恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

T氏への応答

2017年01月20日 | 日記
 あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根本的に「わからない」のだと言い続けています。

 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。

 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。

 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。

 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとして認識し得るのは、経典中に語られる釈尊の「死」だけです。私は、いわばこの「外形的事実」(「事実」の内容は一切考えない。考えても無駄だから)を、そのまま我々の実存にスライドさせてみました。

「死」は、いつか、どこかで、「それが何だか決してわからない」出来事が勃発し、今の我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうことです。現時点でこれ以上のことは言えません。

 この「死」を、欲望することもなく、解決と思うこともなく、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ「受容する」態度と行為を「涅槃」と考えたいと、私は思います。

 私が考える「死の受容」にとって重要なのは、「生き続けたい」自己と「死にたい」自己の持つ欲望を無力化することです。

 その場合、ターゲットにすべきは、「欲望」ではなく「自己」の方です。「欲望」は時と場合で転移し変化するので(「生きたい」は「死にたい」に、「死にたい」は「生きたい」に、「所有」欲と「断捨離」欲がしばしば互いに転移するように)、特定の「欲望」を消去したとしても、それは消えているのではなく別の「欲望」に転移している場合がほとんどです。ですから仏教的アイデアは、「欲望」ではなく欲望する「自己」を解体することを目指すわけです。

 では、日常的な実践としてはどうするのか。基本は二つです。

 自意識を解体する身体技法(たとえば坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。

 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。

 ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

 大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。

 この取り組みは、工夫の仕方によっては、自己をめぐる「縁」を豊かに深くするでしょう。それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になるかもしれません。これが積み重なれば、満腹の人が食事を終えるように、「死の受容」が実現する可能性があると、私はいま思っています。

 

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141 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
大愚元勝さんのblogから…何故か恐ろしく変な世界に迷い込んでしまった…。 (eizin.k)
2017-02-16 03:31:36
関連記事を読みあさってたら
ここのコメント欄を目にしてって

ビックリマーク❗

こんな人たちがこの世に存在していたのか仏教の教えを語り合ってるのは分かるが…。学者さんの集まりなのか?話が固すぎて着いていけない。分かりやすく解いたはずの釈尊の教えが複雑怪奇な教えにすり替えられ勝手な解釈に尾ひれが着いて訳の分からない魑魅魍魎の世界になってしまってるとしか思えず…。読んでいて吐き気さえ覚えたのでひと言でも言わないと気が収まらないので…。たぬきさん大変なとこに来ちゃいましたね🎵前向きな、あなたの来るところじゃ無いですよ🎵時間と労力の無駄ですよ🎵あまり関わると人間性まで失われかねませんよ❗
こんなにいかれた宗教者か哲学者か何か分かりませんが怪しいし集団には近寄らないようにしたほうが良いですよ❗本当の意味でのここは恐山ですね(^^;🎵宗教は人を幸せにするための教えなのにここは真逆のことを教えてますね🎵言葉は丁寧ですが心は冷えきった方ばかりの様です🎵無礼を承知で書き込みました🎵が一般人の率直な意見ですので仏法者なら謙虚に受け止めて下さいね🎵それでは失礼します🎵🙇
返信する
禅の目的がわからない。 (Unknown)
2017-02-05 16:47:22
マインドフルネスでよく言われてるのが瞑想すると脳の白灰質が増える⇨扁桃体が抑制される

俺的にはこの説明だけで座禅をやる人はグッと増える気がする。多くが救われる気がする。

同じ座禅するにしても、自己を低減するという目的と扁桃体が抑制される、ある時点までは同じじゃないのかな?

全て脳が感じてることだしね。
座禅がスピリチュアリルなことではないなら
日本の禅の人達も科学ともっと結びつけて欲しい。
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Unknown (トンビ)
2017-02-05 15:20:50
見逃してしまいました…
(´д`|||)
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Unknown (Unknown)
2017-02-05 02:12:38
本日午前5時00分~
こころの時代~宗教・人生~「心はいかにして生まれるのか―脳科学と仏教の共鳴」

心とは何か―。

浅野孝雄さんは、現代脳科学の最新理論と、ブッダの心の理解とに共通性があると考えている。
独自の坐禅法を探求する禅僧・藤田一照さんと共に、心に迫る。


見逃さないように、見なくっちゃ!
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Unknown (たぬき)
2017-02-04 08:49:44
一生懸命 書いたさ

あなたのことをね。

荒らし? 俺から 先行して非難したことはないけどね、批判したことはあってもね。あなたがたにふさわしい応答をしているだけだよ。

答えてくれよ。 ひかげ臭ってどういう意味か。
言葉の意味は文脈で決まるんだぞ。この話の流れで 突然 洗濯物の話する奴なんかいないだろう。どうみても つまらん悪態ついてるようにしかとれんだろうが。
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なに? (Unknown)
2017-02-04 02:52:22
消されたの⁉
読み損なった(TωT)

一生懸命に書いただろうにね‼
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Unknown (Unknown)
2017-02-04 00:24:35
結局荒らして終わりかよ。
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Unknown (たぬき)
2017-02-03 22:57:57
揶揄してるつもりか?

馬鹿なのか お前
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Unknown (Unknown)
2017-02-03 21:20:07
ひかげ臭が。。
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Unknown (たぬき)
2017-02-03 08:51:48
コメントが削除されたのは 図にのるな 調子にのるな 思い上がるなよ ということでしょうね。

なんか 西遊記の孫悟空みたいだ。手のひらの上で遊ばされているだけ。

孫悟空と違って私はボンクラですけど。

もう書き込みません。 ただ私に対する批判や非難には答えるつもりでいるので ご理解ください。
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Unknown (たぬき)
2017-02-03 01:46:33
消されちった

ちょっと調子にのりすぎましたね

申し訳ありません。
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Unknown (Unknown)
2017-02-03 00:20:40
涙が出ます。
たぬきさん、有り難うございます。
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Unknown (たぬき)
2017-02-03 00:13:29
とんでもない

あなたは かけがえのない人です。あなたは世界に一人しかいない。

あなたと出会えたこと 有難いことです。

どうか ご自愛くださいね。
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Unknown (Unknown)
2017-02-02 23:59:23
目が綺麗なたぬきさんと目を合わせて絡ませたいな。
幸せだな。男とか、女とか関係なく。

たぬきさん、好きですよ。
よくぞ、その自意識を言葉にして、また、保っておられる。私だと耐えられません。

自信のないUnknown より。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-02-02 23:06:59
ルサンチマン

ニヒリズム 太宰、等

階段を下りているのか上っているのか、どちらにしても先は自死のように思う。

明るい方へ行くぞ!
他者に自己を切り開くと、自己を忘れることがある。その状態が有り難い。
他者なしでは自己から離れることは出来ないように思います。

たぬきさんに会ってみたいな。
子供みたいに、目が澄んでキラキラしていそう。

たぬきさんがおっしゃるように自信がないのでUnknown
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Unknown (たぬき)
2017-02-02 10:53:22
やっぱり 言わせていただきますがね

そのながい引用 いらないんですよ。最後の一文だけで十分なんです。

人はもがきながら云々 なんて当たり前じゃないですか。

結果 何も言ってないじゃないですか。
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Unknown (たぬき)
2017-02-02 10:15:17
おっしゃる通りです。

ありがとうございます。

考えてみたいと思います。
返信する
たぬきさんへ (Unknown)
2017-02-02 09:45:20
『夏目漱石の継承』という研究論文、第9章「虞美人草」1節「内なる構成法」で次なる文章があります。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~rjltof/new_page_2.hrm

「内からの構成法」というのは例えば松の木の成長の事だ。自らの内にある「生命」という原動力と周囲の環境という「運命的力」の二つのはざまをダイナミックに揺れ動き、一層一層積み重なってゆく事により、結果的に見事な自然の建造物になるのだ。あらかじめ計算された道筋や全体図があるわけでなく~~。

これは我々一人一人の人間自体も同じなのだ。全ての人間は全く盲目的に、手探りに、自分の人生を切り開いてゆき、その時その時の運命的な試練と闘い、悩み、苦しみ、喜びながら、自分の一回限りの生を築いてゆくのである。その結果どのような人間に出来上がるかは誰にも予測できない。まさにそれは自然と運命の手に委ねられているのである。
ーーーーーー
たぬきさん、人はもがきながら松の大樹に成っていくものなのではないでしょうか??
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-02 09:16:43
何をブツブツ言ってるんですか?

どちらかというとあなたの方が発狂してますよ

とても女性らしいコメントありがとう。あなたとのやりとりは とても楽しいですよ。
返信する
なんだろう... (hasunohana1966)
2017-02-02 08:47:17
このブログ主はなぜ、たぬきのコメを削除せず発言(発狂)させているのかをずっと考えている。
私のコメは以前消されたから、削除対象コメと残存コメとして残っている両者の関係を考えている。
その両者には何らかの類義があるはずだ。
なんだろう。
他者との関りから自我の存在の有様を気付けさせるためか?
自我は他人との関り無しでは存在できない。
これをここで共有したいのかなどあれやこれ考えるが、答えを得て納得してもらえるために考える訳ではないので、ふっと思ったことを書いてみる。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-02 02:30:24
ニーチェの「超人」についてどう思います?

ニーチェについてosho はどう評価されてました?

「言葉を超える」ってどういう意味だと思います?

