恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

よく言うよ

2016年08月30日 | 日記
「君はいつだったか、鈴木大拙に『正法眼蔵』はわからない、って言ってたよな」

「言った。だって、鈴木は自分の著作において、『眼蔵』はもちろん、道元禅師にもほとんどまったく言及していない。彼の思想的土台である中国禅のパラダイムで『眼蔵』は処理しきれないことを知っていたからだろ。わからないから黙っていた。当たり前だが、わからない以上余計なことを言わなかったのは、さすがに偉い」

「変なほめ方だな。要するに『見性』なんぞを持ち出すアイデアは『眼蔵』に通用しないということか?」

「通用しないのではなく、それを言えば間違える。時々、『身心脱落』や『非思量』を『見性』と同一視して語る輩がいるが、そもそも道元禅師本人が『禅宗』という言葉や『見性』という概念を否定しているんだから、話が無理筋だ」

「『即非の論理』は使えないと」

「そりゃそうだろうな。鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態(Aと非Aの同一)、つまり『見性』的状態を理屈っぽく言い換えたものに過ぎない。『金剛般若経』中の該当する一句の解釈として適当かどうかも別だし」

「その未分状態が、彼らの言う『絶対無』か?」

「そうだ。話の出所は、禅や老荘思想で言う『無』だね。ちなみに、『即非の論理』は、論理の運動の結果として矛盾が止揚されるヘーゲル的弁証法ともまったく違う。同じように考えている坊さんの文章を読んだことがあるが、完全な誤解だ」

「とすると、君は西田幾多郎も『眼蔵』はわからないと言うわけだな?」

「当然だろうなあ。西田は大拙的『禅』はわかっただろうし利用しただろうが、『眼蔵』以前に、仏教がわからなかったろうなあ」

「そこまで言う?」

「だって、無常だの無我だの縁起だのと仏教は言っているのに、『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』などと言い出して、『真実在』の領域を設定したら、ダメでしょう。無常の立場から言えば、『同一』は言語が仮設する概念だぜ。無常かつ無我という『矛盾』的実存に対して言語が『同一』性を仮設していると言う意味で、『自己同一的絶対矛盾』とでも言うなら、まだわかるがね」

「君がよく言う、『結局、何かある』と言う話は仏教ではない、ということか?」

「まあそうだな。根本的には、鈴木の話も西田の説も、ものの言い回しはともかく、理屈の筋は老荘思想やブラフマ二ズムのパラダイムに回収できるだろうから、特に『日本的』とも思えないね」

「じゃ、君が『日本的』と思うのは?」

「それこそ道元禅師と親鸞聖人のアイデアは、形而上学的思考や超越的理念を持つ思想に対する態度の取り方として、極めてオリジナリティが高く、もとももと形而上学を持たなかった『日本』においてしか現れなかったのじゃないかと、考えているけどね」

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240 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2016-09-10 15:15:25
禅とニヒリズムって紙一重じゃない?
業と縁起といった概念の有無以外は、ローカーヤタ(順世)派と変わらない気がするんだけど。
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イエスちゃんへ (はてな)
2016-09-09 17:52:25
>諸行無「常」 絶対に「常」はない!   (イエスちゃん)
2016-09-08 08:57:24
を、解っているのか?
やはり、仏陀、ブッダ、目覚めが必要である!

この説明には四苦八苦ですが、私の意見を先に申し上げますので、あなたのご意見は、的確な説明のうえ必ず投稿してください。

私が表現している「実感」では、全く説明がつきません。難題は、諸行無常の起こっている最小単位ですが、万物(最速とされている光速)を超えている(そうでなければ、成立しない)ことはわかりますが、示すことができません。

それが解る(文面からして、解っている)あなたに、是非ともご教示いただきたいですが、そうであれば「意識」を説明できるはず?です。 

以上、2点の説明をお願いいたします。
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Unknown (senrigan)
2016-09-09 16:54:03
人生は葛藤そのものであり、単純な割り切れるものでもない。そしてそのままを受け取り引き継いでゆくのが人生である。と道元はいい。また、大蔵経の経典は坐禅の体験を文字化したものでもある。それだけ坐禅の体験を言葉にしようとすると、とてつもなく膨大な経典になってしまうとは澤木老師の話である。
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Unknown (Unknown)
2016-09-09 16:53:37
そうだね。
善行・悪行いのパラダイムかな。

たぶん地球温暖化が進んでいるのも、結局、善行のような悪行が原因ともいえるしね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-09 13:41:58
「ふしぎなキリスト教」の共著者の一人である橋爪大三郎氏はクリスチャンだから、勝手に部外者と決めつけるのはどうかと思うけど。
あと、ここで言う善行って何よ? 誰が「それは善行です」って決めるの? 「善行をすれば、世界は必ず善果を受く」って、神様じゃない人間がどうしてそう言い切れるの?
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Unknown (お転馬)
2016-09-09 07:50:16
親分の新刊本、読みたくなったべ。

母性本能くすぐる写真付きだべか。

恥ずかしいっぺ!
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概要2 (Unknown)
2016-09-09 07:45:04

 全体は大きく3つの章に分かれている。

 第1章は「仏教をめぐる迷宮」と題して、おもに仏教に関わる様々な問題が語られている。

 面白かったのは僧侶である南直哉が「悟りやニルヴァーナが何なのかは仏典を読んでもわからない」とか「輪廻転生はない」と述べていること。
 
これは僧侶としてはかなり異色の発言だと思うし、本人もそれを自覚しているようなのだが、述べられていることには説得力があると思った。

 特に輪廻転生に関して言えば、人間が生まれながらに持つ不平等さも含めた条件付けを「業」として認めつつ、それは「前世の因果」ではないと断言しているところが目を引く。
 
また「善行善果、悪行悪果」についても、善行をしたから本人が善果を得られるとは限らない、悪行をしたから本人が悪果を受けるとは限らない、しかし善行によって世界は必ず善果を得て、悪行によって世界は必ず悪果の報いを受けると説明しているのも、ユニークだがおそらく真実なのだろうと思わせる考察だと思う。

 第2章はキリスト教についての考察。ここではカトリック神父の立場から、「天国」と「天の国」の違いが解説されているのが個人的には面白いと思ったのだが、プロテスタント育ちの僕は「天国=天の国」だと思うけどね……。

 第3章は反戦と非戦、死刑廃止論など、実際の社会問題に対する著者たちの考えを述べている部分。来住神父が「死刑廃止論に反対」と述べているのは面白いと思った。といっても神父は死刑に賛成しているわけでもない。
 旧社会党の「非武装中立論」などと同じで、死刑廃止論者が陥りがちな無責任な論の立て方を批判しているのだ。

 全体にとても読み応えのある対談で、考えを整理したり深めたりできた部分も多い。南直哉師の他の著書も読んでみたいと思わせる1冊だった。

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概要 (Unknown)
2016-09-09 07:41:39
「禅と福音 仏教とキリスト教の対話/南直哉/来住英俊 」


 曹洞宗(仏教)の南直哉住職と、カトリック(キリスト教)の来住英俊神父の対談本。自分自身の信仰を深く見つめた上で世に問いかけていく著書が多い両者が、土俵の中央でがっぷりと組み合う様子は見応えがある。
 対談の中でも触れられているが、南住職はかつてキリスト教に魅了されて受洗直前まで至った経験を持ち、来住神父も仏教に惹かれて多くの本を読んでいるという。互いに自分たちの所属する宗教にしっかり根を下ろしてその立場から発言しているが、相手の信じる者に対して十分な事前知識と敬意を持って対談に挑んでいる。信仰に対して部外者が対談している「不思議なキリスト教」のような本ではなく、同じ信仰者同士が身内の話に終始する対談でもない、まさに火花が散るような真剣勝負だ。
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Unknown (お転馬)
2016-09-09 07:39:06
親分、本だしたっぺか。

教えてくれても損しないっぺ。
親分は遠慮し過ぎだべ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-09 00:51:28
今回の記事と関係なくて申し訳ありませんが、
「禅と福音」購入しました!

無常無我を前提に実存を懸命に必死で考え生きる南師…

答えのない問題に深く考え続け、躊躇いながら、言葉にする南師と来住氏。

言語内的実存とおっしゃいますが、
表紙のなんとも言えない南師の表情を見ていると母性本能が出てきて、好き!ってなって。
いつか、恐山で南師と言葉なく見つめ合いたいな。

くわばら、くわばら、無常、無我。

「禅と福音」じっくり読みます。
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Unknown (Unknown)
2016-09-08 16:02:09
まあ、そういう感覚。
金剛般若経の雰囲気っていうか。
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Unknown (Unknown)
2016-09-08 11:56:24
空さえも空じきらないといけないっつうことですかね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-08 10:31:30
なんにもならんよ、只、坐る。
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Unknown (Unknown)
2016-09-08 10:30:05
言葉で説明できないものは真理ではない!
っていう理屈なんでしょ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-08 10:15:55
生活全般が禅。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-08 10:14:23
只、坐る。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-08 09:54:23
それ参禪は
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-08 09:46:47
坐禅ですね。
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諸行無「常」 絶対に「常」はない!   (イエスちゃん)
2016-09-08 08:57:24
を、解っているのか?

やはり、仏陀、ブッダ、目覚めが必要である!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-08 01:43:33
道元て只管打坐って言葉を生きたの?
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Unknown (Unknown)
2016-09-07 17:27:05
道元禅師や親鸞聖人は、言葉(日本語)を極めて知り尽くし、離れて、そこから生み出されたことを、発せられているからこそ、底知れぬというか得体の知れない言葉として、往き続けてるんでしょうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-07 12:38:49
まあ、ケースバイケースでしょうね。

絶対、というものは何もないから。仏教的には。
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Unknown (Unknown)
2016-09-07 12:05:10
「絶対に正しいものなんかない」という仏教の姿勢が、一番正しいんだと思うんだよね。笑
あと、経営者で座禅されている人がいるけど、彼らは禅の中のある教えが「使える」と思ったから、座禅をしているんだと思うよ。
それはそれで構わないんだろうけど、仏教の教えが自己の全実存を支配するようになった人は、そもそも経営者や政治家になろうとは思わないだろうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-07 11:45:03
一番正しいものなんかない、というのが仏教的思考だったりするけどね。

坐禅合宿をやる企業もいっぱいあるし。

もう少し、視野を広げてみたら?
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Unknown (Unknown)
2016-09-07 11:38:36
ドストエフスキーの世界観が絶対ではないことは、もちろんである。
しかしながら、現代社会はどう考えてもキリスト教的な世界観で成り立っているし、それが我々の思考の枠組みにも少なからず影響を与えている。
日本人の大半が「擬似キリスト教徒」といっても過言ではないのである。
私は、仏教的な世界観が恐らく一番正しいものだと思っている。しかしながら、世界史を見てみれば分かるように、歴史は常に強い者に支配権を与えてきた。キリスト教は思想的に強いから、武力で他の思想を圧倒し、世界中に広がったのである。
現代の日本で、仏教的世界観で生きるには、世間の価値観から「脱洗脳」されなくてはならず、それは裏を返せば社会への適応を辞めるということである。釈尊が「阿羅漢果に達した者は、もはや世俗には留まってはいられない」と何かの経典で言われていたように記憶しているが、その点で仏教とはまさに出世間の教えではないだろうか。
社会で成功したいと考えている人間には、仏教はあまり役に立たんだろう。また、仏教徒が経営者や政治家にはなれんだろう。
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一夜明けて (はてな)
2016-09-07 09:04:40
Unknown (「死の家の記録」)
2016-09-06 18:48:44

意識に遊ばれてしまうと収拾がつかない事態に陥りやすいでしょうね。 去年5月から1年以上投稿を断ち感じたことは、「心身一如」ですね。

現代人は何かしらの道具(手段)を用いますが、その典型として「パラリンピック」があります。 「身体と道具に加え、意識との絶妙なる一体感」が織り成す「その心身」から、あなたは「何を如何に」形容(思考)しますか。

社会の形成は、身体性を軽視(でしたね)しなければ成立しない(「コンピュータシステムや利益計上」の原理)ようになっております。 だからこそ、思考の在り方が問われますよね。  
返信する
 (はてな)
2016-09-07 06:51:08
>ただただ、お天道様に恥ずかしくないように生きるだけで、十分です。

ヒトは自然の産物ですが、犬猫や猿などより高度な意識を有しました。 それは、「記号」→「記録」→「通信」などの情報技術を持ったために、自然(お天道様)との乖離は進むばかりです。

身体性を無視(生存しているだけでよい)し「意識の成すがままの社会(例えば、金があれば生活に困らない)」を形成しているのですよ。
返信する
あのカラスは「生きる意味」を生きているのだろうか? (イエスちゃん)
2016-09-07 06:21:17
何を信じるのか?
それで変わります。

ドストエフスキーは、「ロシア正教の強烈な信者」です。
だから、「生きる意味」(=神の意思・命令)がないと、生きられません!

