仏教を語るときに最大の困難は、一番大事なことがまるでわからないことです。
まず、ゴータマ・ブッダがまさに「悟った」時、彼に何が起こっていたのか、全然わからない。それについて、語っていない。彼が話しているのは、「悟り」の前と後のことだけです。
さらに、「ニルヴァーナ」についても、それが何であるのか、わからない。たとえば、「生存が尽きて二度と生まれ変わらない」と言われても、それがどういう「状態」なのか、まったく知りようがありません。
しかし、仏教者である以上は、この二つが「わからない」ではすみません。すると、どうするのか。「わかったかのように」語るしかないでしょう。
「オレはわかる」と言い出す者が出てきても、彼が「わかったこと」がブッダの「悟り」や「ニルヴァーナ」と「同じ」であることは原理的に証明できませんから、「わかったふり」をしていることと区別できません。
結果、「悟り」や「ニルヴァーナ」については、「わかったような」言説が際限なく積み重なり、どれが「本物」かは、言説そのものではなく、その言説を成り立たせるシステムがどの程度支持されるかで決まるほかありません。つまり、そうして決まった「本物」は、「悟り」とも「ニルヴァーナ」とも無関係なのです。
この事情は仏教に限りません。「絶対の真理」「万物の根源」「絶対神」みたいなものを語る場合は、すべて同じことです。もし人間にそれらが「わかった」とすれば、それは「絶対」の話でも「万物」のことでもないでしょう。
ということは、何を語ろうと、仏教にしろ他の言説にしろ、一番肝心なことに言葉は届かないわけですから、次のアイデアは、肝心なことに届くと想定される、言語以外の方法に賭けることです(坐禅、念仏、祈祷、儀式等々)。それさえ届くかどうかは誰にもわかりません。わからなくても、その方法を実行してみる。
ということは、このとき使用される「方法」は「方法」ではなくなります。「方法」と言う以上は、「使用目的」に規定されて初めて「方法」でしょう。ところが、「わからない」ことを目的にはできませんから、そのために用いられる「方法」は「方法」ではありえません。それはつまり、「目的」-「方法」関係を脱落して、「ただ行う」ことになります。
仮にこのあたりの事情を明晰に自覚してなお「ただ行う」と言うなら、それは我々の「現実」を構成する意味連関から外れることになるでしょうから、非意味的行為として「超越的」でしょう。
「只管打坐」について「超越性」を語ろうするなら、そういうことであろうと私は考えます。
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「その『超越性』をもう少し言うと?」
「自意識解体的、あるいは言語解体的で在り続ける、ということですね。私にとっては、『超越』という語にそれ以外の意味はありません」
「つまらない話ですね」
「当たり前でしょ。坐禅が面白いとでも?」
ただ「超越」という言葉は非常に近代的なもののように思えます。「目的」「方法」という枠組みも。
わたしたちは、西洋近代的な思考方法を身につけてしまっているので、論理的に語り、そして論理的にそれを聞く場合に、致し方ないのかもしれませんが、南さんの文章には、いつも西洋哲学的な影をみます。
もし座禅に超越、飛び越えるものがある、のなら、それは、目的と方法の枠組みなのでしょうか。
わたしは仏教には素人なので分かりませんが、体感的にどこか違うように感じます。
「超越」は「自意識解体的・言語解体的」であると言った場合、つまり「主体」を解体するいうことでしょうか。
それなら分かります。
おそらく、合理主義とは別次元にあるもの、ということを、合理的な理論によって、おっしゃりたいのではないかと思います。
以前の、霊魂あるない、の話も。
すみません。
わたし、絶対にここにコメントはするまい、と思っていました。ついうっかりコメントしてしまったので削除しようとしたら消せないので、補足します。軽薄な反応をしました。
お返事遅くなりました。そして返信ありがとう。
南和尚様、皆さま、この場をお借ししていただけることに感謝しています。ありがとうございます。
調子は戻りましたか?