わたしに対して何か 意見があるなら名前をつけろと言ったの読んでないのですか?

自信がないのですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-02-02 02:06:36
たぬきさんの中にある自己と私が融合するおしえがあるとたぬきさんは納得する。

なにかあるかな。

たぬきさんがおっしゃるように、ここにはなさそうですね。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-02 01:44:20
それがなにか?
返信する
Unknown (キツネ)
2017-02-02 01:38:17
たぬきさんって、新参者?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-02 01:21:17
批判するなら 名前つけていただけます?
誰が言ってるのか分からないので

自信がないのですか?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-02 01:14:58
新たに宗教を作るってどういうこと?

ご自分の言ってること 分かって言ってます?
返信する
Unknown (Unknown)
2017-02-02 01:11:28
たぬきさん、
通力はいかがですか?自己の死苦の対する救いがあるかも?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-02 00:56:15
わたしはあなたに興味ないよ
返信する
Unknown (Unknown)
2017-02-02 00:35:57
私はたぬきさんに興味があります。

たぬきさんが楽になる教えが見つかったら報告してください。

それか

たぬきさんの理論で新たに宗教を作ってみてはいかがですか?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-01 12:02:46
「(私)と(私であること)さえ忘れた状態がある意味 一致していると言えるのであるが」

ある意味ってどういう意味?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-02-01 10:04:44
いかにも 意味ありげな 超然とした よく分からない言い回しをされますよね。 きっとナルシシストなんでしょうね。

ご自分でも分かっていらっしゃらないから、小難しい物言いでごまかすのかしら?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-31 17:14:25
…であろう …なかろう …のではあるが って一体何者ですか?

「私」と「私であること」の違い もうちっと詳細に説明願えます?
返信する
Unknown (浅野)
2017-01-31 17:10:54
他人を受け入れ、関わることで、「私」が観えてくるのではないでしょうか。
傷みや苦しみを通して、切なさや悲しみを、やさしさや思いやりに改造し、生きていくことを肯定し続けていくのではないでしょうか。
「私」と合点するものは、私はありませんでした(諦めた)。
ただ、無我や縁起などの教えは、アイデンティティではなく、方法として、目的や答えではなく、問いや生き方として、合点がいったとは感じています(南さんを知ったのは、僥倖ですよ)。
返信する
Unknown (ZIP)
2017-01-31 16:56:10
そんな大騒ぎする話しでもなかろう。
たぬきさんは「私であること」を「私」だと思っている。
「私」と「私であること」は全くもって別なことである。
この分離した状態がむしろ当たり前なのだが、彼はそのような「私」に納得できないということであり、「私」と「私であること」が一致して、初めて「私」と
いうものに納得できると言いたいのであろう。
自分を含めてそんな人物にはお目にかかったことがないが、
「私」と「私であること」さえ忘れた状態が、ある意味一致していると言えるのだが。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-31 15:53:12
前にも書いたけど、俺の無我の解釈は。。自分に関係する全ての人や物を、自分の大事な順に寄せ集めた様なもの。その中心に在ると思っていた私はなく、ドーナツの様になっている。私という物は、私以外の物で出来ているって事。
だから、自分をハッキリさせたいなら自分以外の物に光をあてるべきだ。と思ったわけ。
学者の苫米地が言ってたけど。私を説明する時、私以外の事を言っている。って。
親や出身地や出身校や会社名って感じで。

大事な順の配列は、無限にあるでしょう。何せ全てが対象だから。遺伝子と同じような感じだね。俺だけの並べ方。
何も知らない貴方も、俺のどこかに並べられている事でしょう。俺も皆に並べられている。配列は違えど、私は私以外の材料を皆と共有しているのよ。
だから、人生一筋縄ではいかないね。この世に俺だけの物がないんだもの。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-31 15:06:58
善人ぶった芝居? あなたが勝手にそう思っただけですよ。わたしは芝居したつもりはないんでね。ただわたしはあなたよりも正直なだけですよ。

コメントするのが恥ずかしくて気が引けるのであれば しなくていいですよ。

南直哉さんを馬鹿呼ばわり?いつ馬鹿にしたんです?南さんを馬鹿にしたことなど一度もないですよ。味方が欲しいのですか?そういうのを捏造と世間ではいうのですよ。

自負心をお持ちでおられる?断定ですか。都合よく話を捻じ曲げ 自分の側に話を引きつけ その上で屁のような理屈でもっての非難をなさるのですか?

私とトランプが似ていると思うのは あなたの勝手だが 似ているだけでもってそれを混同するのは呪術ですよ。 宗教とは対極にあるものでしょう。あなたはご自分が何を喋っているのかも理解されていないようだ。きっと万年トランス状態でいらっしゃるのでしょう。

自分の思いだけが本物だと思っている? 私はずっと分からないといってきたはずだ。 「この引きずられるような 堪え難い人生 この(私)という(個)とはなにか その意味はなんなのか」 「無限の善きものを知りたいと思うなら 底のない愚かさということも同時に知らねばならないはずだ」と問うたんだ。

それに対し 帰ってくる答えは「(私)はない (私)はない」と 馬鹿の一つ覚えのように繰り返すばかり。私がそんなこと知らないとでも思ったのか。 誰でも知っていることだろう。 その上で (個)とはなにか と問うたんだ。


他人との深い関わりを持たなかったようですが ですって? あなた 私の何を知ってんだ? あなたの方こそ わたし程度の人間も理解できないほどの関わりしか持たなかったに違いない。

自分の本名を隠しておいて?あんたもそうでしょうが。

自分を正当化する?自分が正しいといったことは一度もないですよ。つまらないものはつまらないといったまでですよ。わたしのいったことを何一つ理解されないで 全てを曲解して 己の無理解を恥ずかしげもなく披露されるとは 見事な芸をお持ちですね。

あなたが何を言おうとわたしが否定する? そうみえますか?そんなことはないです。誤解ですよ。
返信する
たぬきへ (hasunohana1966)
2017-01-31 13:03:02
私はあなたのいう、何も理解していない枠の一人です。
なんていうか、私もあなたの善人ぶった芝居に踊らされたから、恥ずかしくてコメ入れるのも気が引けますが。(私が何を言おうとあなたは否定し、自分を正当化するでしょう)
あなたは今、私達(コメした者や南師)を馬鹿呼ばわりして、自分のやったことに自負心をお持ちでおられる。
あなたの仮面を外してからのコメは、どこかトランプ氏を思い出させる面があると今気づきました。
あなたは自分だけの思いが、生きていて本物だと思っている。
それはそれで人が生きる上で自分を存属させるために必要でしょう。
他人と心の深い関りがなかったようですが、自分の本名を隠しておいていくら本当の自分の偉さを叫んでも矛盾は隠せません。
そんなに自分が正しいのであれば、本当の自分をさらけ出して正々堂々にいうのはどうでしょう?
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-31 11:38:58
座ればいいというものではない。

南直哉さんは 座禅によって自他の分離の感覚がなくなったといわれたが、それ以上は分からないと正直に告白されたろう。

与えられたこと 教えられたことを有難く消化するだけでは人間は家畜だろう。 どこまでも高くあろうと欲するならば、どこまでも深くあらねばならないんだ。

容易に想像できる あなたがたのその たるんだ ふやけた顔が垂れ流す噴飯ものの事柄はどれも 訳知り顔のクソリアリティでしかない。

もし あなたがたに悟りがあったとしても その程度の悟りに私は師事したいとは思わない。

ここで学んだことなど何一つなかったが、それでも教えられたことがあるだろうか。あるとすれば「凡庸さ」といものであるに違いない。

馬鹿は馬鹿の自覚がないから馬鹿だといわれるに違いない。「私は何も知らない」と謙虚な正直な自覚のある人は それは優れた人だろう。「無知の知」「知らざるを知れ」という言葉も知らんのか お前らは。

それとも「知っているけれども自分は例外」と一般に対する個別的例外を装うのか。それこそ馬鹿の証明だろうよ。

せいぜい あなたがたは南直哉さんの周りをチョロチョロとうろついているがいいよ。 きっとあなたがたは何も理解できない。あなたがたの言葉は空っぽで生命がこもっていない。それはあなたがたが何も理解していないからだよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-31 06:50:13
たぬきさんは、坐ったことがないんだろうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-31 06:34:44
旧正月。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-31 01:12:59
結論のない問題。
耐えれるか。

実生活を改めてみてはいかがか。
改めることに救いあり、
そして縁起、他者に対して自己を切り開く。

それ以外にはない。

神などない。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-30 13:37:40
結論をいわれるばかりで それでなにか言ったつもりでしょうか?

「(私)を捨てれば救われる」 「(私)を捨てれば悟りがある」 そんなことは誰でも知っていることです。

あなたがたは 熱くもなければ冷たくもない。あなたがたはぬるい。あなたがたは真剣ではない。

天地人間の真面目を知ろうと思うのならば 途方もなく この上なく 正直でなければならないはずです。

自分に対して 正直であろうとするならば 誠実であろうとするならば そんなに軽々と 結論を持ちだすことなどできようはずがない。

あなたがたは ただ小難しげに 御大層に 小賢しげに 牛の涎のように 他人の言葉を 垂れ流し 自分を誇示したいだけだろう。

さようなら
返信する
(私)にしがみつく。しかし、釈尊の仏教は、その(私)こそ、捨てろと、教える。そこに真の救いがあると。 (イエスちゃん)
2017-01-30 13:12:53
『キリスト教で「神のひとり子」といわれるように
無限の大生命は (私)という(個)と共にあり (私)に寄り添い (私)のために悲しみ (私)のために怒り (私)のために喜ぶ』

キリスト教でも、究極は、
「神の前で、(私)を捨て去る」ことで、救われます。


返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-30 09:07:54
皆さん 新しい方に行ってしまいましたね。

結局 達観したような結論からの一方的なお話ばかりが多く 正直 役にたつような、これぞというような見解というものはありませんでした。

他人の言葉を そのまま垂れ流すことになんの意味があるでしょうか。自分の力で真剣に向き合うことがないために、自分の言葉というものを持てないのではありませんか?