貴方は、ロシア正教の信者ですか?
もしも、信者でなければ、ドストエフスキーの言葉に縛られる必要はありません。

江戸時代は士農工商の身分制でした。
生き方が決まっていました。
「何のために生きるのか?」という疑問は起こりません。

ただただ、お天道様に恥ずかしくないように生きるだけで、十分です。

「自分探し」「自分の生きる意味」…
それがはっきりしないと生きられない!

これは、まったく、本末転倒です。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-07 01:28:09
素晴らしい発想の転換だと思います。

あなた以上に、あなたのことを思ってくれる人はいないのですから。。

o(*^ー^*)o
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-07 00:26:12
> 「頭に浮かぶ感情を全て否定してみろ。
 そして何も浮かばなくなったら、君は正解だ」

私は他者を否定して生きてきました。
人を信じたい理想の気持が強かった反面でありますが、
疑い、疑い、裏切られ、
結果、人間不信になりました。

他者を信じられなくなると、
自己否定に繋がり、何をどのように考えたらよいのか全く分からなくなりました。

そんな中、南師のブログに出会い、
最初は意味不明だったけれど、著書やブログ記事、それに対するコメントを読むにつれ、
無常、無我、空性、縁起を浅はかながら理解することができました。

私たちは根拠なく自己を生きていると理解したことで、、
人を疑う気持はなくなりました。
また、自己が傷つくことも本来はないのだと実感しました。

しかし、無常、無我、空性を知ったからとて、楽になる訳ではなくて、
脳が勝手に記憶している私の負のサンスカーラは根深く強く残っていた。
自己の思い込みによる負に引きずられる脳を、どうにか中道に戻したいので、
否定してきた分、肯定して脳に思い込ませようと思います。
全て肯定して何もなくなるまで実践していくつもりです。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 21:20:10
無理に禅を選択する必要はないよ。禅を必要な人にとって、必要なだけ。私はとても腑に落ちた。

南師も、よく言ってるよね。必要な人にとって使えるものであればいいって。
返信する
Unknown (「死の家の記録」)
2016-09-06 18:48:44
ドストエフスキーの著作である「死の家の記録」には、世の中で最も残酷な刑罰は「徹底的に無益で無意味な労働」であると書かれている。

↓以下引用↓
監獄では、受刑者にレンガを焼かせたり、壁を塗らせたり、畑を耕せたりした。
強制された苦役であっても、その仕事には目的があった。
働けば食料が生産され、家が建ってゆく。
自分の働く意味を見出せるから、苦しくとも耐えてゆける。
立派に仕上げようという気さえ起こす。
ところが、たとえば、水をひとつの桶から他の桶に移し、またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗くとか、土の山を一つの場所から他の場所に移し、またそれをもとに戻すとかいう作業をさせたら、囚人はおそらく4〜5日もしたら首を括ってしまうだろう。

このように、ドストエフスキーは目的を喪失した生の恐ろしさについて書いている。
また、彼は「カラマーゾフの兄弟」という著作で、「何のために生きるかという確固たる意識がなければ、その周りにたとえパンの山を積まれても、人間は…この地上に留まるよりは、むしろ自殺の道を選ぶに違いない。」と述べている。
つまり、人間は何か生きる意味や目的のようなものが無いと、生きることに耐えられないのだ。

禅は、「生きる意味は無い」と言い、また「輪廻も無い」と言って、死後の世界などのことはいちいち考えずに「今を生きろ」と言う。
修行を完成させた者は別として、一般の人が果たしてそれに耐えられるであろうか?
例えば、不条理に苦しんでいる人、社会の理不尽さに傷つけられた人に、その教えは役に立つのだろうか? 私には、耐えられない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 10:17:18
楽しいことと、ラクなことは違うよね。
楽しいことって、そんなにラクじゃないもの。
返信する
それから (Unknown)
2016-09-06 10:15:39
漱石をお読みになってみては。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 05:53:20
それから。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 05:36:27
考えるな、感じろ。

by ブルース・リー
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 04:40:42
楽しいことあるよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 02:14:55
楽して生きるなんて、所詮ムリなことだよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 01:57:28
聞いて、どーすんの。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-06 01:28:06
それで?結局貴方はどう生きてんの?
って事になるでしょ。
貪ってるでしょ?なるべく貪らないように、貪ってるでしょ?
右足と左足を交互に出す。って説明出来なくたって歩けるからね。

それより、楽して生きるってどうやるのかね?
難しくね?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-05 23:13:13
リアルが異なることを認め合うのが、仏教的な感覚。

フレームから抜け出して、無数の世界を眺めてみて!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-05 23:08:32
「人によってリアルな世界は異なる」から、対立が起きるってことも忘れてはいけない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-05 22:01:24
人によってリアルは違ってていいんです!ソコ、ポイント。

ね、道元さま!
返信する
言語の進化だといいな (そんぎょ)
2016-09-05 19:43:57
私は鈴木氏、西田氏と同郷の者ですが、是非の論理にしろ絶対無にしろ、北陸の土壌にある宗教感が2人の思想の基盤としてあるのは確かです。

本内容は難解でよく分からない部分もありましたが、同じ地で長らく生活された南さんが、単なる2人の批判ではなく、2人が言語化された成果の上で、ここでさらなる進化を試みているのであれば嬉しいです。
返信する
本文とは関係ありませんが (元一聴講者)
2016-09-05 16:41:16
このブログを見つけた時
コメント欄があることで
誰にでもオープンなスタンスという印象を受けて
混乱した時、その印象が浮かんで助かりました。
(今回のコメント欄は少しとっつきにくい気もしますが)

この時期、小学生の自殺が多いそうですね。
ちびっこ達も頑張っているので
私も頑張ろうと思いました。
返信する
同感です (はてな)
2016-09-05 16:39:35
私なりの解釈は、何もかもトントン拍子で行くことが最大の苦であり、自然はうまくできているということです。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-05 16:37:31
イエスちゃん、ありがとね。
返信する
Unknown (ZIP)
2016-09-05 16:25:50
生きるという事は
苦である。

仏陀が人間を現象学的還元によって
導き出した結論である。
返信する
私も同感です (はてな)
2016-09-05 16:13:43
>「自己」とは、言葉に依って「虚構されたもの」!「死苦」とは、この「自己」の滅亡を恐怖する心理現象から起こってくる!自己とは「実体」ではなく「現象」である!

>縁起とは、全てが「実体」ではなく、《関係して》、「現象」として《生起している》という世界観である。

猿の惑星という映画で「地球」だったことを知らされる場面がありましたが、それと同じようなことでプロセスはどうであれ「如何なる事態で在っても受容する」でいいのだと思っておりますがね。
返信する
縁起とは、全てが「実体」ではなく、《関係して》、「現象」として《生起している》という世界観である。 (イエスちゃん)
2016-09-05 15:48:16
釈尊の仏教:「縁起」とは、

全てが「実体」ではなく、
《関係して》、「現象」として
《生起している》
という世界観である。

諸行無常
諸法無我

・一つ一つの「細胞」(人は何億もの細胞)
・「頭脳」や「心臓」や「肝臓」や・・・臓器、それの「集合体」
・「それの調和して働く全体」としての「自己」
・「男と女という形態」
・「家族」「地域共同体」「日本国民」「アジア人」・・・
・「人類」…植物…動物…
・「地球生態系」
・「無生物を含めた地球全体」

これが解って、ようやく「死苦」が消える!
返信する
「自己」とは、言葉に依って「虚構されたもの」!「死苦」とは、この「自己」の滅亡を恐怖する心理現象から起こってくる!自己とは「実体」ではなく「現象」である! (イエスちゃん)
2016-09-05 15:31:08


「本当に」生きているものは「何もの」なのか?

・本当に生きているのは、一つ一つの「細胞」である。(人は何億もの細胞)

・ちがう、「頭脳」や「心臓」や「肝臓」や・・・臓器、それの「集合体」である。
・いや違う、「それの調和して働く全体」としての「自己」である。


・いやまったく違う。貴方は「男」か「女」かどちらかでしょう。
女だけでは、滅亡する。男だけでも・・・
つまり、「個体」は「生きる単位」ではない。
「男と女という形態」で、ようやく生きている!
・いや違う。「家族」だ。「地域共同体」、更に「日本国民」「アジア人」・・・

・いや全く違う!「人類」だけでは、生きていけない。
植物を食べ、動物を食い、生きているではないか!

・本当は、「地球生態系」が生きているのだ!
・いや、「無生物を含めた地球全体」が、本当は生きているのだ。


結局、「何が」本当に生きているのか?

ここで、重要なのは、
人間が「言葉」で、「概念」で世界を分割して観るから、

本当に「何が」生きているのか?

という愚問が発せられたのだ!


「自己」も「言葉の虚構」であり、実体ではない。
「自己」が単位で生きているという事は、
「言葉の世界」で起こる「錯覚」である。
返信する
密教は「ブラフマ二ズムのパラダイム」つまり、「梵我一如」の世界観!…趙州従諗は否定する! (イエスちゃん)
2016-09-05 14:44:49
密教とは、本質的に「ブラフマ二ズムのパラダイム」
つまり、「《梵》《我》一如」の世界観である。

「《宇宙原理》のブラフマン、
それが《真実の自己》アートマンと、
一如、《真実には、一つのもの》である」

もしも、このように信じる事ができれば、安心する人がいる。

しかし、歴史上の釈尊は、これを捨てた。
これこそが「言葉」作用による「虚構」であるから。

逆に言えば、
密教では「言葉」に酔い痴れる!
「呪文」「陀羅尼」で、解決できると、妄信している!

釈尊は、六年間の厳しい修行によって、ようやく、これを捨てる事ができた。
それ程、人間にとって「言葉」は頑固な呪縛であった。

現在、趙州従諗
(じょうしゅう じゅうしん、778年 - 897年)
の語録を読んでいるところだが、
これこそが真正面からの言語批判である!

唐代の末期は、禅の巨匠が輩出され、その間で、喧々諤々であった。

なぜ、現在の禅宗で、これがなくなったのか?
返信する
仰るとおりですよ (はてな)
2016-09-05 14:36:11
>だから、それがとらわれなんだって!残念!
貴方が「ことば」を使って説明することが、ご自身をNEXTへと向かわせますよ。

私が感じることは、仏教用語を駆使?したい方は、「ことば」にとらわれていますね。 直哉さんのように、必要に応じて仏教用語を用いる方と「どこor何が」異なると思われますか?

私の意見
諸行無常や縁起という「ことば」に実感を覚えられていないからでしょうね。 それは、「ヒト=ことば」という自然を感じていないことであって、情報(この場合、特に言語)に自己が支配されているからです。

自己を実感(自然現象ですね)していれば、否が応でも「自分のことば」を使わざるを得ません。 何故ならば、「ヒト=ことば」=自然の産物だからです。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-05 13:23:11
だから、それがとらわれなんだって!残念!
返信する
ここで言う『自己の持つ偏見』とは、「言語」思考のことであり、具体的には「我」「自己」「真実の自分」・・・を実在と考える事である! (イエスちゃん)
2016-09-05 13:12:52
南師が・・・

十二支縁起の始端・である
「無明」とは、「根源的欲望」などではなく「言語」のことである。

・・・と説明する。

つまり、人類に普遍的な「言語」思考のことであり、
「言語の世界を、実在と認識する誤り」のことである。

だから、これが、他の宗教批判ともなる。

道元の「正法眼蔵」が、理解が困難なのは、
「言語」を用いて、この「言語というもの」そのものを批判しているからである。


「密教」はインドでは「最後の仏教」であり、
信者を増やす為に当時の民衆のインド古来のヒンドゥ教を大幅に導入して、
儀式中心にして、呪術を「真言」として導入し、
結果的に「釈尊の仏教を否定するもの」に変質し、
インド社会では、不要なものになり、自滅した。

具体的には、釈尊は、ヒンドゥ教の聖人の一人に、成り下がった。


仏教の代わりに、ヒンドゥ教の対抗思想は、イスラム教となり、現在まで続いている。

唐代の禅宗は、この言語批判、言語との格闘であった。
禅の語録を読むと、良く分かる。


他方、瑩山紹瑾禅師は、この「密教」を導入した。
それは、信者を増やす為に。
お寺で、「陀羅尼」を唱えるようになった。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 11:45:51
誤った道、とか言ってるイエスちゃんは、まだまだとらわれている。釈尊、道元禅師の境地をまだまだ、分かってるとは言えないな〜。
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仏教は自己の持つ偏見を取り去るだけ!釈尊は当時の真理バラモン教を捨てた!救いの役に立たなかったから。道元和尚も捨てた… (イエスちゃん)
2016-09-05 10:54:52
そもそも仏教は、自分の中の偏見を取り去るだけ!