鬱で沈没、頭も体も重くて動かない感じ、眠れないけど寝てるだけ、私もしょっちゅうです。
なんか、もうこれはしょうがない感じですよね(苦笑)
持病(?)みたいな感じでうまくやり過ごすしかないんだけれど。でも、でも、分かっちゃいるけど、辛い、苦しい、恨めしい(笑)
ちゃんと眠れてますか?(わりと投稿時間が深夜の時間帯なので)最近、暑くて寝苦しいですよね。
寝具を整えて(そういえば、もうタオルケットの季節ですね。)考えてしまうこと、考えてもしかたのないこと、そういった思考を放棄して安心するような、やさしいイメージを脳内に描くといいのかな。
身体と精神は表裏一体です。ご自身を大事になさってくださいね。
余談ですが、私は精神疾患関連の本が好きで、ちょこちょこ読んでます。それで自分の状態をできるだけ客観的に描写してみると脳内にストレス源(過去の嫌な記憶、ネガティブな認知)があってストレスを自己生産している感じなんです。
だから常に世界が灰色にみえてしまう。もっと危なくなると世界と自分が分離してしまう。
常に脳内がストレス許容量ぎりぎりな感じで、少しの負荷やプレッシャーで激落ちしてしまう、
このネガティブに偏った思考や認知の回路を切断もしくは緩和できないかなぁと思ってるんですけど難しい。。
人が脳内細胞が見せる夢の中でしか生きられないのなら、せめて、あまり苦しくない夢が見たいですよね。
仏教談義、とても面白かったです、ありがとうございます。ご謙遜、とんでもないです。
苦しい人さまの仏教解釈は自分というもの(主体性)を中心に据え、そこから世界を構築するような印象を受けました。
視点を自己(世界の中心)に置き、あたかも自己が光源となって世界を照らしだすようなイメージ。
人は生きるために行為目的論なあり方をして対象との関係を作り出す。
しかし人は言葉によって自己と対象との関係性を固定化(「物象化)させてしまう
言葉(対象に投げかける人の期待)というもので人は自分の世界に閉じこめられるなら、
「空」(行為において言語は人の期待を裏切り、また裏切ることをも裏切る)によって
自分の世界の限界を打ち破ることができる。
生命力を感じさせる力強い仏教観だと思います。
私、哲学書を(も?)1冊も読んだことない(大汗)のでとても興味深かった。
ウィトゲンシュタインは今年の夏に挑戦(?)しようかなと思ってるんですけど分かるかな?
無理かな。。ハードル高そう。。難しい本を読むと眉がハの字で口がヘの字になってしまいます(笑)
難しい本というのは、結局その本なかで使われている言葉が難しいんですよね。
だから最初はまるで外国語で書かれた本を読んでいるよう。仏教用語ならその仏教用語、哲学用語ならその哲学用語を自分の手持ちの言葉で、常に変換、翻訳させていかないとまるで意味が通らなくなってしまう。この翻訳の過程で生まれる、元の言葉との距離や変化が解釈の生まれる余地になると思います。だから、同じ本を10人の人が読めば10通りの解釈が生まれる。
ただ私はこの「解釈」を「誤読」だとは思っていないんです。「解釈」というのは、その人にとっての「意味」だと思う。それはもちろん仏教でも。
このコメント欄をご覧になったり、訪れる方もそれぞれ違った仏教観を持っていると思うんです。
その仏教観はその人にとっての意味であり、その人の立場や主張、大切にしたいものを表すもの。
それは、それぞれ尊重されるべきものだと思うんです。
例えば、今回のお題、超越
南和尚様の一見過激とすら思えるような発言、
超越、絶対、真理、神、これらは「言葉」にすぎない。こういった人の認識を超えたもの、「超越」を一見否定するかのような過激な記述の理由は
南和尚様が超越や真理を掲げる宗教が、人を支配するための道具に転じる危険性を強烈に意識しているからなのだと思います。それは南和尚様が仏教者として生きる上での自覚に結びついたもの、そして、仏教がカルトに転じないための防衛策のようなもの。でも南和尚様の言説も、もちろん、真理、絶対ではないので(笑)
あー南和尚様はこんな風に言ってるのかな~、でも自分はこう思うな~
とかでいいと思うんです。
10日ごとにお題を出し、このコメント欄で物言わぬ南和尚様は、お父様とか先生のような立ち位置なのでしょうか。南和尚様、勝手に「解釈」してしまいました。間違っていたらごめんなさい。
>一番大事なことは、人それぞれ異なっているってことでしょ?仏教的には。
何かお役に立てば幸いです。
言葉を使って斯く考えている者、花を美しいとしている者、腐ったものを汚いとしている者、私の根拠を問うている者、真実を求めている者・・・。その「はたらいているものそのもの」を「はたらいているものそのもの」が自覚するとき、いわば「はたらいているいのち」といえるものが観える。これが「大用」か?
この「はたらいているものそのもの」の次元で「はたらいているものそのもの」が観ると、宇宙の一切がいのちの光明に満たされ、宇宙の一切がいのちの光明の内に観える。
私に「はたらいているいのち」も、遊んでいる子供たちに「はたらいているいのち」も、黒人に「はたらいているいのち」も、働いている蟻やミツバチに「はたらいているいのち」も、花々や木々に「はたらいているいのち」も、流れる雲や降る雨に「はたらいているいのち」も、この地球に「はたらいているいのち」も、同じひとつの「はたらいているいのち」であると観える。
「はたらいているいのち」の内に一切を観ている・・・。
そこでは、すべてがひとつである。
この「はたらいているいのち」が自覚している「はたらいているいのち」は、意識されているときと意識されていないときを考えることは出来るが、もはや死にようがない。
そうではない。かつて在り今在りこれからも未来永劫在るものは生まれようもないし死にようもない。
これはかってな思い込みなのか。
試みに、親指を立ててこれをじっと見て、これに意識を集中し、親指のあるところに意識を集中したまま親指をさっとどけると、そこに何かが観える。それが「はたらいているいのち」である。
そはそも何者ぞ。曰く、「不識」。