みじかい間でしたが わたしと遊んでいただき ありがとうございました。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-30 06:47:09
おっしゃる通りかもしれません。

けれども それでも やっぱり わたしはこの(私)という(個)こそ 分離されざる大生命の目的であり完成であると思いたいのです。

キリスト教で「神のひとり子」といわれるように 無限の大生命は (私)という(個)と共にあり (私)に寄り添い (私)のために悲しみ (私)のために怒り (私)のために喜ぶ

そう思いたいのです。
返信する
追加(たぬきさんへ) (Unknown)
2017-01-30 04:46:56
但し、人の心は、1割の論理(左脳)と9割の感情(右脳)から出来上がっており、

どんな論理的な人でも、
自分が意思決定をする時には「感情」(=右脳)にから出て来る・・という事の様です。

右脳は「影の支配者」という処でしょうか・・・

返信する
訂正 (Unknown)
2017-01-30 04:24:47
或る特殊は身体操作・・・・>
或る特殊な身体操作
返信する
たぬきさんへ (Unknown)
2017-01-30 03:29:21
左脳と右脳が同じ力関係で地球上の人間の中で存在しているのではありません。

人は地球上で生命体を保持して行かねばならないので、左脳の言語の機能・ロゴスの機能が優先しなければ人間として正常に生きていけない様に運命付けられているからです(猫は違いますが・・)。

これは、左脳の「論理(ロゴス・言語世界)の優先性」がなければ、社会共同体一員として生きていけない事を意味します。其れが「私」を「私」足るべく、他者から「私」を識別するという事です。

しかし左脳の「私」という(意識の)境界線の外側には、「自分の壁」を超えた世界が有りそれを右脳が示して呉れている・・・
それはいわば潜在意識の世界を構成している。通常は表面に出て来る事はない(なにせ無意識の世界なんですから・・・)。

でも坐禅等をして、左脳の言語・ロゴスの活動を「或る特殊は身体操作」で抑え込めば、自ずから右脳世界が見えて来る。

それが左脳と右脳の力関係な訳です。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-30 01:36:52
わたしは 一体化ということが言いたいのではありません。 むしろ左脳と右脳が同じ大きさで与えられているということがいいたいのです(例外があるのかもしれませんが)

(個)は分離されざる(全体)よりも大きくもなければ 小さくもない 同じだけ意義のあるものだと思いたいのです。

(個)の自覚とはなんでしょうか 錯覚でしょうか ただの勘違いでしょうか わたしにはそうは思えないのです。
返信する
訂正 (Unknown)
2017-01-30 00:42:10
全体間・・・>全体観
返信する
たぬきさんへ (Unknown)
2017-01-30 00:41:15
左脳の「私・自己・自我」識別機能と
右脳の「全体間、宇宙観」容認機能は
全く異次元の世界観であり、
たぬきさんが望むような形で一致するなんてことは在り得ない。
たぬきさん的に言えば、左脳と右脳が一体化せよと言ってるみたいなもの・・・
それでは左脳・右脳が分かれて存在する意味がない。
人間の生命現象が成り立たなくなる。
返信する
訂正&補足 (Unknown)
2017-01-30 00:26:33
自分にあたえられて時間が・・・・>
自分にあたえられた時間が・・・・

「その境目の時」の言葉の明確化。
=「死」の瞬間が次の二つの状態の分岐点という意味。
A.この地球上で生命活動を続けている。
B.宇宙にガス状に蒸発して①霧散するか、乃至は②ガスの塊状を恒久的に固執する

さあ皆さん、後はみずから御覧じろ!!
返信する
死の定義 (Unknown)
2017-01-30 00:12:39
無神論者に取っては、
時間が永遠的に止まる事、自分に与えられて時間が無(絶対無)となって、私を構成している生命活動が無くなり、個体が無くなり、肉体が分解してバラバラの微粒子となって宇宙へ飛び散って行く事。

有神論者に取っては、
体から抜け出した魂がガス状塊として宇宙に漂い、其のガスの塊が君の過去の記憶を保持し、現在の状態を認識し、将来誰かの肉体に入り込む、その境目の事。
但し、誰かの肉体とは自発的には決められない。前世の「私なるもの」の素行が問われる・・・

まあそんな具合だから、
南師としては「死」の中身は分からないと言った!!
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-29 20:33:29
ジル ボルト テイラーさんの「奇跡の脳」の動画 はじめて観ました。とても興味深いものでした。

けれども、テイラーさんご自身の経験が どれだけ脳科学的に色付けされようとも それはわたしを勇気づけはするでしょうが それ以上ではないのです。

分離された普通の生活感覚としての自覚と 分離のない全体としての生命の自覚 それは選択の問題ではないのです(少なくともわたしにとっては)それは一致しなければならないのです。

結局 わたしは何も分からないのです。 テイラーさんも わたしも それぞれの仕方で模索しているということでしょうか。

とても素晴らしい動画で 勉強させていただきました。有難う御座いました。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-29 20:24:31
私と貴方と相模原事件の犯人との違いはなんでしょう?誰でも得られる情報の取り方次第で、人を殺せる思考になるのが私は恐ろしい。今後私がそうゆう思考になるかもしれない。
この肉体の大部分は地球由来だろう。多分貴方も。
私と貴方とあの犯人が産まれる前の名称は、地球だろう。私が死んだら無になるのでは無く、地球になるんだ。遊び終った子供が、粘土を一塊にするようにね。私が私であるという根拠の薄さに死にたくなる時がある。。たまにね。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-29 19:38:59
イエスちゃんさんのいわれる「言葉の虚構」「言語作用に縛られた自覚」 分かります。

「みる」「聴く」「食べる」「歩く」などの 言語命題というのでしょうか。その経験の また言葉の無限集合が(私)という自己を 自覚を構成するということでよろしいでしょうか。

しかし (私)という自己が 言葉による錯覚であるとしても それが理解できたとしても 依然 (私)はあるのです。

わたしはこの(私)という自己を一撃粉砕する何かを求めているのです。 あるいは (私)という(個)がそのままピタリと(全体)と一致するということの説明を求めているのです。その説明に対する客観的な是非はどうでもよいのです。わたしがその説明に納得ができればいいのです。

わたしが(私)という自己に「もういいんだよ そのままでいいんだよ 求めることは必要ない あなたが他の誰でもなく 他の何でもなく あなたであること それこそが唯一求められていることなんだよ」と説得させられなければならないのです。

(私)という自己は怖がっているのです。(私)を否定し (私)を葬り去ろうとする世界が怖いのです。(私)と(全体)との断絶を結ぶ架け橋を求めているのです。
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Unknown (Unknown)
2017-01-29 17:09:06
「死の受容」が実現する可能性がある

南さんも苦しんでおられるのですよ。
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「言語作用に縛られているという自覚」釈尊が6年目にようやく発見した。 (イエスちゃん)
2017-01-29 13:44:30
たぬきさん、それこそが重要です。(そして、それが普通です。)

『けれども その上で あえて私は思うのです。
(私)という自己が主張するのです。』


洞山良介禅師が、小僧時代に
般若心経の
「無眼・耳・鼻・舌・身・意」を教わり、
自分の顔を触り、「眼も、耳も、あるではないか」と質問しました。
そして、この問いを、ずーと追求していきました。
それが
「「無情(たとえば岩石)の説法(仏教教義)」を「聞く」ことで解決でき」ました。
または「眼で聞き、耳で見る」とも言いました。
これが「無眼・耳・…」という意味だったのです。


「言語作用に縛られているという自覚」
釈尊が6年もかかり、ようやく発見しました。
そして、
「この認識という「作用」から、逆に「自己」が「言語を用いて」虚構されていきます」

悲しい事に、この「自己」が原因・理由で、人間は「苦しみ」ます。

単語「自己」の単語「死」
を巡って、ぐるぐる考えることは、空論です。
そこからは、何も生産的なことは生まれませんから。
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スコセッシ『沈黙』 (poke)
2017-01-29 13:12:30
同じように危険宗教と見なされた一向衆(浄土真宗)。
一向衆弾圧をビジュアル化したエンターテインメント作品といえば、原作:工藤かずや・作画:池上遼一の劇画『信長』。
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Unknown (浅野)
2017-01-29 11:59:26
南さんは、著書「禅と福音」で、「私」というものがない、とも言えない、と仰っていたと思います。
「経験・言葉・物語」この総体が
「私」を主体的に維持、更新していくように思います。
しかし、それ自体には絶対的な根拠を見出せない。
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たぬきさんへの誕生祝い (ZIP)
2017-01-29 10:43:26
生まれてきた赤児が自分の運のなさに対して、最初に口にする問いである。