だから、釈尊は、当時誰もが信じていた「真理」のバラモン教を捨てた!
それは、実際に自分の救いの役に立たなかったから。
代わりに多くの師匠について修行したが、またしても、その師匠の境地では、救われなかった。

そこで、しかたなく師匠なしで自分自身で、死ぬほどの苦行もし試行錯誤しながら、とうとう禅定で、自己の偏見から解放され、
その時に、同時に「死の苦」から解放された。

道元和尚の場合も同じである。
それは捨て続ける道であり、
この自己の偏見を捨てることで、解決に至った。

道元和尚は、当時の中国の禅宗での「三教一致」思想を、強烈に批判した。

「儒教・道教・仏教が、同じ真理を教える」
これは、釈尊の仏教を、否定するものであると。

そもそも、釈尊の仏教も、道元和尚の仏道も、それまでの自分の偏見を捨て去るだけであった。
そして、そこに「苦からの解放」があった。
ただただ「坐禅」だけが、その道であった。

他方、瑩山禅師は、密教にも、こころを惹かれ、自分の儀式に大量に導入した。
以後の誤まった道を、曹洞宗に注ぎ込んだ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 08:40:07
シュペングラーだったら、インターネットこそテクノロジズム(技術主義)というカルトが生み出した最たるもの、という認識をするの思うよ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 06:57:54
ライフスタイルも常に見直しが必要って事だと思う。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 02:56:07
1918年の哲学者シュペングラーはインターネットの社会を知らない。彼の言う事と現代、更に未来の情報社会の現実には多分大きな乖離が在る。
現代に生きているシュペングラーなら何て言うのか検討する必要がある。選別的分析能力が現代人の我々には課せられている。

(それは仏教でも同じだ。)
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 02:49:18
「国破れて山河あり」は常に繰り返す。
しかしより開放された情報社会に於いては、
国破れる頻度は減少はしている訳だが・・・問題は常に襲ってくる。

でも世界を見ない驕りに眼が眩んだ外敵が襲って来る可能性があるなら対応法は想定内に入れておくべきであろう。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 02:40:29
>驕り

驕りとは他者がする批判の事だから、本人は自覚しない(忠言を聞いて本人が自覚すれば訂正の言葉を表明する筈だ)。

釈迦の悟りと道元さんの悟りのどちらが深かったかを比較する事は無理だ。

両者の持っていた情報量は道元さんの方が多いかったのかもしれない。
釈迦が全世界的に後世まで普遍的に通用する神がかり的な悟りを開いたのかどうかは分からない。
道元さんもしかりだ。
もし誰かの悟りを驕りだとするなら、それは貴方の感性の反応であり、当人たちには一切関係ない事だ。

単に自分が共感し合意して、自分の生きるモットー(=名言)にするかしないかの個人的解釈に過ぎない。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 01:55:55
なんか日本は、ケニアに3兆円あげたんだって。
また犠牲国を増やすらしい。
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「西洋の没落」 (Unknown)
2016-09-05 01:42:30
1918年に、ドイツの哲学者O.シュペングラーが著した「西洋の没落」という本がある。この本は、西洋文明の没落を予言したものであるが、ここで提示されている世界観が仏教のそれと極めて近いもので非常に興味深かった。

この本によると、歴史とは進化を続けるものではなく、生成と衰退を繰り返すものだそうだ。
古代のあらゆる文明を調べても、季節が移り変わるように、生成と衰退を繰り返しているらしい。
文明が秋から冬に差し掛かると、①新宗教への異様な熱狂と、②新技術への異常な関心が巻き起こるのも共通しているそうだ。
また、シュペングラーは母なる大地から切り離された世界都市に住む人々の運命も予言している。同時にそれは文明の没落の予言でもある。

↓以下要約↓
世界都市は、あらゆる伝統から切り離された抽象的・形式的な力が支配する社会であり、そこに群集する人間は、故郷を持たない頭でっかちの流浪の民、すなわち文明人である。
彼らは、日常的な労働の緊張をスポーツ・快楽(セックス)・賭博という別の緊張によって解消する。
このように大地を離れ、極度に強化された知的生活からは、不妊の減少が生じる。人口の減少が数百年に渡って続き、世界都市は廃墟となる。知性は、空洞化された民主主義とともに破壊され、無制限の戦争を伴って文明は崩壊する。経済が思想・宗教・政治を支配した末に、文明は21世紀で滅びるのである。

現代の日本の状況と比較すると、なんとも的を得た予言ではないだろうか!
最後に、シュペングラーは「これは歴史の法則で、止める術はないのだから、哲学や芸術など辞めて、さっさと技術者かマネジャーにでもなって滅びを早めるがよい」という、恐ろしいニヒリズムでこの本を締めくくっている。

この本を参考にして考えると、現代の日本は完全に文明の「冬期」に入っているのではないだろうか。現代では存在論的な「価値」への問いがほとんど消滅し、あるのは膨大な情報と刺激のみだ。つまり、実存的苦に向き合う場がほとんど無くなってしまっているのだ。仏教に興味を持つような人間は、厄介な時代に生まれてしまったとしか言いようがない。笑

我々に可能なことは、文明の没落を出来る限り遅らせることしかないだろう。そして、仏教者ならばこの残酷な現実を踏まえつつも、自己と周りの人間がなるべく幸福な生活を送ることが出来るように、コツコツと努力していくしかない。
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 01:35:01
不在、コメ投稿暫く休止
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訂正 (Unknown)
2016-09-05 00:06:27
唯一無比の絶対真理・・・・>唯一無二の絶対真理
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Unknown (Unknown)
2016-09-05 00:04:28
そう、もう賭けてみるしかしょうがない。
だって、唯一無比の絶対真理が何なんて
人間には分からないのだから!!
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 23:28:29
キリスト教然り、イスラム教然り、バラモン教然り、・・・
仏教もその拡がっていく先々で民族宗教を成立させた。

キリスト教の中心にイエスがいるが、イエスがキリスト教を作った訳では無い。
釈迦が仏教の中心にいるが、釈迦が仏教を作った訳で無い。

場所・時代によって最適合化していく運命に在る。それが宗教の本質である。なぜなら今生きている人に救いを与える為にはそれが必然だから・・・。

南さんは自分の問題解決の為に、仏教に賭けてみたと言っている。自分の問題解決に役に立たない教義は邪魔である。仏教は自分が救いを得る為の手段である。自分の処世術なのだ。

とすれば達磨教(日本達磨宗)もその一つの流れにすぎない。で、達磨教何がいけないの???

日本仏教史を探ると、日本仏教業界での単なる権力抗争にみえるが??
みな釈迦を中心に掲げるが、釈迦が仏教を作ったのではない。後世の僧侶が時代・場所にあわせて創作して行ったのだ。

であればその中から真理を嗅ぎ分けるのが我らの務め、という事か??
自分が共感して合意してしまえば、もうしょうがない??
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 22:28:39
大学に入ったら、受験参考書はもういらね~、っていう事かな??
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不変とは (はてな)
2016-09-04 21:59:48
「記憶に残る」と考えてもらっていいですよ。 怖いこと(洗脳)ですよ。
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意識が「情報に支配」される (はてな)
2016-09-04 21:56:41
それは、「情報が有する特性」に支配されるということですよ。

意識は「諸行無常」ですが、情報は不変(上書きされても)だからですね。

もう既にそうなっていますが、圧倒的大多数の者にはわからないでしょうね。
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自然の産物 (はてな)
2016-09-04 21:38:45
意識が「ことば=ヒト」を形成させたのだから、「ことば」と「ヒト」の相性が良いのは当然であったが、今後益々、「ことばを越えた情報」が社会の形成を支配することになりますね。

つまりそれは、共同体であれば「命令とあれば行く」「指示があればやる」のように、人間不在の社会形成が進むことになるということですね。

それは、個人的行為でも同じことで「情報に支配された社会」なるが故の現象ですね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 18:00:56
救われるだけで、仏教がいらない、とは傲慢なのではないでしょうか。

道元禅師が、何かを解っちゃったとしても、釈尊の域にまでは達していなかった、至っていなかったことは、重々承知されていたのではないでしょうか。

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Unknown (Unknown)
2016-09-04 17:50:48
失礼ですが、
イエスちゃんは、70代でしたっけ?
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道元和尚は、一生日本達磨宗を否定し続けた。しかし、瑩山禅師は日本達磨宗にしがみついた! (イエスちゃん)
2016-09-04 16:19:39
道元和尚は、一生涯、日本達磨宗を否定し続けた
(洗脳された弟子たちがいたから)。
しかし、瑩山禅師は、この日本達磨宗にしがみついた!

日本達磨宗は、比叡山などから大弾圧を受けて、道元和尚の下に大量に流れ込んできた。
臨済宗栄西禅師などは、日本達磨宗に迷惑を掛けられ、排除する側の急先鋒であった。
臨済宗の側は、日本達磨宗を受け入れなかったので、必然的に、道元和尚の下しかなかった。

しかし、道元の重要な弟子たちはみな、イニシエーションされた日本達磨宗の洗脳から、抜け出すことがなかななできなかった。

だから、瑩山禅師の代になると、後退して、完全に日本達磨宗に戻ってしまった。
瑩山禅師は「日本達磨宗の印可状」を大切に引き継いでいった。

つまり、瑩山禅師は「道元和尚の坐禅の教え」が、理解できなくなってしまっていたのだ。

瑩山禅師は、どうでもよい。

重要なことは、
道元和尚は、なぜ「日本達磨宗」を否定し続けたのか!
である。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 15:37:03
そ~そ~。最後は仏教要らなくなったって事。悟りを開いた後はね。仏教は真理を学ぶための教科書だからね。

釈迦曰く、彼岸に渡れば、筏(いかだ=仏法)は最早不要である・・・と説いている。
筏=仏教はあくまで手段である、の意味。

だから道元和尚も「全てが解っちゃた後には(=自分の体それ自身として体現されちゃえば=全てが自然体となれば=眼が横に在り鼻が縦にあれば)、今更仏法は何一つ(一ゴウも)必要無くなるのだ」と言った(多分ね??)。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 15:20:55
そんな〜(;>Д<)

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Unknown (Unknown)
2016-09-04 12:49:22
仏教に救われ、最後は「仏教いらなくね?」ってなった?
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 12:24:07
とにかく、「聖なるもの」が個人や社会の中に組み込まれていないと、その個人や社会は滅びるというのは間違いないだろうね。
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追追加 (Unknown)
2016-09-04 12:09:33
上記の二つの等式が人が救いを見出す方程式であり、

「無神論=自力本願=この世の否定」は成り立たない。なぜならそれは人類滅びの方程式となるからだ=ニヒリズム
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追加 (Unknown)
2016-09-04 12:01:40
以上から考えると、

有神論=他力本願=この世の否定
無神論=自力本願=この世の肯定

という等式が成り立っている
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 11:34:19
親鸞会の場合は、「悩み・苦しみは浄土の存在を知らないから起きるのだ。ただひたすら浄土めざしてこの世を精進すれば悩み・苦しみは無くなる」という考え方。この世は浄土へ行くための仮設場ナリ、とこの世についてはやや否定的。

釈迦の立場は、この世は苦で満たされている如くであるが精進(=修行)すれば、「この世は美しく人生は甘美」に見えるようになるモノだ、と最終的にはこの世の肯定。

道元和尚の立場は「仏道を習うと言うは、自己を捨てて身心脱落」、ではあるが最終的結論は「眼は横に在って、鼻は縦に在る、一ゴウの仏法も無し」と悟り、
瑩山和尚も又「腹のすいた時は食べ、疲れた時には寝る、平常心こそ道なり」(日々是精進・日々是好日)と、

両師は苦を突き抜けた後は、この世を肯定して、「ごく、あたりまえに生きてよいのだ」という事を教えられた。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 09:06:15
「違っている」のはいいと思うけど、「間違っている」のはやっぱ嫌だよね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 08:55:07
来世のために生きるのではなく、今を生きることを教えているのが、仏教なのではないかしらん?
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 08:38:25
>間違ってるって言われるのがいやって感じ?
自分が「それじゃなくて」と思ってるようなものとして(誰かにとって)映ってるんじゃないかと思うことがいやって感じ?

本当にイヤなのかな?

違ってるから、面白いことも学びもあるのでは?

違いを認められないのかな。

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Unknown (Unknown)
2016-09-04 08:19:04
>来世が無い「から(=なら)」やる気が出ない~~

即ち来世があればやる気が出る・・・
これは、人が悩むのは浄土の存在を知らないからだ、という親鸞会のキャッチコピーと同じですね。真に信心出来れば、それはそれで素晴らしいですけど・・。

これ即ち、大学受験があるから勉強する、という発想法という事ですよね。大学受験が無いなら勉強したくないという訳です。遊んでいた方が楽チン!!となるわけです。

でも、この世に生きて人生を全う(=充実)出来れば、あの世なんて無くてもいい、と思う発想も存在するわけです。何か自分自身に「やったぜベイビー!!」ってニンマリしたい訳です。

では何故考え方が変わるかというと、今、自分の人生は不完全燃焼状態でやるせないという現実に対して、他力本願にするか自力本願にするかの差が現れて来るという事なのでしょうか。
どちらが良い悪いと言う事より人の個性なのかも知れません。
自分に適した方向で、この先の一歩を踏み出すという事に成るのでしょうか??

