように感じるから。」としか、答えようがありませんでした。
日常と非日常が混在しているのが、私たちの毎日です。どこからどこまでが、神秘性を帯びているかも、区別がつかない程なのが、当たり前なのです。
日本人は日常の中で形式をつくらず、意識しないうちに精神性を融けこませて生きているのかもしれません。今の日本は釈尊の理想に、意外にも近い状態なのかもしれないな、と思ったりします。
インド出身男性より
東北、日本海側は雪が強いようです。年末の慌ただしい頃、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
祖師すら知らない梅花講はどうすんだ!『正法眼蔵』を読まない代わり金銭納めれば良しとするか?達磨をただ真似て去って行くか?
たかくくってねえで、どう考えているのか、応えろ!