日常生活というものは無意識かつ非意図的に過ごされている。
人は出生を通じて社会という、もうひとつの母胎に産み出される。

世界は無意識かつ非意図的であるが故に
個人に対して意識的かつ意図的に従わせ
るように社会によって構成されている。
教育にせよ、法律にせよ、政治にせよ、
人を取り巻く環境は意図的な構造である

この母胎に適用している者が、自立した責任のある自由な個人として正常であり
かつ健常とみなされる。

一見自発的に見える態度は、外部の環境
に適用する為に社会によって施された教
育や習慣の結果であり、その入力に対する出力値は同一か、もしくは近似である。
要素として妥当であり、社会という胎内
に含まれる。

ある対象への欲求は、その対象の観念
よりも先には存在しない。
生に対する欲求は、生という観念よりも
先には存在しない。
人は生きることを経験することで欲求を生じる。

死に対する欲求は、死という観念よりも
先には存在しない。
死は経験できないので、欲求にはならない。生きることにうんざりする、生きる
ことに疲れることで、生きたくない欲求
にすり替えられる。

社会が胎児という催眠状態を課すことの目的は欲求の制約に他ならない。
生きることの目的が制約を必要とする
欲求と何らからわないということであれば、胎児として状態はこれからも続く。
それは生まれていないと同じである。

脳卒中の体験談など全くもって意味の
ない話である。

・・・・・
牛頭草を嘗めて病者を悲しむ
断菑車を機って迷方を愍れむ
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く、
死に死に死に死んで
死の終わりに瞑し。

・・・・・空海『秘蔵宝鑰』
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訂正 (Unknown)
2017-01-29 10:06:06
養老孟子・・・>養老孟司
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追加 (Unknown)
2017-01-29 10:02:08
ジル・ボルト・テーラーのユーチューブでの講演会ビデオ(18分位)は、
テキスト対訳集(日本語)も出ているようです。ネットで探して見ればわかります。
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たぬきさんへ (Unknown)
2017-01-29 09:52:06
たぬきさんはジル・ボルト・テイラー(脳科学者)の「『奇跡の脳』脳卒中体験を語る」というユーチューブ(日本語字幕🐜)をご覧になった事はあるのでしょうか??
www.youtube.com/watch?v=xGiOU_U4P1Q

それでわかるのは「私」と言うのは左脳世界でのこの世の識別機能を指しており、

対比的にいうと、右脳世界での機能が「死の受容」を指しているという事になります。養老孟子さん曰くの「自分の壁」を超えた自分=宇宙という感覚です。
自分自身の中の左右の脳が意図する異次元の世界観が人の中には同時に存在しているのです。

未だこのビデオご覧になっていないのでしたら、それを見ればあなたの世界観も変わるような気がするのですが如何でしょう。
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Unknown (たぬき)
2017-01-29 08:08:02
イエスちゃんさんのいわれる「言葉の虚構」 ごもっともだと思います。 「戯論」といわれるように 結局 どこにも辿り着かないのかもしれません。

けれども その上で あえて私は思うのです。(私)という自己が主張するのです。

「(私)を納得させてみなさい。 納得させることができないならば この場は譲らない 。(私)という自己が詰まるところ虚構であるとしても、そのようなものは本来ないといわれても それでも(私)はある。 人の孤独であること、他とは違う(私)、 (全体)と(私)という(個)。 (私)にとって(私)の苦しみ 痛み 悲しみ 怒り 喜び がそのまま世界の限界なのだ 。(私)がなければ(全体)などなんの意味もない。(私)という(個)は何故にあるのか。 (私)を否定する見解は受け入れない。 (私)の一切を肯定し (私)という(個)を徹底せよ。無限に高められた(私)という(個)が 即 (全体)と一致するということを納得させてみよ。そうでなければ(私)の否定、(死の受容)ということが どうしてできようか。 (私)の(死)が知り得ないものであるならば どうしてそれを受け容れることができるだろうか。 受け容れるということは 受け容れる当のものを知っていることを前提としなければ成り立たないではないか。(私)という(個)が何であるかいうてみなさい。(私)を納得させることができないならば この場は譲らない」 と。
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Unknown (Unknown)
2017-01-29 06:16:35
そうやね〜。
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Unknown (Unknown)
2017-01-29 04:12:27
まあ、「生きる」と言う事に自信を持てなければ「死の受容」なんて起こり様が無いよね。
坐禅で(自己についての)しっかりした精神的土台を作って、
其の上に無我と言う家を建てて、他者を受け入れるのなら無我の家はビクともしない。ちょっとやそっとの世の荒風荒波にも揺らがない。
・・・というスケールの大きなビジョンが必要という事かな。
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Unknown (Unknown)
2017-01-29 02:04:52
今回、たぬきさんの疑問に対して、新参者とか無関係に、真摯に意見を述べるコメント集団、

ああ…、私のサンスカーラの深さを思い知らされました。
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Unknown (Unknown)
2017-01-29 01:17:25
> 仏教ってさ、死の擬似体験というか死の練習というか人外的行為というか。そうゆう所ない?

私、まさにそれです。座禅にしても、死の練習をしているみたいで、寝ようとしても、このまま死ぬかも、みたいになって。
一人でいる自己の扱いに困ります。

多数の中にいる自己は解放的で楽しいけれど。

結局、仏教は無自性とか、諸行無常、空、等を説きながらも自己に執着しているな、っていう。
しかし、一方、阿弥陀仏は自己に関わりなく、全て助けて下さる、うーん、大乗仏教様々深くて有り難い。
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Unknown (Unknown)
2017-01-29 00:43:33
イエスちゃんさんへ

毎回有り難くコメントを拝読しています。

> 竜樹菩薩は、
「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)で、
この言葉の虚構を、完璧に超えた。

中村元「龍樹」を読むことでその理解のとっかかりになりますか?
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たぬきさんへ『死の受容』 (Unknown)
2017-01-28 23:38:17
南師は涅槃とは何か?という問に対して
、それは『死の受容』の事であろう、という答え(南流定義)を示したに過ぎなません。

ならば涅槃に至った修行者のみが達しえる境地と言っている訳であり、

涅槃に至れていない我々には「死の受容」が起きないと言っているという事でしょう。

南師ご自身だって、自分が涅槃に達したとは思っておられないだろうから、「死の受容」をするまでには至っていない筈だと思います。

当然、涅槃に達していないたぬきさんが死に対して否定的な反応を示すのは当然のことでしょう。

南師の記事では涅槃(=死の受容)に達したならば、記事中に書かれているように「死を欲望する事も無く、~~、も無く・・ただ死を受容するだけ」の境地になる筈だと言っており、記事の後ろの部分で、

死が受容出来るようになる道筋としての(ひとつの)方法論をこの記事で南流に解説したのが、今回の目的な訳です。

私的には、
高齢者であるが故に、色々な事を既にいやと言う程、さまざま経験・体験・学習して来て、いま振り返ると奇跡的に生き抜いて来たと思えるので、

この世に於いて「なすべきことを(既にそれなりに)成しとげた」という実感があるので、
ごく自然体で「死の受容」が当然の事にみえます。

若い人が「死の受容」が出来る事の方が、むしろおかしい精神状態なんでしょうから、

若い人はもっともっと人生経験をつんで、艱難辛苦と真正面から戦ってみれば(逃げるが勝ちもありますが・・・艱難辛苦が逃がしてくれない場合もあるし・・・そのまま押し切られる事もあり・・・ごくわずかだがガッツポーズする時があったりして・・・)、

其のうち、もう自分の人生に、
思い残す事は無い!!、充分燃焼した!!、自分の人生劇場を演じ切った!!、という実感で出て来て、

「死の受容」が、即ち涅槃が、ごく自然に出来る時が訪れるというモノです。

自分への褒美として・・・永遠の安息として・・・宇宙のチリとして還元されて・・・宇宙と一体となる平安感のなかに・・・・・・

これもまた涅槃の定義なのでしょう。


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しかし、人間には、決して見えない。それは、「言葉」で外界を認識し、「言葉」で「意味づけ」しているから。 (イエスちゃん)
2017-01-28 16:19:12
蜂の社会では、
「女王蜂」一匹、「働き蜂」無数、
「兵隊蜂」若干・・・がいる。
「女王蜂」がいないと、子が生まれず、滅びる。
「働き蜂」がいないと、食物を運ばず、滅びる。
「兵隊蜂」がいないと、外敵から守れず、滅びる。
「女王蜂・働き蜂・兵隊蜂」が「揃って、初めて、生きている」。
本当の「いのち」は「個々の蜂」ではなく、この蜂の社会全体にこそある。

しかし、人間には、決して見えない。
それは、「言葉」で外界を認識し、「言葉」で「意味づけ」しているから。

だから、「個々の蜂」に「死」を見て、それだけを問題にする。

更に、多種類の蜂には、その各々に対応する花がある。
食物の住み分け。
(同様に、パンダは、特殊な笹しか食べない。「なまけもの」も「特殊な実」しか食べない。)
蜂は、その対応する花が存在するから、それを食べて生きている。
その花が滅びると、それに対応する蜂も滅びる。
同様に、花も、対応する蜂が存在するから、蜂によって受粉して生きる事ができる。
その蜂がいないと滅びる。