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Unknown (Unknown)
2016-09-04 08:07:38
間違ってるって言われるのがいやって感じ?

自分が「それじゃなくて」と思ってるようなものとして(誰かにとって)映ってるんじゃないかと思うことがいやって感じ?

それは、賭けても同じってことみたい。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 07:37:04
価値観とか意味とかって、凡夫にわかることでもなく、後付けだったりするのでは?
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Unknown (浅野)
2016-09-04 07:07:58
確かに、南さんのように、公に対し、これに賭けた、これで行く、と宣言できる意志は激烈なもので、尋常ではない。
南さんも出家する前に、あとは実践する他ない、という心境に至ったのは参考になる。つまり、理想や観念だけではだめで、現実の混沌とした状況が目前にある。現実と向き合う必要がある。
できる範囲で、できることから行動を行為を実践していけば、感情も変化していくはず。
ただ、エネルギーが枯渇していれば休養し生活を見直して、エネルギー過剰ならば、対話などして、理想を下げたり、現実の適切な状況や立場、位置の把握に努めてはどうか。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 07:05:58
リアルは人によって異なる、という客観視を出来るゆとりが、実は釈尊の感覚なのかな?
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 03:04:32
以前ウチに来ていたエホバの人。
俺と同年代で、子供が二人いる。初めて来た時は、
見た目は病弱っぽくて、「布教に来てる場合か?」と思った。
その人も幼稚園の頃から死を意識して、母親に泣いてすがったそうだ。ある時母親は、友人に貰ったエホバの冊子を思い出し、「これでも読んで見たら?」と彼に渡した。それがエホバに入ったきっかけ。

彼とは、仏教の話もしたし、キツめの質問にも笑って答えてくれた。奥さんを連れて来た時は、少し照れくさそうにしてた。
俺が引っ越す事になり、近場だから住所も教えた。
暫く来ないと思ったら、亡くなってたよ。奥さんが遺品から、メモ見付かったからって来てくれた。
玄関先じゃ泣けねーから、こらえたわ。

今は仲間の人が来る。たまに彼の娘さんも連れて。真っ直ぐ育ってる良い子だ。
たまに思うのは、彼は終末までちゃんと待機してんのかな?って事。よくわからんけど、しててほしい。
長々書いたけど要は、彼は神を受け入れて前に進んだ人。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 02:14:36
一滴の水が大海に入り、一塵が大地に埋まる時、一滴はもはや大海であり、一塵はもはや大地である。


澤木 興道
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 02:07:29
何年も引きこもっている人のブログを見た事がある。彼の文章は、ここの誰よりも難解で二、三質問した事があるが、意味が違うと返された。
彼は、過去から現在までの感情を一つ一つ分析し、更に細分化して枝葉の様になった問題に深く潜っていた。まさに問題を解決しないと前に進めないタイプだ。
今にして思うと、彼の悩みを大雑把に考えると「どうしたら前に進めるか?」だったのだと思う。
前に進む理由が解らないから、前に進まないんだ。
知恵を付けてしまったばっかりに、以前出来た事が出来なくなってしまった。

人間以外の生物が聞いたら失笑されそうだ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 02:02:05
コメントありがとう。とても参考になった。失礼なことも書いているのに、ここでの議論はいつも面白くて役に立つから有り難い。

言われるように、最後は自分の「覚悟をもった決断」にしか根拠はないと思う。何かを選択するってことは、何かを捨てることになるわけで、結果がどうなろうと自分が責任を負うしかないから。
それを考える際に、仏教的な論理や道徳は参考になるよね。

ただ、ひねくれついでにもう一個だけ言わせてもらうと、「来世がないからやる気が出ないのは、ただの言い訳に過ぎない」ってのはちょっと引っかかる。
確かにその通りなんだけど、人間が何かを選択するためには、その人なりの「価値観」が必要だよね? 昔だったら、社会がその価値を与えてくれたけど、現代ではその価値観さえも自分で選ばなくてはいけない時代だよね? そして、その価値が正しいかどうかって自分勝手に決められるわけではないよね? それは、やっぱり哲学や宗教や他者の意見を参考にせざるを得ないわけで。
そこでさらに厄介なのは、哲学や宗教には複数の真実があって、それさえも個人の選択に任せられているという点。そして、その選択には何の根拠もない。ドストエフスキーも言っているけど、「人間は自分の神を選択できるほど強くない。」それが出来るのは南さんのような一部の強い人間だけで、多くの人には出来ない。俺はそれを選択しようとしているけど、どうしても出来ない。自分の直感を信じられないからだ。
そうやって、やる気が無くなっていく人間が、死後の世界観に答えを求めるのを非難するのは、余りにも酷じゃないか?
魂の存在や、死後の世界観なんて人間の頭が作り出した妄想に過ぎないのかもしれない。でも、我々はそれをどうたって求めてしまうじゃないか。釈尊だって、その不安が無かったら出家なんてしなかっただろうし、信仰が善かれ悪しかれ物凄い力・生の充実を生み出すのもまた事実じゃないか。
その問題を全て棚上げにすることは、今の俺には出来ない。

結論としては「回答者の方の意見はたぶん正しい。でも、今の俺には出来ない。」っていうことだと思います。長々とすいません。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-04 01:27:27
「何かしら善なるものを求め」て生きていこう。
曖昧だが、それ以外、ない。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 01:11:15
頭脳明晰な(自己解釈)zipさんであっても自死の観念を消し去ることは出来ないのですか・・・
困ったな・・・
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Unknown (お転馬)
2016-09-04 01:01:10
勉強になるっぺ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-04 00:28:34
南さんの場合だったら、自分の抱えている問題解決の為には、仏教に賭けてみるしかないと思って出家した。つまり出世間、世間を捨てたと言う事だよね。賭けに出た訳だよ。

何かを得る為には何かを捨てるしかないのは真理だと思うよ。仏教は捨てる事から始まるとも言うし・・・。

対人関係と将来の不安があっても、特に何かを捨てる気分じゃない時は、それもしょうがないかと思って居坐って居られるという事だから、

真に何かを捨てる決心が出来るまでは、なるべく視野を広く持てる様にあっちこっちの世界を垣間見る、世間の実情を広く見て色々な人の生き方を観察する・知る・昔の人の生き様を知る(=尚友とする)、という人物像探求に心がければ、

その内、自分が倣いたいと思うロールモデルが見つかると思うよね。
まあ今は潜伏して少しずつ行動のエネルギーを蓄えて行けばその内爆発するよ。

又は、君の好むと好まざるとには関係なく自分がはじき出される事態になる事だってあるし、その時には自分の内部にどれだけエネルギーを蓄えて来たかが自業自得因果説が適用される訳だね。

まあその『時』に気付いたとしても、逆に身重になり過ぎて、既に「時遅し」と思うかも知れないけど、
そうなったらそれを受け入れて、そこで生き残る新たな思考法を発見するという事になる事もあるね。

常に模索する・・・がキーワードって事かな。君の仏教覗きは結構役に立ってるみたいじゃん。

逆に世界(世間)を見ないで内に内にと閉塞していくとうつ病になるから気をつけてね。
「来世が存在しなければやる気が出ない」と言うのは言い訳に過ぎないと自分でもわかってるみたいじゃん。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 16:21:09
最終的には、引き受けるか否かになるのかな?
Zip君は肥溜を生きる決断を、今のところしてる様だ。
エネルギーが枯渇している状態で色々考えても、多分ろくな答えは出ない。
何でもいい。旅行がしたいとか、美味しい料理が食べたいとか、ムラムラするとか。そのエネルギーを上手く変換して、色んな事に使ったらどうか?
問題を解決しないと前に進めないのは、非効率だ。
死んだらおしまい。なんて皆考えてる。
俺君が考える、頭に浮かぶ感情を全て否定してみろ。そして何も浮かばなくなったら、君は正解だ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 16:20:06
閉塞感は誰もが襲われる心理状態だけど、昂じさせるとうつ病になるよね。

例えばネットで「閉塞感からの解放」とかのキーワードで検索かけてみると色々な記事が出て来るよね。

それらを読み漁ってみて自分に参考になる事をすればかなり視点が変わって来ると思うよ。

要は自分に出来そうな行動を実際に実行しない限り解決の方法はないという事につきるよね。

仏教は、視点を変えればどんな生き方にでも耐えていけるという事を示しているけど、実際に行動するかどうかを決めるのは自分だからね。
そういう意味で『息身佛』(曹洞宗総持寺元貫主板橋師)は「仏教で人は救えません」と書いているよね。自灯明が自分を救うという意味だよね。

俺にとっては仏教も色々考える視点を与えて呉れる一つの手段として利用させて貰っているよ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 15:46:00
例えば、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本の中で述べたように、信仰はその人の実存を丸ごと変えるほど大きな力を持ってるんだよね。
そもそも、現代の資本主義や民主主義ってのも、プロテスタントの教義から出発しているわけだし。
プロテスタントの信者が何故熱心に働いたかというと、仕事を神から与えられた「天職」だと考えていたからなんだよ。神の子に相応しい行い(=労働)をすることによって、死後神の救済にあずかることができると心から信じていたわけで。
だから、「魂や死後の世界の問題と今の問題は関係ない」っていうのは、俺は絶対に違うと思う。
信仰は、人間の行動に大きな力を与えてくれるもんなんだよ。
禅の教えは、魂や死後の世界の問題は考えずに、とにかく「今」を一生懸命生きることだと俺は思っている。
それが一番正しいとは思うけど、本当にそれを実行するには相当な精神力が必要だろう。少なくとも、今の俺にはできない。やっぱり、俺みたいな凡夫には生きる力を与えてくれる「信仰」のようなものが必要なんだよ。
そうでないと、何が正しいのか間違っているのかを選択する価値基準が分からなくなって、生きる気力さえ失ってしまう。それで良いのかも知れないけど。

ついでに言うと、キリスト教からは政治的なイデオロギーが生まれて、政治や社会制度全般に影響を与えたが、仏教は基本的に個人救済なので、政治や社会制度に影響を与えることはこれまでほとんど無かったし、これからもそうだろう。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 15:13:03
それとも、目の前の問題を解決しなければ
もう今死ぬしかない、ぐらいの話なの?
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 15:07:46
努力して生きても死ぬから意味がない、といえば「まあ、そうだよね」。
でも別に、死なないために努力するんだとは思ってないでしょ?
意味っていうなら、何のために努力するんだと思う?
魂や死後の世界があればっていっても、今の自分の前って、知ってる?知らなくない?
あったとしても今知らない(憶えてない)なら、やっぱりしょうがないよね。

目の前の問題を解決しなくても死ぬまで生きていけるんなら、別にいいんじゃない?だめなの?
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 14:53:37
コメントありがとう。

貴方のおっしゃるように、俺には別の問題がある。それは対人関係や将来の不安等に起因する問題だが、ここにコメントしているのも、その根本の問題から逃げているだけなのかもしれない。仏教の議論をしていれば目の前の問題を直視しなくて済むから。

だが、今の俺には「それが何になると言うんだ?」としか思えない。目の前の問題を解決したってしなくたって人生は続くし、最後には皆等しく死ぬ。なのになぜ、目の前の問題を解決しなくてはいけないんだ? 魂や死後の世界に影響するのであれば、まだ分かる。しかし、それら全てを否定するなら人間が生きる意味も失われるではないか。それならば、日々苦しいことをせず楽に生きたいと思うのは当たり前じゃないか。

仏教で、問題にアプローチする様々な方法を身に付けられたり、問題を解決することで自分の感情にも変化が起こるのも、全てその通りだと思う。しかし、それは根本的な解決にはならないし、それをしようとしまいと人間は必ず死ぬ。死の前ではそれらの努力は全て無意味になってしまうんじゃないか? 魂や死後の世界を全て否定して、どうやって人間の生や努力に対して、意味や価値を与えるんだ? もし、それが与えられないなら、仏教なんて一部の世捨て人がやる宗教であり、(俺も含めて)一般の人々の救いにはならない。
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合意≠論理 (はてな)
2016-09-03 14:34:12
不確定性原理や不完全性定理を持ち出さないまでも「ヒトほど曖昧」な存在は在りません。

何故なのか
それはもう、『ヒトとことば』の相性のよさですね。 如何なることばを使っても「同一性」が維持されるのでヒトのヒトたる根源的意識にベストマッチなのですね。

情報の多様化(種類や上書きサイクルなど)が進んでも「ことば」を介在させる限り受容してしまいます。 つまり、更なる進化の可能性を秘めた存在なのですよね。
返信する
俺君と後者 (Unknown)
2016-09-03 14:15:59
解った様に書いたけど、俺も後者の部類だ。
心の奥にはいつも、俺君と同じような感情がある。

俺君は、ここに合う様に疑問を書いているけれど、問題は違う所にある様に感じる。
俺が仏教で得た事のひとつは、問題を多角的に見たり、解体してみたり、棚に上げてみたり出来る様になってきた事だ。