つまり、この「蜂のいのちと花のいのちとの全体」が、本当に生きている「いのち」である。

しかし、人間には、決して見えない。
それは、「言葉」で外界を認識し、「言葉」で「意味づけ」しているから。

人間も同様である。
男性だけでは、子を造れず、人間は滅びる。
女性だけでは、子を造れず、人間は滅びる。
つまり
一つの「いのち」が「男性」と「女性」とに「分かれて」現れているのだ。

しかし、人間には、決して見えない。
それは、「言葉」で外界を認識し、「言葉」で「意味づけ」しているから。

「男性」または「女性」である「自己」の「死」とは、
人間の生み出した「言葉の虚構」である。
本当に生きているのは、この「自己」ではない。

「自己」とは「言葉の世界」のものであり、「実体」ではない。
言葉「自己」が指すものは「現象」である。

「燃焼現象である炎」は、「燃焼の条件が成立しなくなる」と、消える。

「実体である炎」が、この世で死んで、あの世に生まれ変わるのではない。
「輪廻転生する或るもの」が「実体」として存在するのではない。

単に、人間の生み出した「言葉」の虚構である。

竜樹菩薩は、
「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)で、
この言葉の虚構を、完璧に超えた。
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Unknown (浅野)
2017-01-28 14:19:19
死の受容は、矛盾を抱えながら、吞み込みながら、具体的に、現実的に生きていくことでしか、受容できないのではないでしょうか。
感覚的に言うと、矛盾や自己(生死)を他者や社会に切り開きながら生きていくこと、が涅槃に至る道だと。
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Unknown (たぬき)
2017-01-28 13:48:50
皆様のコメント 痛み入ります。有難う御座います。

「死」は なによりもまず生活していかなければならない人間にとって 、生活人たる人間それ自体を否定し 死が人間によって囲い込まれようとするや否や 問答無用に一撃を喰らわし 無残に打ち砕くようにみえます。

「死」は 人間にとって あまりにも厳しい 近づくことがタブーであるような聖域のようにみえます。

「死」は解釈を許さないものでしょうか。解釈されることによって 飼いならされることを絶対的に拒み、ただそれに降伏することを求めるのでしょうか。

だから 南直哉さんは「死」について 「それがなんであるか決して分からない」といわれたのでしょうか。

ならば「死の受容」ということは一体どういうことをいわれたのでしょうか。

「それがなんであるか決して分からない」ことを受け容れるとは つまりどういうことでしょう。
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たぬきさんへ (Unknown)
2017-01-28 10:36:09
「縁起的実存の自覚による主体性の生成」

これは南師が「悟り」の定義(の一つ)として言った言葉ですから、

「悟り」とは何かを自覚した瞬間に何かの「The生成」(=確たる認識)が起きたという事なわけでしょう。

言ってみれば「一輪の花」が咲いて、そこに実存が生起しており、一輪の花が「主体性」を表している。花一輪の中にある大宇宙の実体、その真如がそこに具現されている。露堂々ありのままの一輪の花こそ真如それ自体だと悟る、
と話が繋がって行くのだと思います。

「実存」の前に「縁起的」という言葉が付いているのは、実存の在り様は縁起的自然に囲まれて縁起的社会性の中でのみ人の実存が成立するという意味なのでしょう。

悟りの過程においては、その中に自分の在り様(真の自己の姿、主体性)がハッキリ浮かびあがって来るものだ・・・
これが南師の(一つの)悟りの定義だと言うのかと思います(他の定義の仕方もあるのでしょうが・・・)。

当然、人は日々変化していくモノですから「The悟り」も毎日更新されて行くものなのでしょう。日々出くわす問題にその都度ヒラメキを感じる作用と類似していると思います。

私流解釈でした・・・ご参考までに。

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たぬきさんへ (Unknown)
2017-01-28 09:57:00
「生きたい自己」とは単純に、今楽しいからこの状態を続けたい、又は将来良い事が待って居そうだから,生き続けてみたいという気持ち、

「死にたい自己」とは更に単純に、今苦しいし将来も楽しくなる展望が見通せ無いから、乃至は、自分は兎に角生きていてはいけないと思うから、いっそ死んでしまいたいという感情の事。

どちらにしても、
自己意識がそう思わせる訳です。

南流「涅槃」とはそういう自己意識を超越した境地、自己意識を滅した境地の事で、依って涅槃とは「死の受容」だと再定義した、という事だと思います。

だから「死」とは、死のうと欲望する事も無く、死が問題を解決するのだと思う事も無く、死を恐ろしいと拒絶する事も無く、死をいやだ醜いと嫌悪することもなく・・・・

人生行路上の、ただ単なる、しかるべき、ありのままの当然の姿として、冷静さと平常心をもって、なるべくしてなるモノとして心すがすがしく受容する。

でそれが出来る為には日ごろから坐禅で自己意識の軽減を計っておく・・・という文章に続くのだと私は解釈しています。
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たぬきさんへ、「死」の解釈 (Unknown)
2017-01-28 09:18:48
南さんの解釈の様に「それが何だか決して分からないモノであるが、我々の在り方を不可逆的に変えてしまうモノ」に同意です。

私的に表現すれば、
夜眠りに着く時には「明日の朝は~~する」という前提があるが、その前提が崩れて永遠に目覚める事がない事、それを「死」と定義しますね(=呼吸も止まって体が腐る)。
其れは未来と言う時間があるという前提で生きていたが何かが突然起こって、未来の時間に立ち会う事が出来なくなったという不可逆性でも同じ事です。

死後の世界はこうなんだとか言う科学的実証は得られないのですから、数々ある臨死体験談が科学的に真実なのかどうかわかる筈がありません。また浄土にしても確実にそれが存在するなど実証出来る筈がないのですから、
南さんの言うように「それが何であるか決して分からないが~~」と成る訳です。
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Unknown (浅野)
2017-01-28 07:36:16
死は、他人の死体を見た場合、それしかわからないですよね(身体の停止)(自分の死ではない)。
生きたい自己と死にたい自己は、経験ありませんか?目的を持って、生きたい、、が、なにかトラブルがあると、死にたい、と。
なので、欲望より(コロコロ変わる)、自意識を低減するために、座禅など行うんです。
それにおいて、自己を外部に開いたり、操作します(縁起)(無我)。

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「自己」とは単に「言葉」であり、「実体」ではない。「現象」である。 (イエスちゃん)
2017-01-28 07:26:37
「拈華微笑」
世尊云。吾有
正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。

„Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.“

Angelus Silesius
(Werk: Der cherubinische Wandersmann)

『薔薇は なぜという理由もなく 咲いている。
薔薇は ただ咲くべく 咲いている。
薔薇は 自分自身を気にしない。
人が見ているかどうかも 問題にしない。』
アンゲルス・シレジウス
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追加 (Unknown)
2017-01-28 06:09:13
そして此れは、
我が胸焦がすような思いで自ら引き受けた艱難苦難ならば、「苦」は「苦」で無くなる
という心境と通じているモノが有る。
その行動が「自分にとっては楽しい」となるからだ。
世の中には「苦行」を「楽しい」と思う人は沢山いる。
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補足 (Unknown)
2017-01-28 05:55:50
自由とは・・・単なる主観的な観念、脳のサンスカーラに過ぎない。
現実的に自由であるか、束縛されているかは本質的には無関係である。
本人が自分は自由だと思うならば、どんな生き方でもその人に取っては楽しい
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たぬきさんの「自由」 (Unknown)
2017-01-28 05:38:09
たぬきさんの提示した命題は深く考えさせるものばかりです。

先ずは「自由」とは??

ネットで「自由」と言うキーワードで検索すると多様な解釈に出会える。
(仏教定義の「自由とは」を説いた鈴木大拙師もいるけどね)

塩野七生さんの『再び男たちへ』では「この自由なるモノ、それを駆使して生きるとなると以外に大変で、全ての人がその緊張に耐えていけると考える方が非現実的なのではないだろうか」、
「結局、善政を施して、自分に善きもののみを与へて呉れる支配者がいれば自由など要らぬと多くの人が考えている・・自分の自立的人間性を直視するのが怖いからだ」という。

たぬきさんの言う「自由=自ずに由って生きる」はしかし同時に、
「感情の奴隷になっている」と言う事と同義語にもなる。

S長老的には「仏陀曰く、戒律を守って生活をする事で社会的な束縛から解放されて自由と安らぎを感じるのだ」という解釈だ(=好き勝手放題・奔放は自由のはき違いだ)。

今回の記事とコメの流れに合わせるなら、「一輪の花」は「自由」を具現している。なぜなら、「なすべきことを成した」という(充)実感とは「なさねばならない事を全て終わった・完了した」という想いが伴っていて、
「自分は今完全に自由だ」という開放感を起こさせるからであろう。それが「涅槃」の境地という事であろうか。

更には、今回の記事で言う処の「主体性の生起」とは「一輪の花」において成就されている自由人の姿が現成したもの、と捉える事も出来る。

たぬきさんの「自由とは~~、と訂正します」は余りに意味深複雑系面倒臭さ風で理解する事が(私には)困難かも・・
まあそれも「自由とは」の一つの定義かも知れないが・・・。
(注;他の命題は後日考慮予定)。
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たぬきさんへ (hasunohana1966)
2017-01-28 02:21:34
たぬきさんの問いは、私を駆り立てるものがありますね。

正直に私の勝手を言いましょう。
①私は仏教の教えを知りません、よって仏教的答えが出来ません。
②仏教的教えは、その専門職の人から分かりやすく解説されても、なお分かりません。
③仏教用語は現実感がない。
以上の③につき、私の勝手な考えしか言えないので、それを!!
なぜなら、ここのコメ陳には仏教の専門化(家)が大勢いらして、経典に書いてあるところを持ち出して入試の講義のような形式でコメボードに書かれるからです。
たぬきさんは死、自己、自由の概念の基準が定まらず、分からないとの認識(結論)に至ったようですね。
私の勝手な解釈だと、
死、自己、自由の真意を分かるためには、
言葉の枠組みを認識するところからヒントを得られます。
例えば、死や自己、自由は
自分が生まれたから死があるとの枠
自己は他の自己らの集団であるとの枠
自由は束縛からみた枠
それらの枠から見ると
言葉自体の難しさに目隠しされることなく『枠』自体を見ることができます。
だが、人は自分の捉える枠がそれぞれ違うため、事柄を理解する際に自分の枠に捕らわれてしまう、自他の枠組みのが多すぎて判断できない。
たぬきさんは、その分かれ道に今いるのではと思いました。
だが、私の考えは
その求める回答が得られたとして
それを報告する相手は
テストをしていないので
採点しないのです。
テストの問が無いのに、答えがあり得ません。
合っている無いのも、自由そのものの視点からだと意味を成さない。

他の方は私の勝手について、素人の偏った観方だと思うかも知れませんが、専門に成れた方々も素人の時期があったはず、
たぬきさんも素人の過程を得ていく必要があるとのことでしょうか。
文章から察せることは、仏教に真面目に取り組もうとする禅僧のような感じがしますけど。
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Unknown (Unknown)
2017-01-28 01:06:38
仏教ってさ、死の擬似体験というか死の練習というか人外的行為というか。そうゆう所ない?
座禅中が死としたら、生きてても死。死んだらもちろん死。どっちも死んでるじゃん?
だとしたら、生きてても、死んでても、生。って解釈も可かね?
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Unknown (Unknown)
2017-01-28 00:36:22
たぬき きつね ねこ

しりとり楽しい!!

自灯明法灯明
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Unknown (たぬき)
2017-01-28 00:28:09
「自由」とは「自ずからに由る」であって 人間的形式 この有限的自己が絶えず死ぬことによって 無限無底無極の生命を 絶対自己として 本源的主体性として顕現せしめるということでしょうか。

でした。 訂正します。
返信する
Unknown (たぬき)
2017-01-27 23:55:50
私にとって 解釈の正否は重要ではありません。一つの解釈に納得できれば、そして その問いへの執着を終わらせることができればそれで良いと思っています。

「死」が分からないのです。南直哉さんは「それがなんであるか決して分からない出来事の勃発によって我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうもの」と解釈されています。

「生きたい自己」とは人間的形式の この有限的自己の刻々の反復をいうのでしょうか。

「死にたい自己」とは無限の 無底の 絶対無分節の 流動する生命の刻々の更新をいうのでしょうか。

「死の受容」が「生きたい自己」と「死にたい自己」の欲望を無力化すること 引いては 欲望ではなく欲望する自己を解体すること とされるならば これはどのように理解すれば良いのでしょうか。

「縁起的実存の自覚による主体性の生成」とはどういう事態をいうのでしょうか。無限の 無底の 絶対無分節の 流転流動する生命の 刻々の呼びかけに対する 刻々の応答をいうのでしょうか。

刻々の呼びかけに刻々に応答するならば 絶えず 死ななければならないということでしょうか。

「自由」とは「自ずからに由る」であって 人間的形式 この有限的自己が絶えず死ぬことによって 無限無底無極の自己を 絶対自己として 本源的主体性として顕現せしめるということでしょうか。

結局私は何も分かっていないのです。何が分からないのかも分からないのです。

これでよいのでしょうか。私の歩みは間違っていないでしょうか。
返信する
追伸(補足) (hasunohana1966)
2017-01-27 11:12:52
ー引用は南師のブログ記事とそれに関連したコメントの流れを理解するためにー
返信する
たぬきさんへ (hasunohana1966)
2017-01-27 11:01:54
『欲望する事も無く、解決と思う事も無く、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ受容する・・・ありのままを受容する。
一時(いっとき)を豊かに咲いて、ありのままに受容した死の中に・・・
生と死、不生不滅の、真如の宇宙を受容する』
上記の引用はこれらコメントの流れを理解するためにヒントになるかと思います。
批判とか同意とかを選択したくても、自ら感じたことや気づいたこと、無知であれ学識豊富であれ、人に打たれることを恐れず言いたいことを書いてみてください。
私は最初、どうせここの仲間に入れないと思い英語でコメ残して下駄外れた番外編を書きましたが、それがきっかけで師匠に出会うことになりました。
誰かが攻撃してきたら、打ち返してください。
ここのブログ主はその場を提供してくれています。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-27 10:10:59
一輪の花の中には
「成すべきことをなした」という充実感がある!!
「全てを成し終えた」という安楽円寂の真如が具現している。

欲望する事も無く、解決と思う事も無く、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ受容する・・・ありのままを受容する。

一時(いっとき)を豊かに咲いて、ありのままに受容した死の中に・・・
生と死、不生不滅の、真如の宇宙を受容する。

「一輪の花」は深い奥行きを持って、個と全体のはざまに在って「あなたの人生」を具現する
返信する
ありがとうございます (たぬき)
2017-01-27 09:39:16
ZIPさん unknownさん hasunohana1966さん

ご教示ありがとうございます。感謝致します。

私の力量では同意したり批判したりといったことは到底できませんが、また ご教示くださったことを理解できているかも怪しいのですが、けれども理解できるよう繰り返し読み学ばせていただきたいと思います。
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訂正 (hasunohana1966)
2017-01-27 04:49:32
H(水素)
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Unknown (hasunohana1966)
2017-01-27 03:54:35
『仏の教えは、転ばぬ先の杖である。
転んでからは、トドメである』
『大宇宙の実体が「飼いならされて」いるを悟る。
「自然」は宇宙、「人」は宇宙であるのだから・・・』
上記の二つのコメは全く違うようで同じような感じがする。
なぜなら、今回の恐山師の記事が蒔いた種から咲いた、一種の花のように思えるからだ。
『イエスちゃんが
このブログ記事へのたぬきさんの見解はどうですか?

100%同意しますか?
それを書き込み下さい。そこから始まります。
そして、それがエチケットです。』のコメを読んだ時は
このコメ集いの中で初めての異議が成され、私まで巻き込んだ。
イエスちゃんのコメは初歩者へのガイドラインだったかもしれない。
上記の3つのコメから考えらることは、
それぞれ言い方や表現記法は異なっても、一輪の花を咲かせる水(H²O)だと思う。
どっちがH(炭素)、どっちがO(酸素)であるか分からないが、それらを結びつけた力を私達の科学は未だに証明できない。
明らかに私は炭素からきたのだが。
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花一輪、距離と奥行き、全体と個 (Unknown)
2017-01-27 03:25:23
花一輪を・・・
タダタダ無心に眺むれば
手に握られたその花に(=距離)
無限に深き「奥行き」を見る。

「一輪の花」の中にこそ
全宇宙が潜んでいるを知る
一輪(=個)の花のなかに
宇宙の「全体」が「飼いならされている」を看る
ーーーーーー

人の心が静まれば、

木立から漏れる日光の乱舞に
連山と重なる雲間の中に
蒼天にぽっかり浮かんだ輝く白雲に

波のしぶきの一つずつに
一滴一滴の雨垂れの中に
一枚一枚の若葉のなかに

そしてあなたの澄んだ目の輝きの中に
風にたなびく黒髪のそよぎに

大宇宙の実体が「飼いならされて」いるを悟る。
「自然」は宇宙、「人」は宇宙であるのだから・・・



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Unknown (ZIP)
2017-01-26 18:58:54
仏の教えは、転ばぬ先の杖である。
転んでからは、トドメである。
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距離と奥行と花一輪 (ZIP)
2017-01-26 09:46:14
一人の人間の行動と、もう一人の人間の
行動との間には、何も連絡がない。
一人の人間の経験と、もう一人の人間の
経験との間には、何も連続がない。

二人(複数)の人間が関係するとき、
それぞれの他者に対する行動は、
互いが、他者に対する経験によって仲介されている。
それぞれの他者に対する経験は、
互いの、他者に対する行動によって仲介されている。

人間は個として自己充足的に完結可能な
ものではない。
お互いが他者に対する他者である。
善悪の区別なく作用を及ぼし、
善悪の区別なく影響を受けるものである

人間として、一見この逃れ難い相互依存的構造の一つとして責任というものがある。
責任とは社会の参加資格である。
しかし責任は善でもなければ、悪でも
ない。
果たすか、果たさないか、だけが問われるものである。
責任とは影響を隠蔽するものである。
影響の無自覚な受動を覆い隠し、自尊心の名の下に責任という虚構を築き上げ、
社会の参加者として望ましい人間に仕立て上げる事を目的としている。

その一方で、責任を拠り所としない参加資格が贈与である。
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ありがとうございます (たぬき)
2017-01-26 09:24:25
unknownさん イエスちゃんさん ご指摘有難うございます。

私も あのようなコメントをしてもよいものか迷ったのですが、このお方なら 何か 私如きには思い至らないような解釈をお示し下さるのではないかと 衝動的にコメントしてしまいました。

イエスちゃんさんからご指摘されたこと じっくりと考えてみたいと思います。 正直申しまして 私には 私の質問と死の受容とのつながりが理解できていません。それでも なんとなくですがイエスちゃんさんがおっしゃられたことに 納得させられてしまいます。 きっとイエスちゃんさんのおっしゃられる通りなのだろうと思います。

勉強させていただきます。有難う御座いました。
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たぬきさんへ。まさにそれの回答です。読み取る必要があります。 (イエスちゃん)
2017-01-26 06:49:53
『距離と奥行きについて、
全体と個について、
また 「花一輪に飼いならされる」の言葉について 』

まさに、今回のブログ記事の、包括的な、骨格としての、ご提示が、それの回答になっています。

ここから、読み取る必要があります。
このブログ記事へのたぬきさんの見解はどうですか?