出来ない事が出来る様になったり、知らない事が解る様になったりしたら、俺の感情にも変化が起こる気がする。俺はそれを求めてる。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 11:16:25
コメントありがとう。とても分かりやすく書いてあった。

おっしゃるように、他者との関係性から自己が成り立つのだから、自己を幸せにするには他者を幸せにすることが大切だと思う。逆に考えると、他者に排除された人間はその関係性を否定しにかかるから、自己を破壊したり、他者を傷つけたりするのだと思う。

だからやっぱり、最後は理屈じゃなくて感情なんだよな。自分が認められているという感覚があって、他者を大切にしようと思えるかどうか。

俺は今はどちらかといえば後者のひねくれた人間だから、関係性に対してどうしても否定的になってしまうけど、そんな人間に前者になるように強制することって出来るのか? 俺はまだそうするつもりはないのだが。やはり、最後は自己努力が必要になるんだろうけど。
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俺君と慈悲 (Unknown)
2016-09-03 10:27:12
俺が考える慈悲の解釈は、私を構成しているものが私以外のもので出来ているから。

私と貴方の違いは、この世全ての物(物や人や情報)との関係性の違い。イメージするなら、関係性が輪になって私を囲んでいる状態。
私と思っていた輪の内側は空っぽで、この関係性の輪自体が私。
だから、私を輝かせたいなら輪の内側に光を当てるのでは無くて、私以外の輪の部分に光を当てる。
それによって、私と言うものの輪郭がはっきりする=私が輝く事になる。

慈悲とか利他行ってこんな感じかな?って思うんだ。
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絶対矛盾について (はてな)
2016-09-03 10:20:00
現在において、意識の存在が意味づけされておりませんので合意(共有)に至れるかは?ですが、それをもたらす自己同一性からはじめます。

同一性そのものの認識は人類以外でも有しますが、ヒトとして進化するには「ことば」が必要不可欠です。 「狼の遠吠え」のような音での意思表示には、音域認識が不可欠なので絶対音感が必要ですが、意思表示をより機能化させるには、音(声)に意味を持たせ「ことば」で行うと優位性が生じます。 自己同一意識は自然界での生存に不可欠ですが、「ことば」にも同一性が不可欠なのです。

がしかし、何故か「ことば」は「同一性」有しているのです。 私にしてみれば、人間原理に匹敵するほど不思議で興味深いことです。 

それは兎も角、ことばを認識することは並大抵のことではありません。 ここでヒトとサルとの分化(二足歩行=機能性の向上)が起こったと私は考えております。 ここで「絶対音感」は意思の疎通(合意形成)を原理的に複雑にさせるので一般社会では廃れて現在に至り、交響曲などの高度の音域領域での合意(共有)を要する分野でのみ存在しております。 余談ですが、感度の高い音域で合意(共有)することは、一般のことばのみでは共有できない事態を醸し出せますので独特の領域を共有させてくれるでしょうね。

「ことば」を得ると意識(物質的には、特に脳ですね)領域が高機能化(進化)します。 すると面白い(私にしてみると)事態が発生します。 単なる生存のための自己意識に加えて、意識領域における自己意識(新たな欲望=考えれば分かるでしょう)が生じます。

説明不足でしょうが、ここで「自己の矛盾」が生じます。 それを『絶対矛盾』と私は認識しているのです。

更に言えば、重要なことは、知能ではなく『知性』であって、知能を駆使するものの「その先、NEXT」へと自己を向かわせる『気づき=知性』を得ることでしょう。

そのためには、睡眠などの無意識領域も重要だが、顕在意識領域では『冷静』に思考を重ねることが課題解決への道になります。 

意識が絶対矛盾を生じさせているだけのことであるのだから、自己の環境(楽だとか苦しいとか)に右往左往せず冷静さを維持することが需要ですよ。 知性は感性領域に属するのですからね。
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追加 (Unknown)
2016-09-03 10:10:09
坐禅して丹田呼吸すれば肝が据わる事確実だよね。「心頭滅却して火もまた涼し」は坐禅人の心意気なんだと思うよね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 10:02:32
考え方によっては、仏教はどんな状況にあってもしぶとく生き抜く為の考え方とか自衛手段を教えているとも言えるね。

権力になびかない自灯明、どんな局面でも耐えてやっていける強さを教えている事にもなる訳だし。国破れて山河ありを見越して、勇気を持って山河で独立自尊で生きる智慧を持っているとも言える訳だし。釈迦の生き様がまさにそうだったと言えるよね。

仏教は決して弱い生き方を言っている訳ではないよ。自己に打ち勝てる人が最強な人な訳だからね。
死を死とも思わない覚悟(強さ)があれば何でも出来るとも言えるし・・・、
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 08:52:46
世の中の人間が全員仏教徒だったら、そりゃ世の中平和になるだろうけど、生の面白みは失われるだろうね。
禅の開祖である達磨大師は、9年間も座禅して手足が腐ったっていう伝説があるけど、俺からしてみれば「は? 9年間も座禅組んでるだけなんてただのバカなんじゃね?」って思ってしまう。
少なくとも俺には、仏教徒と厭世主義者との区別がよく分からん。「苦しむのが嫌なら、生きるのを辞めればいいじゃん」と言っているに過ぎないと思うから。
それよりも、ヒンドゥー教の三大神は魅力的だよね。「創造・維持・破壊」を司る神がいるってのは、人間の本性を良く表していると思う。やっぱり破壊欲求ってのが人間にはあるんだよ。だから戦争はなくならないし、それで良いんだと思う。

やっぱり、どう生きたとしても多分批判はされるし、完璧な生き方なんてこの世には存在しないんだよね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 08:20:58
>生のリアリティー

成程! 生きた屍と化している或る意味恵まれた環境にズブズブのぬるま湯状態から若者は抜け出したくなるよね。それでインドの貧民窟へ行って、戦う仏教を指導している僧侶もいるしね。

釈迦は社会改革より、我欲の滅却がテーマだったから本質的には小乗な訳だけど、大乗で人の心の持ち様についての
指導を行ったんだから、
まあ車の両輪って事だよね。

道元さんだって貴族の息子だかに生まれたけど政治的に頭角を現す方法が絶たれていたのでグジュグジュ生きるより、波乱万丈の出家の道を目指したんだったよね。それが彼にとっては「生を感じるリアリティ」の世界なわけだからね。

人それぞれでいいんじゃないかな。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 08:00:01
トロウマ体験による記憶障害の一つにフラシュバックがある。急性ストレス障害(ASD)や心的外傷後ストレス障害(PTSD)に続がる。
暴露療法(ネガティブな感情を吐き出して心の浄化カタリシスを図る心理療法)がいいかも。

詳しくざっと内容を知りたい時は、

http://welq.jp/17955 トロウマって何だろう?あなたを縛るトロウマから解放されるための6つの方法とは?

をご参照下さい。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 07:56:28
もし、仏教の慈悲が「自分が苦しまない」とか「楽に生きる」ための方法だとしたら、仏教って実はけっこうエゴイスティックな宗教かもね。とにかく、自分が苦しむことを避けるためにやってるんだから。(それは、他の宗教でも同じかもしれないけど。)

こういった考え方は、恐らく正しいのだけれど、だからと言ってひねくれた俺は「はいそうですか」ってすぐに納得もできない。だって、人間って不幸もけっこう好きじゃん? 三島由紀夫だって「青年が幸福を求めることは衰退である」って言ってるし、イスラム国に行く若者なんか正に自分から苦しみに行っているようなもんじゃん。

彼らからしてみれば、一番欲しいのは「生のリアリティ」であって「心の平安」じゃないんだよね。つまり、仏教は全員に適用できるものではなくて、あくまで一部の物分りの良い人たちだけに適用できるもんだと思う。

結局、人間がいる限り戦争はなくならんよね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 07:01:30
今此処に苦しんでいる人がいるとして、
南さんだったら、その人に逢って、ただひたすらその人の言う事を聞き続ける。

するとその人は5時間しゃべり続けたあとは大抵スッキリする。その間南さんがしゃべる事は二言三言だ。

此れは精神分析の手法でもある。
苦しい人は既に答えは自分で知っている。他者に認知して貰えば(=後押しして貰えれば=合意して貰えれば)自分で歩み出せる。
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追加 (Unknown)
2016-09-03 06:37:32
釈迦は四諦を発見して、「苦」から滅却する道を発見したと言った事になっている訳だから、涅槃後も「苦」が残っていたのなら、
「四諦」は虚偽報告書だという事になってしまう???
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 06:13:33
釈迦が涅槃を完成した後も「苦」があったのか??
少なくとも小乗の概念では、涅槃後、精神的な「苦」を感じる事は無かった。病気・怪我をした時、歩きすぎて腰痛になった時には「痛い、痛い」と言ったがこれは釈迦の意味する「苦」ではなかった。
こんな解釈をしているようですね。
此れにも一理ありますよね。

涅槃で苦を(完全)撲滅したというのにその後も折に触れ苦しみ悩み続けたというのでは何か解せないですね。釈迦の涅槃って一時的な思い込みだったって事??なんかおかしいな~!!
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 05:46:11
無常かつ無我が無自性での領域で、
実存は自性での領域みたいだから、
両者は矛盾的な存在だ・・・、
が私の解釈。

生命は、生命の素材に溢れていた原始の海で生命が誕生したというザクッとした説明で先を進めると、その後食物連鎖で各種の生命種が進化して行った訳だから、
食物連鎖の階段で下の種は、上の種の食料となる役目を背負っている(=此れが下の種の生きる意味だ!!)。
これが世の成り立ちなんだから、生命の殺生は悪だという定義は意味が無い。

釈迦の方便では、自らの手で生命を奪うのは気が引けるけど、誰かが殺生して無生物(非生物)化したものを食するのは自責の念を持たなくても宜しい・・・というこじ付け説法(多分当時に於ける常識)であった。

何故なら無常・無我の世界では生命が価値があるいう論理は無いのだから、

自分自身の手で殺生するという行為は自分の感情を乱すから困るという認識に過ぎない(当時の、又、現在での常識)。
だって生命自身に生きる意味が無いって言ってんなら当然だね!!

もし釈迦が全ての生命は尊いと言ってるのなら何故尊いのか論理的に説明出来なければならない。これも無常・無我との矛盾的生命論となるね。

まあ色々なものの考え方の中の一つのこじ付けだけどね。。。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 05:20:00
だって私なんか「実存」って出てくるたびに
「あー、またあのわかんないものだ」って感じだもん。
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仏教の言語じゃない部分 (苦しい人)
2016-09-03 05:18:25
言葉にならない真理に仏教の言説が流れこむのは、それを担う坊さんに苦がないからだと思います。

お釈迦様は苦しいから出家されました。
そして悟りの後も還俗されることはありませんでした。

「こころやすらけき正覚者、よくぞ苦しみに耐え般涅槃を遂げ給うた」

真理を正しく覚えたる者であるはずの仏陀の苦しみは消滅していなかった。
むしろ、苦とともに生きていた。
私の仏教に対する信はこの阿那律の偈に集約されます。

いろいろな苦しさがあります。
親の虐待、いじめ、病苦、災害。

何故、私が・・・?!
何故、私が・・・?!
何故、私が・・・?!

縁あるところに因あり、因あり。
でも、問う者が本当に求める答えはそんなことではない。

「過去は過ぎ去った、未来はまだ来ない」
過ぎ去ったと書いて過去、未だ来ないと書いて未来。
昨日の私、今日も私、明日の私。

今ある者と今ない者の同一性を担保すののが「それは私である」という論理操作(自己同一的絶対矛盾、ウィトゲンシュタインでいえば蝶番命題、または文法命題、仏教で言うところの仮設)です。
たしかにそれは人間たちのルールであり共同的な言語的幻想です。
しかし、そういう虚妄としてしか人は存在できない。
そして重要なのはそのことに確たる根拠はないことだと思います。

仏教の言語でない部分は人の存在の確たる根拠のなさ、無根拠性にあるのだと私は思います。
底なし沼のような問いの無限後退の中で、仏陀は言語の限界性という「真理」を悟ったのかもしれません。

苦しみが合理化できればそれでよい。
苦しみがなければもっとよい。
また、そういう人には仏教はいらない。

でも、そうでない人がいる。
釈迦はそういう人間だったのではないかと私は想像します。

そして、釈迦の仏陀たる所以は、この問いの無限後退から「ただ」身を引いた。
無根拠を合理で糊塗することを「無根拠」にやめ、言葉なく「ただ」身を引いた。生涯身を引き続けた。
この方法論を血肉化したからこそ、釈迦は仏陀になったのだと思います。

釈迦の「仏は行為である」と言い、一生を「修行」に捧げたのはそういう意味だと私は定義しています。

「絶対矛盾的自己同一」などと真実在を引き込むのは、引き返すべき苦がないからなのだと思います。苦なんてわからないから、スカスカな理屈でのっぺりと退屈にすべてを肯定しようとする。苦がないから彼らのいうことには緊張感がない。そういう人には原理的に仏教がわからないし、わかる必要もない。単に不要なだけ。

私が一番仏教を実感するときは、それは私が一番苦しい時。トラウマがフラッシュバックするときです。

何故!何故!何故!何故!