100%同意しますか?
それを書き込み下さい。そこから始まります。
そして、それがエチケットです。
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Unknown (Unknown)
2017-01-26 00:58:24
たぬきさん、ここのコメント欄での個人的な質問に対しては、恐らく南師からのお返事は頂けません。
直接、会って、ご質問されるのが良いと思います。

恐山は今、閉山していますので、福井の霊泉寺に問い合わせて会う予約をされてはいかがですか。

私は、恐山から見える星空を見たいので、
開山したら宿泊しようと計画してます。
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すいません (たぬき)
2017-01-25 12:32:22
すみません コメント出来ているのか分からなかったのでもう一度。

大変お忙しい御身に これまた大変に失礼なこととは思いますが 距離と奥行きについて、 全体と個について、また 「花一輪に飼いならされる」の言葉について お考えをお聴かせ願えますでしょうか お教えくだされば幸いです。
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Unknown (Unknown)
2017-01-25 01:44:00
> ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

私は10年愛による主従関係の困窮、破綻を体験実感しました。

他者の全てを理解することは不可能である、自己のすべてを他者に向けても不可能である。

> 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。

今年は切り開いていこうと思う。

向かう指針を頂きました。
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Unknown (Unknown)
2017-01-25 00:17:47
子育てという共通の課題に取り組むことで、夫婦はお互いをより深くできるようになるんですかね。いや、なるといいですね。
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坐禅の効用 (senrigan)
2017-01-24 10:03:41
 坐禅はいつか日常茶飯事となります。朝起きると顔を洗い歯磨きもします。そして朝食をいただきます。坐禅はそのルーティンの一工程でありそれ以外の何者でもありません。精神が落ち着くことや体調が良くなる事はそれの付随的効果でありそれが目的では有りません。澤木氏がおっしゃるように坐禅はなにも狙わないものです。
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Unknown (Unknown)
2017-01-24 00:49:50
南師、今回の記事、何度も読んでいます。

色々書いて消しました。

縁起で、豊かに。
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Unknown (Unknown)
2017-01-24 00:17:27
Zip さん、私にはタイミングのいいご投稿です。どうもありがとう。

抽象論を聞いて、エッセンスとしては重要さがよく理解できるが現実へのあてはめにギャップを感じることもある一方、逆に、現実のレベルの話では限界を感じて、抽象論で納得することもあるものですね。

誰の投稿がどうということではなく、記事をきっかけに抽象と現実の往き来をして、今の自分の府に落ちる地点を知れたのがよかったです。
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感謝します。 (イエスちゃん)
2017-01-23 15:45:35
『それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になる
「かもしれません」。
これが積み重なれば、
満腹の人が「食事を終える」ように、「死の受容」が実現する
「可能性がある」と、私は「いま」思っています。』

少しでもこうありたいと、「今年は」歩もうとしています。
残りの時間が少なくなりつつあるので。
目標が明確になりました。
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Unknown (Unknown)
2017-01-23 03:10:33
カタルシスになるのかな。
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Unknown (ZIP)
2017-01-22 23:29:09
母親として、父親として、おじいちゃん
として、おばあちゃんとして、社長として、部長として、課長として・・・・・
自己としての属性を表すこれらの言葉は
いずれも、自分以外の他者に対する役割
を担う者として示された言葉である。
役割を担うということは、責任を負うという意味である。
責任とは他者に対して向けられた自分の
態度を表明することであり、その存在を
役割において他者を優先するということである。
他者の存在を優先するということは、
自己が存在するという在り方を一旦保留して、他者に尽くす者として振る舞うことを意味する。
そういう意味において責任とは、他者の責任に対して責任を負う、他者に譲ることの出来ない役割を担うことである。
これは人間としての構造である。
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補足 (Unknown)
2017-01-22 21:12:52
ご自分がどうしても納得出来ないことは、やらない努力をすることも大切なことだと思います。何かを達成するには無数の選択肢が存在します。より多くの選択肢が持てるように、情報と人脈を多くもつことが大切です。その中から、最善の方法を選ぶために、私にとっては坐禅が有効に働いています。
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 20:21:28
そうでしょうか。礼儀を知らない相手でも、その人と共同作業をしなければならない場合、なにかしらの連帯感は生まれるもの。あなたは、あなたが礼儀を知らない相手、と感じる相手には、礼をつくしてないのではないでしょうか。あなたが考えていることは、相手に伝わります。相手は決してあなたをパートナーとは、認めないでしょう。メリットを与えるはずがありません。

ビジネスにかかわる人間は、自分が納得いかない相手との共同は必ずあるものです。苦しみながら折り合いをつけ、達成していく。

礼儀を尽くしてないのは、自分自身であることに気づいた時に、新しい視界が開けていきます。あなたが認めたくない人間を認めることが、スタートなのです。
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 19:42:39
なるほど、ご投稿の意味がはっきりしました。
ご丁寧にどうもありがとうございます。

まともな商売人か礼を知る人の場合、「相手はこ ちらの誠意を感じて次の機会にメリットを与 えてくれる場合が多い」ですが、あまりにそうでなく、さらに服従関係を固定させようとする人も多く、ヒントになる点があればと伺った次第です。
反応によって相手を知り、その後のつきあいに反映していますが、避けられない相手もいますので-。

どうもありがとうございました。
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 17:35:09
対話はもちろんのことですが、やはり、相手よりも自分の姿勢、でしょうか。何かに取り組む時、自分の中に自分だけが利益を得ようとする気持ちがあれば、相手もそのように振る舞います。本質が見えていれば、相手だけが利益を得る状況が正しいのなら、納得がいくはずです。

そのような状況の時、殆どの場合、相手はこちらの誠意を感じて次の機会にメリットを与えてくれる場合が多いですが、そうでなくても、自分が納得できていれば、問題ないはずです。

相手ではなく、ご自分の内面の問題だと思います。
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 16:55:20
>南さんがおっしゃるように、どうしようもな い時は相手に譲る、ということはとても重要 なことだと、私も体験的に感じています。

よろしければ、そこを詳しく教えて頂けませんか。

礼を知る者に礼は通じるが、譲れば得したと思う者には、もっと譲らせられないかと欲の引き金になるということが続き、困っています。
どうしようもないとなるまで対話を充実させることを前提としているということでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 16:30:31
南さんが親鸞と唯円の会話を文章にすると、どのようになるか興味が出た
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 10:45:33
意見の違う他者と協力することは、とても難しいことです。私は仕事柄、調整業務をすることが多いのですが、完璧な形に纏まった時の感動はとても大きいです。
良い形はいつまでも続わけでなく、ビジョンが崩れていく時の虚しさはひとしおですが、やりきった時は不思議と全て終われば、透明な気持ちになります。私の涅槃は近いのでしょうか?(笑)

南さんがおっしゃるように、どうしようもない時は相手に譲る、ということはとても重要なことだと、私も体験的に感じています。
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みんな極楽浄土に生まれる。そして、「真仏土」と「化身土」とがある。 (イエスちゃん)
2017-01-22 07:32:31
極楽浄土とは、行ったらすぐに、この娑婆世界に戻って来るものである。
親鸞聖人は、それを重視した。

そして、全ての人は極楽浄土に生まれるが、二種類の「真仏土」と「化身土」とがあると思索した。
「真仏土」に生まれると、直ぐに成仏し、直ぐにこの娑婆世界に再び戻って来る。
「化身土」の場合は五百年間修行してから成仏し、やはり、娑婆世界に戻ってくる。

蓮如は、これを重視ししていたのか?
これも親鸞聖人との相違点である。


顕浄土真実 教行証文類序
「総序」と通称される。
顕浄土真実 教文類一
「教巻」と通称される。
顕浄土真実 行文類二
「行巻」と通称される。巻末に「正信念仏偈」(「正信偈」)と呼ばれる偈頌が置かれる。
顕浄土真実 信文類序
「顕浄土真実信文類三」の前に「別序」と通称される序文が置かれる。
顕浄土真実 信文類三
「別序」を含めて「信巻」と通称される。
顕浄土真実 証文類四
「証巻」と通称される。


顕浄土 真仏土文類五
「真仏土巻」と通称される。
顕浄土 方便化身土文類六
「化身土巻」と通称される。「化身土巻」は「本」と「末」からなる。

巻末の「竊かに以みれば聖道の諸教は行証久しく廃れ浄土の真宗は証道いま盛なり」以降の部分は「後序」と呼ばれる。
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そもそも「親鸞からの血筋」を重視する、これは、親鸞聖人に反している。 (イエスちゃん)
2017-01-22 07:07:31
親鸞聖人は、
「自分の遺体は、加茂川に流して、魚の餌にせよ」と遺言しました。
つまり、親鸞の遺体の重視、遺体への宗教行為、…すべてを禁止する事です。

親鸞聖人は、
「弟子ひとり持たない」
みんな平等であり、ご同行、一緒の信仰の仲間。

ここには「親鸞聖人の血筋だから」有り難い、偉い、よく信仰を理解している…
が入り込む隙間はない。

「親鸞の血筋を重視する」
これは蓮如の中に、一切ありませんか?
浄土真宗の中に、ありませんか?