釈迦の説いた煩悩を実感する時です。
そういう時、私は禁欲と修行を唱えた釈迦の言説を思い出し、「ただ」そういう問いから身を引きます。

最初は全くうまくいかない。でも、繰り返していくとうまくいくこともある。
釈迦が仏は行為だと説き、修行に一生を捧げたことや南さんが「仏教はテクニックだ」という意味も少しはわかるようになってきました。
また、激しく疑問だった涅槃は楽(しい)だとか涅槃寂静だとかの言葉も。




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Unknown (Unknown)
2016-09-03 05:16:56
実存ていうのも言語的に仮設された概念、だよね?
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ザクッ!! (Unknown)
2016-09-03 04:36:31
で小ざかしくも仏教をザクッと括ると、

仏教は論理学的にはニヒリズムであるが、実践に於いて別の姿が出現する。
即ち、執着・煩悩を捨てれば(減らせば)、少欲知足で満足出来て、悩みも無くなる。苦も無くなる。したがって幸せになる。生きるのが楽になる。
だからこそ善を行い縁を大事にするのだ。なぜならそれを壊せば、心は荒れ、心の平安・安寧が保てなくなる。煩悩が増大する、苦が出現するから仏教哲学に反する事になる。

以上が仏教の在り様だ(多分ね、私見)。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 04:33:04
そういえば、「無常かつ無我という『矛盾』的実存」っていうのもそもそもわからんわ…。
無常と無我って矛盾してるの?
「無常かつ無我」が「実存」と矛盾してるの?
何が何と矛盾してるの?
殺生はいかんと言いながら殺して喰らわなければ生きられないこと?
でも、仕様だからなあ。
じゃあ生命は悪なのか、みたいなのは、きっと「善悪」は仕様より後にできてるでしょう?
生命はっていっても、生命がわからないけど、なんとなく、善かったり悪かったりするんじゃない?って気がする。
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訂正 (Unknown)
2016-09-03 03:35:32
出来る事ぜ・・・・>出来るぜ
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 03:22:26
で、情緒の世界(=感情の激動)を鎮静化すれば、少欲知足で満足できる世界が現れて、
相対的に(=極小さいことで)幸せ感・楽しさ感を入手出来る事ぜ、となる・・・
と屁理屈こねた訳だと思うよね!!!(私感だた・・・只管打坐)
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 02:35:45
慈悲なんて無くてもいいね。
関係性なんて破壊してもいいよね。
仏教はニヒリズムだからね!!!
何故仏教で自死禁止か全く自己撞着だよね!!

だけど一つだけ言える真実は、
それでは人は幸せになれない、
結局、楽しく暮らせない、
・・・という事なんだと思うよね。
単に感情の世界での話な訳だよ。

仏教では人が幸せに生きる道を説いているという事になっているから、
慈悲が無いとダメで、関係性を破壊したらダメだと説教するわけさ。
実在は無くても、輪廻転生も無くても、自性・無自性には関係の無い「(今感じている)情緒の世界」にうごめいているからね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 01:51:36
今回の記事では「日本的」云々がテーマ(テーマの一つ)になっているけど、日本的って言うのは少々複雑怪奇だよね。
何故って、日本的って得体の知れぬ情感の世界がベースだからね(多分、気候風土の影響なのかな?)。

全てに非常にウェットな(湿っけた)世界観が出て来るからね・・・それが情感の世界というモノだから。

「諸行無常」一つとってみても、
論理性を好むインド人(釈迦を含む)の描く諸行無常は単なるドライな物理的観測に過ぎないのに、

日本的諸行無常では、哀愁を帯びたワビとサビと物のあわれ・はかなさを含んだ深い情感の世界での諸行無常に変質するからね。

そして自性・無自性だって、日本では全ての存在物に魂を付与させて感傷にふけることになるからね。

日本人の身近にいる「やおよろずの神」だって論理的には自性なわけだが、
日本風土では、そういう形而上学の判断は存在し無い訳だよね。自性か無自性かはオブラートに包んで優しく曖昧模糊とする・・・。

樹とかの生命体に宿る魂は樹が死ねば無自性で消えるし、火にやどる魂は火が消えると共に、無自性になっちゃう訳だが、

石のお地蔵さん、奈良の大仏さん(鉄製)に宿る魂は滅びる事無い自性の魂を想定してる訳だし、

木ぼっくりに本来内在している仏の御姿を削り出して差し上げるのが、(木造)仏像作家の腕だとか意気込むし(それって自性?無自性?)、

弓道をするのだって、「人が弓を放つのではない」、「其れ(=神的な何か)が弓を放たてさせるのだ」とかの梵我一如系になってるし(by『弓と禅』・・)

兎に角、「理」の世界を超えた摩訶不思議の世界に「意味」を見出すのが日本的という事だからね。

不思議の国ニッポン!!
非論理の美意識が堂々と成り立っている国・・・それがまた美しい!!
と外国人は見ている様だよね。

御サル(🐵)さんと一緒に温泉浸かりたいよね!!
チンパンジーが法被(はっぴ)を着てオシボリ持って来て呉れる栃木の居酒屋さんが外国人に大人気らしいね!!
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 00:51:26
俺は、縁起の解釈よりもそれがどうして「慈悲」の心に繋がるかを知りたいんだよな〜。

和尚さんの言うような仏教の解釈だと、そこから慈悲の心が生まれてくるとは考えにくいんだけど。だって全ての実在を否定し、輪廻転生もなく、あるのは無自性な関係性だけなんでしょ。理屈だけ見たらどう考えたってただのニヒリズムと変わらないじゃん。

下にも書いている人がいるけど、人間が存在するためには他の生命を奪わなくてはいけないし、どっちにしろ世界はただの関係性でしかないんだから、慈悲なんて無くても良くね? 関係性を破壊したって良くね? それが新しい関係性を生むんだから、って思っちゃうんだけど。

そこらへんは座禅組まないと分からないのかもしれないけど、やっぱり何かしら言葉で説明してくんないと納得できないよね。人間は言葉の動物だし。
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Unknown (Unknown)
2016-09-03 00:00:04
一つの解釈は、
縁起=空=無自性という考え方。

とすると無自性世界で起きる「縁起」は偶然に過ぎない、という事になる(ならない??)。

そ~か、縁(縁起)は単に偶然だから
縁起とは「意味が無い、全てバラバラな状態」という自己矛盾を呈して来る、
かな??
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 23:53:13
縁起という言葉が釈迦の発明だったらそれは2500年前出来た言葉という事になるけど、釈迦が突然「無」からその言葉を発生させたとは考えにくい。とすれば縁起という言葉はその前からあって、釈迦がその言葉に含まれる意味を再定義したのかも。

ひょっとしたら「世の中には偶然なんてないのだよ。全ては縁で結ばれているのだよ』と思ったのかも知れず、

ひょっとしたら「偶然という言葉はあまりに一般的だから、仏教では縁起ということばにしたい」と思ったのかも知れず、

上記の二つは相反した概念だね。
果たして「縁」は偶然なのか偶然で無いのか??
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 19:03:58
縁起なんて、仏教用語としての意味なんかほぼ知らない自信がある
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 19:02:48
でも、偶然でも意味でも縁起でも
分かって言ってるのかっていうと
^^;って感じもするなあ…
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 18:59:45
縁起と偶然は同じ意味だということではなくて
「偶然」という発想とか「意味」という発想とか
そういうのっていつ頃からなんだろう、って。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 18:55:17
縁起という言葉と偶然という言葉はどちらが先にできたんでしょうね?
意味という言葉はいつ頃できたんでしょう?
なんか、そういうことだったりしないの?って思ったんですが。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 18:43:34
流転輪廻
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 17:32:40
誰かにとっての善が他の誰かにとっての悪だったりすることは、よくあると思うんですが。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 17:29:41
他の命を奪って生きるという点では仏陀も同じですよね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 14:13:55
なんか、みんな「縁起の世界で全ての生命は繋がっているから、他者は大切にしなければいけないんだ」っていう意見だけど、人間は他者の命を奪って生きているのも事実じゃん。俺たちが、生きるために今までどれだけの命を奪ってきたかを考えると、「人間なんか死んだ方が良い」っていう考えも一理ある気がするんだけど。それに、人間の世界でさえ完全な共生ってのは無理で、競争しなくちゃいけないのに。
結局、これも「中庸」が大事なんだろな〜。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 14:09:06
要するに仏教の「縁起」って何だろうという問題に戻るよね。

縁起=他との関係が縁となって生起する事。
相依性縁起は「お互い同士が縁となって生起しあってる事(=相互依存)」。

そこで「縁」とは単なる偶然という意味なのか?

もしそうなら縁起などという言葉を使わず、「全て意味ない偶然の所産」という言い方で済ませばよかったのに何故わざわざ仏教では「縁起」とか言ってしまったのか??

単なる偶然なら「縁」を大事に思う必要が無い訳じゃん!!なぜ「縁起だ、縁起だっていって大事な概念にまで祭り上げちゃうの??

単なる偶然で「相互依存・相互作用」って起きるモノなのか??

全てには意味ないか??(つまりニヒリズム!!)・・・だったら「縁起」なんて意味ないじゃん!!
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 13:26:38
宇宙物理学者が、「なぜ宇宙と森羅万象が存在して来たか?」をとことん突き詰めて行くと、神の手(=意志的な宇宙原理)に突き当たる(=要は宇宙に存在する神秘を解き明かせない)・・・ようであります。

ならば何かそこに存在する意味が存在している・・・、という事になるのでしょうか。

何故、相依性縁起が存在しているのでしょうか??それとも釈迦の妄想だったのかな??
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 13:14:36
赤とんぼの方のご回答、とてもしっくりくる気がします。ありがとうございます。
生きる意味が用意されていないのであれば、死にたいという衝動を抱えている人に対して、理屈でそれを禁止することは不可能になります。
となると、あと他者に出来ることはなんとかその衝動が暴発しないようにし、本人に生きる気力を持ってもらう工夫をすることしかないでしょうね。
最後は本人の決断次第だということになります。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 13:05:28
結果倫理的という言葉で言うと、自分のしたことが結果として他者を喜ばせて居たら、それが自分の生きた意味となるのかな??善も含めてね。

まあ自分では当初の時点では結果は解らないわけだから、善意から出発したか、悪意から出たかで良し悪しを判断するしかないけどね・・・。

たぶん南さんなんかこの境地で著作活動をしている気がしますね。自分の書いた事・言った事が人様のお役に立っている・・・これが俺が生きた意味だ!!

赤とんぼを「いいな~」って情緒的に感じるニッポン人がいるから赤とんぼに「生きた意味」を与えている、という事にもなるよね。

人間に取って恐ろしい他の生き物もエコシステムで考えた時、この世の在り様のバランスを取っていると言う見方からすると、生きている意味が在るという事になるのかな??

だから相依性の縁起のなかでは赤とんぼにも人にも全ての生き物にも意味を与えている、という考え方でどうなんだろう。じゃあなきゃ、人は人以外の全ての生命を絶滅しちゃっても構わない筈じゃあない??

さらに相依性縁起で言うと無生物の物質でも存在している意味が在る、という事にならないかな???

存在する意味が無いのなら相依性縁起で存在する意味って何??