「信仰を、独り占めにする」
「信仰を用いて、支配する」…

これらは、親鸞聖人に反することです。
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いわし雲さん 「信心」は自分が行う行為でなく、阿弥陀如来から賜ったもの。「称名」は、称名せよと言う阿弥陀如来の命令。  (イエスちゃん)
2017-01-22 06:24:21
浄土教に理解が深いようなので、ご質問ですが…

先ず、『歎異抄』(たんにしょう)は、
親鸞聖人が、信者の人からの質問に対して、一番重要なことを、率直に話した内容の、聞き書きです。
だから、隠すべきものではありません。

実際、明治になってから、多くの人々によって公開され利用されて、親鸞聖人の信仰・教えを「良く伝えるもの」として認められています。

それを、蓮如上人は隠しました。いろいろ理屈をつけて。
それは、蓮如の布教の教えを、邪魔するからです。


~~親鸞聖人が『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』と教えている~~

これを、「実際の親鸞聖人が教えている」のですか?
そして、重視して、強調して、いるのですか?

「信心」は、自分が阿弥陀を信じるのではなく、自分の行為ではなく、阿弥陀如来から賜ったものです。

「称名」も、自分がしているのではなく、阿弥陀如来から「称名せよ」と促されて行う行為です。

~~『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』~~

これは、「称名」「信心」を「自分のもの・自分の行為」と考えるものです。

親鸞聖人は、決してこのように教えていないと、受け取っています。

だから、蓮如ではなく、親鸞聖人の実際の著述の文章を使って、反論する必要があると考えました。
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Unknown (Unknown)
2017-01-22 00:46:38
「自己の受容」と「死の受容」は同義なのか。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 18:20:06
リハビリテーションですね。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 18:16:32
どなたか筋トレしている方がいらっしゃるの?
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イエスちゃんへ (Unknown)
2017-01-21 16:43:07
横から失礼します。
浄土真宗本願寺派第8世宗主蓮如上人が、親鸞聖人の教えを分かりやすく書いたのが「御文章」ということになっていますが、イエスちゃんの考えでは、「親鸞はそんなことは言っていない」ということなのでしょうか?
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 13:28:30
なんで?
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 11:13:02
ターゲットにすべきは欲望ではなく自己だって書いてあるんだけど、
「受容し続ける自己」って、「死んでる私」みたいな気がする。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 10:57:24
そうすると、涅槃じゃなくてもおなじだろうと思うのね。
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Unknown (浅野)
2017-01-21 10:17:28
「涅槃=死の受容」も無常です。
死の受容は「死」ではないですから、涅槃をし続けなければなりません(無常)。
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Unknown (浅野)
2017-01-21 10:09:24
念仏さえすれば、誰でも救われる、、。
これは、確か、「罪の意識」を持つ人が、だったと思います。
これを曲解して悪用したのが、オウム(麻原)のようです。
念仏されすれば、、はその行為の中に、仏教観念を落とし込んでいるので、「ありのまま」や「自己受容」として念仏に現前してるのだろう、と思います。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 10:04:29
ああ、そうそう。
南さんの記事に対してということでいくと、
私は「T氏」ではないから、「南流『涅槃』の解釈の必要性」を求めてはいないのね。
というか、涅槃も無常だったりしないの?って思うわー、ってことだな。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 09:47:38
えーと。

2017-01-21 02:40:43は
2017-01-21 00:03:23の私の書いたものについたコメなんだろうなぁ。

しっかり身体を使ったことがないだろうといってる人の「身体を使うこと」は「坐禅」だけなのかなぁ?
「しっかり身体を使う」の「しっかり」ってどういうことなんだろう?
「軸がとれる(決まる)と動きやすい(制御しやすい)」を実感できる程度の使い方は、してると思うよ、私。
軸が決まったと思っても、その時の軸はこれです、と自分の身体を指す事ってできない、というのも自分の感覚だよ。
そういうことって感じたことないの?
体と心は密接に関係している、だから何?
軸も無常だよね、って話をしてるんだけど、あなたには坐禅を組む身体しかないの?
禅の話は坐ってから、って、またひとンちの冷蔵庫のなか見て買い物の指図してんの?
世の中って、禅的な世の中っていう線はないよ。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 07:09:09
誠なるかや
返信する
蓮如上人と親鸞聖人と、肝腎のところで、信仰が異なる (イエスちゃん)
2017-01-21 07:02:05





~~「蓮如上人が「御文章」の中で、
『ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり。』と言っており、

「これは」親鸞聖人が『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』と教えている「のだと思います」が、~~

だから、親鸞聖人の根拠には使えません。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 02:40:43
あなた、本格的なスポーツとかみたいな、身体をしっかり使ったことないでしょ。身体と心はつながっていて、密接な影響を与え合います。あなたの話は体験せずに妄想だけで話している机上の空論。禅の話は、まず、自分が坐ってから。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 02:09:03
仏教では
利益を「りやく」と
読むらしいよ。

世俗的な利益とは
違うんだろうね。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 00:03:23
たぶんありがちな疑問だと思うけど
解体しても解体しても解体しても
誰が解体してるのかっていうと、「自己が」でしょ?
坐禅という技法?によって「非思量」やってるから
「自己」のボリュームは最小レベルだからったって。
「譲る覚悟をする」のも「自己」でしょう?
なんか、かなり「しっかりした自己」な気がするんだけどね。
それはどうでも良くて「共通の問題に一緒に取り組み、利は相手に譲る覚悟をする」ってことなら
坐禅しないとその覚悟は持てないってものでもなさそうな気がするし。
なんかよくわからない話だ。いい話なんだろうけど。
自己を確立する系の話なのかな?


諸行無常なら、涅槃も無常、なのかなぁ、とか。
スポーツとか踊り系とか武道系とか、よく「身体の軸がしっかりしてる」とかいうけど
身体に「軸」っていう部位はないよね。
動いてるときに登場するんでしょ。



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『超越と実存』の中の浄土教 (いわし雲)
2017-01-20 19:47:37
南直哉さんの「webでも考える人」『超越と実存』を拝読しました。
「法然における「絶対」(6)」の中で、
『法然の思想では、念仏しさえすれば「誰でも」成仏し、救済されるということになる。すると、死後に漏れなく来世で絶対的に救済されるなら、生前現世では「ありのまま」でよいではないか、という発想が現れてくることが予想される。』
とされ、以降、論理が展開されていますが、ここには疑問があります。

確かに法然は『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける』と言ったと思いますが、これが当時、生きるために非道を行っており、社会からも蔑まれ、この世でもあの世でも
自らは救済されることはないと思っていた人々に希望を与え、浄土教が爆発的に広がった原因だと思います。

大きく念仏には、「自力」の念仏が2つ、「他力」の念仏が1つありますが、蓮如上人が「御文章」の中で、
『ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり。』と言っており、
これは親鸞聖人が『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』と教えているのだと思いますが、そこに言及しないで話を展開されているのは残念です。

『浄土教の教えが間違っている』ということであれば、それはそれで1つの考えなのでどうこう言うことではないのですが、「御文章」が後付けの単なる言い訳であるということであれば、その辺りに言及していただきたいと思いました。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-01-20 19:35:44
菩薩、ですね。
返信する
Unknown (ZIP)
2017-01-20 12:59:34
悟りが周期倍分岐として機能するのであれば、存在するとは別の仕方で、ということもある意味可能ではあるのだろうが
・・・
返信する
Unknown (南京ハゼ)
2017-01-20 08:26:17
節目のような時、主体性としての気持ちよりも暖かさの流れの行方を追うふうでありたいと思います。旅立と向き合うことの日常の自身の逡巡が縦の瞬間の大切さを逸することは胸をしめるようにも感じます。また 都合の良さのようなことがかすめると真意とはかけ離れてしまうことも卑近ながら思ったり致します。目を向ける先が自然と身につきそこには伝えようとされた暖かさの眼差しが絶え間なく感じられるような風景を思います。空気がいよいよ冴えてくるようですが、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
返信する
Unknown (浅野)
2017-01-20 06:55:17
~利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです~。

これは、ビジネスや政治に関しても適用すべきなのでしょうか。
国益が前提の政治世界で、基本的には第一義は国益であり、次は相互利益であると思うのですが、。
慰安婦の件の10億円拠出などは、どうなのかな、と思ったりしました。
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Unknown (浅野)
2017-01-20 06:33:58
「涅槃」と「悟り」の違いがはっきりとわかりました。
悟りは理解していましたが、今生における涅槃がわかりませんでした。
涅槃=死の受容、は納得します。
具体的方法もそれを頼りに取り組んできましたし、実感してきました。
私もTさんのような良い質問ができるようになりたいす!
返信する
Unknown ()
2017-01-20 02:34:40
二兔追う者は一兔も得ず。

二兔追っても死しかない。
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