まあ私見だけど・・・
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 12:32:54
あらためて共感とは何か?(又は反感とは?)を考えて見ると、情緒的共鳴(情緒的不共鳴)の要素が強いよね。

共感は直観的であり、ダニエル・カーネマンの言う「ファスト&スロー」の内のファストの部分で「共感」が決まるという事になるよね。

じっくり考えに考えて論理的に思考を積み重ねているうちに「共感をじわっと感じて来た」という事はあまり無いし、
有るとしても歳取って(=いっぱい経験を積んで)或る時突然ハタ!と合点がいくタイプの共感は「理」による「スロー」のなせる「(論理的)共感」という事になるね。

ファスト型直観による共感は論理的には多くの場合間違っている事が多いと言えそうだね。その時の揺れている感情が共感を決めちゃうからね。実際多くの場合「直観」は当たらないという証拠がいっぱいあるからね。

脳は感情が作っている過去の記憶(無意識が作動する世界)では思い込みと錯覚のウソ話を勝手に造って貴方を待ち構えている!!という事だから、
うっかりそれに乗っちゃうと間違ちゃった共感になる!!という事だよね。
くわばらくわばら、「いわれなき『共感』!!」。

我らに出来る事は、「共感」を感じたら、何故共感を感じるのかじっくり内観して論理的な裏付け(裏打ち)をしておくべし・・・という事かな??
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 12:30:16
このごろ赤とんぼが飛ぶようになりましたが。
あなた、赤とんぼが飛ぶことは果たして善なのでしょうか?って考えます?
たぶん、「自分が生きることには意味があるのかないのか」っていうからには、意味があってほしいんだろうなと思うんですが。
たぶん、意味はない、と思います。「ない」というか「用意されてない」と思います。
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善とは何か? (すけのじ)
2016-09-02 12:18:06
皆様、ご回答ありがとうございます。

皆様のご回答を拝見していると、他者に迷惑をかけず、自分が幸せになることが善であるといった意見が多いように感じました。つまり、善とは「自己の気分の問題」と深く関わっているということです。

私もその通りであると思いますが、同時に少し疑問も残ります。それは、心情倫理(自分が善いと思ったことをするのが善い)と結果倫理(結果のためには手段を選ばず)の関係等からです。

残念ながら、この世界では自分自身が思う善と他者が考える善が異なる場面が往々にしてあります。その中で、常に価値観の変更を迫られているのが我々の生だと思います。

そう考えると、「自己の気分」にばかり目がいくのも独善に陥る危険がありますので、やはり「他人に迷惑をかけない」という項目が必要になってくるのでしょう。

しかし、この「他人に迷惑をかけない」という命題も、深く考えると厄介なことになります。なぜなら、私たちは常に「他者に迷惑をかけている存在」であるからです。例えば、我々は生きるためには、生き物を殺さなくてはいけませんが、それは仏教の不殺生戒を犯すことになります。また、会社に入れば他社や同僚との競争があり、その中で結果倫理と手を携えなければいけない場面も往々にして出てくるでしょう。

つまり、我々の存在それ自体が一定の悪を背負っているし、悪い(と自分が思っている)ことをしても良い結果が生まれることもあるということです。故に、結論としては「『なるべく』他者に迷惑をかけない」「心情倫理と結果倫理のバランスが大事」(結果倫理ばかりに固執するとニヒリズムに陥るため)といった問題になるのだと思います。

そこで疑問なのですが、そこまでして生きること自体が果たして善なのでしょうか? それでも我々は生きていかねばならないのでしょうか?

長くなりましたが、以上です。ご回答お待ちしております。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 10:36:08
まず包容力をもって相手の意見を聞く事が先決問題だね。

其の上で自分の意見を述べると説得力が出るよね。それが大人という事だよ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 10:17:44
>「理」

理っていうのは形而上学的つじつま合わせの事でもあるからね。
もともと形而上学の存在しない特殊ニッポン国に於いては、理より情感が最優先じゃね。理屈無く気に居っちゃえばそれで日本人は動ける訳だよ・・・。

ニッポン土着神様しかり。人と神様の融合然り。。。。かくしてニッポン仏教が誕生したのでありますた!!(byニッポン文化神)
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 09:43:56
でも結局それなりに居心地がいいって事なんだろうね。
いやだいやだ、といっても本当に嫌なら耐えられない訳だし、耐えられているのは本気じゃないから・・・やっぱり結構居心地がいい訳だよ。
本気で嫌を耐え抜くとサイコパスになって行くはずだからその時には医者通いがひつようだね。

まあ耐えられているんだったら、いやだいやだと言わずに、ちょっくら視点をかえてみて、居心地よさをもっと積極的に味わえばいいんだって事になるよね。

皆さん、建設的な意見を出しましょうやね!!
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 09:30:50
理がしなびている
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 09:00:52
あ~そ~だ、丹田呼吸、深呼吸すれば、人の気分は可なり変わるよね
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 08:49:21
死後の世界が無いから・・・、
依って「ニヒリズムに生きる」んじゃあ無くって、

死後の世界がないから・・・、
今生きている世界はとてもいとおしく貴重なモノだから、自分はしっかり生き切るぞ!!
って決意すればいいんじゃあないの。。。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 08:40:28
>嫌な事は止めてなるべく楽しくしたい

・・・これは普遍的真理だよね。来世があっても無くてもね。

まず第一に自分の生活を支えられなければ楽しくできない。ではどうしたら自分の生活を自分で支えられるのか色々考えやり方を工夫する。
ごく些細な小さな努力目標を一つずつ達成できれば、それは楽しみであり嫌な事ではなくなるよね。
環境がそれを邪魔するなら、自分が属する環境を変えてみる。

元々、嫌な事(=苦)とは全て対人関係から来る(byアドラー)。それをどう解決するか??
欲求不満は自分を他者と比較する事から来るから、自分としてはどうそれを無くせるか(一例;釈迦流なら欲求不満無くせる訳だが・・・)。

朝起きたら全てが生き生き楽しく感じられる方法はなにか色々あるかもね?? 
明るく考えればね・・・、セロトニン・オキシトニン増やせば出来るよね・・・。あ~、そ~だ、坐禅やれば増えるよね。あさの散歩も効果あるよね。自然の神秘に触れる事もね。運動もね。

その他いろいろ今迄嫌な事だとばかり思っていたモノが楽しい事だったんだと視点を変える事も可能カナ、とかね。

自分で色々試してみれるよね。
結局どこかのお坊さんがいってたが、本当は自分が変化する事を拒んで、嫌な気分でいる事を変えたくないんだという説も一理あるよね。嫌な気分でいるのも執着現象だからね。

もし人と比較したいのであれば、上ばっか見ないで下をみるのもいい訳だ。でも自分が上の世界に属していると、ちょっと下側の自分が惨めになり欲求不満が消えないから、やっぱりサンガを変えていかないとね。

色々試していれば、この世の「善」とか「悪」とかいう抽象論と、自分の実践生活は関係なくなるよね。
何故なら相依性縁起の中での自分の立ち位置は「善」の中にいると納得出来る訳だから・・・かな、多分。
・・・だって他者を害する事無く自分が「楽しく生きる」って事は「善」な訳だよ・・・そうすれば縁起の世界に良い風が吹く訳だからね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 05:46:39
死後の世界

「『私』の死後の世界」というのは、「死んじゃったらもうわかんないしなあ(たぶん)」と思っていますが、
例えば自分の子供は自分が死んでも生きていたりするでしょう。別に友達でも見ず知らずの人でもいいでしょうが、たぶん、生きている人がいるんだろうな。
何かそんな感じですかね。
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追加 (Unknown)
2016-09-02 05:24:39
満足できる人生を送る為には
少欲知足はキーポイントとなるかな。
これは宇宙の一員としての共存関係を築くという事だと思うよね。
釈迦の実践哲学だったよね。これも修行項目だね。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 05:14:30
生きている自分の生き方は、あの世とは関係ない!!

釈迦は釈迦国の王子時代、快楽・欲望の限りを尽くす環境を与えられた(ほんとうらやましい限りだ!!!)。

だが味わい尽くした結果、何が残ったかといえば、むなしさとさびしさとやるせなさ!!

アドラーじゃないが、社会的動物として他人を幸福にする事(=他人の役に立つ事)のみに自らの真の心の充実感、自分が生れて来た意義をみいだす。だから自分も幸せになる。他者の貴方に向ける微笑みであなたも微笑む。
そう!!相依性縁起はこの世で左様に働いているということだ。

しかしGive and Takeを期待してはいけない。Give and giveの精神が「なさけは人の為ならず!!」となる。まあ難しいけどそれが修行じゃね。最強の自分を作る為に必要だ。

でも、何でもかんでも我慢して、ただじっとうずくまって自分を殺してしまうとサイコパスになるので要注意!!

だから中庸がいいかな!!

今悩む事しか出来ない環境に在れば、その環境から抜け出す算段は必要かもしれない。破れそうな国でもがくなら、残った山河で生きていける自分を作る事だ。
そうすれば「国やぶれて(も)山河あり」だからちっとも怖くない。
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魂や死後の世界の有無と善悪について (すけのじ)
2016-09-02 03:28:11
こんばんは。いつもこちらのブログを興味深く拝読させて頂いております。

今回のテーマとは少しズレてしまうかもしれないのですが、魂の存在と善悪の関係について、私の疑問を述べさせて頂きたいと思います。

もし、私が死んだ後に何も残らない(つまり、人は死んだらゴミになる)のであれば、私の現世での努力は何の意味も持たなくなるでしょう。そう考えると、嫌なことは辞めてなるべく楽をしたいと思うのが人間の性であると思います。

逆に、死後に何かしらが有り、人間が現世でした行為がそれに何かしらの影響を及ぼすのだとしたら、人間は現世で善い行いをしようと努力するでしょう。

現代では、前者のようなニヒリズムが蔓延しており、私も無気力な日々を過ごしてしまっています。

この現状をなんとかしたいと思うのですが、一方で「どうせ何やっても一緒なら、今は楽してた方がいいや」と思ってしまうのも事実です。日々、心中ではこの葛藤があります。

もし、魂(のようなもの)や死後の世界を全て否定したとして、私のような無気力な人間や悪を犯そうとしている人間に対して、善を押し付けることが出来るのでしょうか? と言うよりも、そもそもそれらを全て否定した上で、善悪は成り立つものなのでしょうか?

現代のような価値観が氾濫している社会で、なんとかして自己の生きる道を見いだしたいと思い、質問させて頂きました。どなたでも良いので、ご回答頂けましたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 02:15:24
例えば、二十歳迄に得られる情報のMAXが100としたら、俺なんて小数点以下にゼロがいくつ付くかわからない。100を目指すなんて気力が湧かないくらいだ。
情報は自分なりに選択して得ているのだろう。。
これで怖いのは、数多ある、誰でも得られるであろう情報は、選び方次第で相模原の様なサイコパスと呼ばれる人間や自殺思考の人間を生む事だ。
外的要因も勿論あるけど。
テレビを見ていると、サイコパスと呼び、普通の自分達と一線を引き安心したい様な感じだ。
私的には、「選んだ情報の違い」なだけなんだけどね。何を選択すれば正解か?なんて、分かるはずない。けど、選んでしまったものはしょうがない。

ただ、数多ある情報の一部でできた私の思考。というのは、いつも心にとめておきたい。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 01:12:09
生きる屍(しかばね)でも生きる価値が有ると言う論理は、輪廻転生を信じればこそ出来る。又は浄土信仰に賭けてみるか??

でも自分が生きていて言葉を発すれば
聞いた人が救われる。

共感する人にはこんな人でも生きているんだからと・・・。
反感する人には「半面教師」として学ぶ役には立っている。

存在する事で利他行を施している訳だ。。。

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Unknown (Unknown)
2016-09-02 00:51:19
ふう~~ん。ちょっと疑問が湧いて来た!!

釈迦は涅槃して衆生を救った。

阿羅漢は衆生救済が第一だと、自らの涅槃を諦めた。

これってどゆこと???
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 00:47:15
>このブログが続く事を期待している

なんか衆生を救うために、自らは涅槃に這入る事をあきらめた阿羅漢みたいじゃね。

南さん、解脱せんよう、自ら「前進をやめて、意図的に後退を選択して」くださいませ!!
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 00:37:21
>もし釈迦国の王子様が(は)~~結局その人は、なにやったんだろう。

釈迦の身分でバラモンになる事は本来なら斬首モノであった。全ての良民をバラモンとして迎え入れる事も斬首モノであった。輪廻転生を否定する事も斬首モノであった。アートマンを否定する事も斬首モノであった。

この4斬首事件をかいくぐって謀反の旗をかかげたのが「その人」であった、論理の筋を通して・・・。最後は毒キノコに倒れたが・・・「この世は美しい」とか言って(by大乗)。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 00:22:48
>自分が何を言っているのか解らないまま・・・

出来るんじゃあないかな。
思い込みと錯覚で、千人の客観的意見より
一つの(=自分の)異様な思考に酔うのが人の脳なんだから・・・。
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Unknown (Unknown)
2016-09-02 00:17:56
イエスちゃんさんの9月1日:17:03のコメは秀眉であった。有難う。
日本人が必要とする日本的な仏教が解明された。
此のサイトは日本的に人の命を救うものだ。
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Unknown (Unknown)
2016-09-01 23:17:53
自分が何を言っているのか分からないまま
自分が言っていることの意味を考えることはできるか?
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Unknown (Unknown)
2016-09-01 22:45:21
もし釈迦国の王子様が「筋」を追っていたのなら、
仏陀にはならなかったかもしれない。
その人、結局、何やったんだろう?
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Unknown (ZIP)
2016-09-01 22:10:29
このブログの目的は、人の命を救う為にある。
死に至る病に罹った者に、手を差し伸べ
る事を目的としている。

私はかつて自殺志願者であった。
今でもその思いは残っている。
思いが無くなることは今後も望めようも無い。
自分で始末が出来ぬ事が煩わしくもある
煩わしいままで生きていく事に対して、
覚悟が未だに出来ない。
覚悟が出来ぬまま生きることは、苦以外何物でもない。
様々な辛い現実に直面している人達のた
めにこのブログが続くことを期待している。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-01 21:33:48
>我はすなわち天なり。天すなわち我なり。

これは「天上天下、唯我独尊」とおなじ意味ですかね??
もしそうなら、また此の言葉が釈迦(乃至別のインド人)がしゃべったとしたら、
「日本人」特有という事でも無いみたいな???
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Unknown (御坊哲)
2016-09-01 21:23:24
「主体と客体が未分の状態」と「Aと非Aの同一」というのはおそらく別のことのように思えます。

『金剛般若経』中の該当する一句と大拙の即非の論理の解釈として適当でないかもしれない、というのはアリのような気がします。
返信する
追加 (Unknown)
2016-09-01 21:19:27
まあ、はてなさんが「二足歩行を得て」と言うのを私が「二足歩行を得たから云々」という等式で解釈するのは言葉の曖昧性から自生して来るのでしょうが・・・
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Unknown (Unknown)
2016-09-01 21:05:32
二足歩行を得たから人になった!!はYes でありNoでありますね。

比喩的(何かの別の命題に使う方便)な思考ではyes。

論理的な思考ではNo。
何故なら、「人=二足歩行」は成り立っても「二足歩行=人」は成り立っていないからです。

普通の鳥の場合、前足(腕)は翼になったから空を飛べるわけです。地上を歩く時は二足歩行です。
ペンギンなんかは地上では二足歩行を行い、水中では翼化した前足は泳ぐのに使われます。
カカシは一足(いっそく)歩行だからヒトになれなかったのは真理です!!一本足では「人」という字が書けないからです(よく言うよ・・のダジャレ版)。
返信する
以前に述べましたが (はてな)
2016-09-01 20:43:46
「おだいっさん」のようなイメージを覚えたことから一面識も無いに関わらず、直哉さんと勝手に呼ばせていただいております。

おだいっさんが実在するならば、途轍もない存在感を覚えさせられると思いますが、直哉さんも並外れた方と承知しております。

直哉さんから醸し出される厳しさは、他者にではなく「自己の存在」なるが故と考えております。

今回は、名指しで失礼を申し上げましたことお詫び申し上げます。

zipさん ご助言、御礼申し上げます。
返信する
Unknown (ZIP)
2016-09-01 19:36:10
道元禅師も仏の立場に立って物を見よと唯仏与仏と言っておられるわけで、別段
はてなさんの解釈が不思議とは思えず、
院代も当然それを承知の上で記事をUP
されたと思っている。
はてなさんに対して他意は無いはずである。
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そうか (はてな)
2016-09-01 19:30:43
以前にお二方居られましたが、zipさんが加わりましたね。 そういう方が居られるのである意味スリルがありますね。

一言の『ことば』
の威力を感じさせられました。

お蔭様で、NEXTへと進めました。 ありがとうございました。
返信する
それからですよね (はてな)
2016-09-01 19:19:44
問題が課題を生じさせるという事態が続くところが、存在を意味づけてくれますので、堪らなく面白いところですよね。

言語化できない事態を如何に合意するかですよね。

短く言えば、ヒトは自然界の産物であるため、否が応でも「自然選択」に遭遇します。 更には、平均回帰の法則もあるので「感性領域で合意」に至ってますね。 それが「現実の現象」ですね。
返信する
これですね (はてな)
2016-09-01 18:59:12
2016-09-01 08:46:17
釈尊や空海、そして、道元などが求めたであろうことを現代語にすると『絶対矛盾的自己同一』になりますよ。 更に言えば、ことばの誕生自体が、それに由来するのですよ。

ことばで説明できません。 以上です。
返信する
さらに、そうです。 (はてな)
2016-09-01 18:56:01
zipさん 分かっておられますね。

読むまでもなくyahooのものを拝借しました。 的を得ているので一度だけということで・・・

以下、引用
>・・・西田の哲学においては対立は解消せず、その対立が実は一体であることを実感することによって人は悟りの境地に至ります。たとえば天と人とは対立物ですが、ヘーゲルの弁証法のようにいくら人間が天に近づこうと思っても道は遠ざかるばかりです。ところが「我はすなわち天なり。天すなわち我なり。」と悟った瞬間、世界観が一転するわけです。この境地が日本人が禅において、あるいは武士道において目指してきた世界であるわけです。

というものですが、私の場合、対立自体を存在させる必要がなく「絶対矛盾の状態で存在している」ので、『一体であることを実感すること』になります。

では、その「絶対矛盾の状態で存在している」というその事態を言語化せよ。 となるとですね、

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Unknown (Unknown)
2016-09-01 18:47:34
結局「何かある」のは仏教ではないのなら、
「正しい読み方」「正しく読む自分」があったら仏教じゃない
みたいな話になるの?
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Unknown (ZIP)
2016-09-01 18:27:44
対象として見るのではなく
場所から見るということであろう。
返信する
そうです。 (はてな)
2016-09-01 18:22:24
Unknown (ZIP)
2016-09-01 18:04:08
言葉ではなく、物の見方の問題である。

そのとおりですが、西田幾多郎氏の絶対矛盾的自己同一と私が言わんとすることは異なるようです。

私の場合は、対立軸は無用です。
根源的存在というその事態に「絶対矛盾」を孕んでいるので、その言葉を知っただけで腑に落ちただけです。

読んでみますが、読むに値しないと感ずれば、即刻止めます。
返信する
Unknown (ZIP)
2016-09-01 18:04:08
言葉ではなく、物の見方の問題である。
今回のコメントは読み甲斐がある。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-09-01 15:58:52
無常と無我と縁起と実存を、難しく勿体ぶってはなしてるんじゃないの?俺ってバカなの?
返信する
「禅が、中国の土着宗教で、何が悪い。」…「仏向上事」とは、ただただ「行仏」である。  (イエスちゃん)
2016-09-01 15:17:03
駒澤大学(旧・曹洞宗大学)の松本史朗は
「禅は、(釈尊の)仏教ではない。
禅は、中国土着宗教である。」
と喝破した。

「真人」を認めるのは、「自性」「自己」「アートマン」を認め、
「見性」は、「自己の真実・性を観る」であり、「自性」の存在を認めるもの。

これに対抗して、
花園大学(臨済宗妙心寺派)の沖本克己は
「禅が、中国の土着宗教で、何が悪い。」
と、返答した。

『禅の思想とその流れ』 (ぼんブックス) 1990/5
沖本 克己 (著)

そして、
実際に、「中国の禅」は、
「釈尊の禅定」とは異なり、
「中国の土着宗教」だった。

そして「道元の禅」は、
これとまったく異なった。
そして、「日本人の宗教」だった。

日本人は、抽象的には考えない。
日本の神様も「人間と地続き」である。
だから、容易に人間が神にされる。

つまり、日本の神様は、具体的であり、
眼に見え、人間と同じ関係を結ぶ。
神様と「一緒に」、お神酒を飲み、大いに飲み食いし、
御神楽を舞い、神様を喜ばせる。

「道元の禅」は「行仏」である。「仏を行ずる」である。
そして、そのまま「行ずる仏」である。

「歴史上の釈尊の生き方を、そのままに、行ずる」
だからこそ、「釈尊の当時の袈裟」が大切になる。
「袈裟功徳」の巻がそれを証している。
「一生、不離僧林」が「行仏」そのものである。

「悟り」「見性」も、ここでは、完全に無縁である。
つまり、ここでは、異常な心理体験は、無縁である。
そして『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』だのは、無縁である。

「行仏」は、「言葉」を超える。「言葉」を無化する。
道元の「仏向上事」とは、ただただ「行仏」である。
返信する
前回触れていますが (はてな)
2016-09-01 14:19:05
起源としては、諸説あります。

ヒトとサルの分岐が二足の歩行スタイルで、二足歩行でなければ、原理的(構造上)に脳の容量増加は望めません。

脳の容量増加があればこそ、身体性の進化(言葉を含めた機能性の向上)を得ております。 よって、二足歩行を得たことがヒトへの始原(分化)と考えるのが妥当でしょう。

過程(時間的プロセス)を経ることで、人類は進化しております。
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追加 (Unknown)
2016-09-01 13:38:05
これまで初期人類がいつごろから直立二足歩行をしていたのかについては議論が分かれていた。
広く信じられている事としては、気候変動によって森林が後退し、開けた場所を長距離移動せざるを得なくなった、と考えられている。そして最大限に効率よく貴重な品を持ち運ぶ為に初期人類は直立二足歩行へと移行したのである(運搬起源説)。
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訂正 (Unknown)
2016-09-01 13:08:48
最後の5行削除願います
返信する
卵が先か鶏が先か? (Unknown)
2016-09-01 13:06:46
>二足歩行を得て(=得たから)、その結果、ヒトになっただけの事???

二足歩行になったから、両手が空いて、空いた手で何をしようか考えるようになった。考えて見たら、世界はどうなっているのか知りたくなった。相互扶助が有利だと知るようになった。群れを成して未知の世界へと歩くようになった。人が『人間』になった瞬間である。

では人は何ゆえに「二足歩行」になったのか???。

資源が限られていて他者との競合が厳しい時、人では無いチンパンジーも立って二足で歩く事が知られている。その方が沢山運べるからだ。

(当初、四足歩行であった)初期人類は限られた資源が必ずしも、いつも手に入る訳では無い常に変化する環境で暮らしていた。そうした環境への適応を永年に渡って繰り返すうちに、直立二足歩行が常態化して、それにつれて体の形態そのものも変化して行ったのである。

人は初めから「考える足」であったわけだ・・・四足歩行時代から!!。



「二足歩行を経たから人になっただけ」では無い。考えた結果として常時二足歩行で歩ける身体能力が備わって来たのだ。人は四足動物時代から考え始めたのである。

では何故他の動物は
四足だった存在が
返信する
直哉さんへ よく言うよ (はてな)
2016-09-01 08:46:17
何はともあれ、スッキリさせていただきましたよ。 皆様、ありがとうございました。

釈尊や空海、そして、道元などが求めたであろうことを現代語にすると『絶対矛盾的自己同一』になりますよ。 更に言えば、ことばの誕生自体が、それに由来するのですよ。

>歩き続けて考えるのだ。
「人は考える足」だ!!!。

違うよ。 「二足歩行を得て」『ヒトに成った』だけのことですよ。 がしかし、そのように、考え続けることは「NEXT」へと向かわせますね。 身体性が失われつつある現状からすると「新人類」へと進化しつつあるのでしょうね。
返信する
『考える足』 (Unknown)
2016-09-01 01:01:39
パスカルは「人は考える葦」だと言った。しかし「考える足」というべきだったであろうか。

或る脳科学者は言う。
全てのテレビゲームでの「脳トレ」は効果ない。サブリミナルも在りえない。モーツアルト効果も嘘だ。全てデマだ。

唯一の脳トレは肉体的運動をする事だ。歩く事だ。週3時間以上歩くと認知症発症が激減する。

ネアンデルタール人が一地域に固着したのが彼らの絶滅の原因だった。
現代人の祖先が歩きに歩いて世界に散らばったから脳が活発化して生き延びたのだ。

釈迦が終生流浪の旅をしたから80歳まで生きて智慧を増したのだ(毒キノコを食べなければ100歳越えは楽勝だったであろう!!)。

処で考える事はいいことだ。考え続ければいい事がある。知恵が深まる。

しかし、人の脳は常に暴走する。記憶は「思い込み」と「錯覚」で出来ている。脳は平気で記憶を変える。脳は自分に嘘をつく。

特に、知識を持っている人は知識の呪いを受ける。知識を持ち過ぎると、思い込みと錯覚がますます増長する。
うぬぼれて解った気になると「思い込み」と「錯覚」の連鎖に陥る。千の公平な意見よりも一つの異様な思考を信じる。

人の、「思い込み」と「錯覚」をする脳の機構は避けられない。
自分が思い込みと錯覚をするという事をきもに命じて、考えて考えて、場所・環境・立場を変えて見て、答えを修正し続けていくのが真理に至る道だ。

歩き続けて考えるのだ。
「人は考える足」だ!!!。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-08-31 13:54:54
浅野さん、情報ありがとうございます!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-08-31 10:07:55
鈴木大拙師の唱えた「見性」では、
いわば坐禅病的幻覚を、
人間の私の内部に本来的に備わっている(=自性している)仏の真理が現れて、坐禅によってそれが見極められる・・・とした。

一方「即非の論理」を用いて、
Aと非Aとの論理的縁起関係に於いては「分別」があるが、Aも非Aもそれぞれ固定した実体が無く共に無自性であり空である・・・とした(=論理的縁起関係に於いて両者は「仮り」に言えてるだけで、どちらも無自性・空である事が理解されなければならぬ)・・・と説いた。

で、南さんとしては見性(自性)と「即非の論理(=無自性)」の間の繋ぎには無理がある、とみて取った、
という事らしい??たぶん・・・。

他己(=非A)が存在して、初めて自己(=A)が存在するが両者は「仮に」言えてるだけでどちらも無自性・空である・・・、でその両者が坐禅を組めば見性が現れて、各自に備わっている本性を徹見可能となる・・・と言ってることに成る。そこで南さん曰く「ええッ!!自性・無自性?どっちなのじゃ??」となった。だから絶対矛盾的自己同一性にも突っ込みが這入った(多分??・・・私見です)。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-08-31 09:56:33
何につけても「絶対」なんか無いってことでしょうか。結局のところ。

南和尚、納得です!
返信する
さらに、発展させたのが (はてな)
2016-08-31 08:27:04
道元の現成公案ですね。

がしかし、その「ことばの群」には、属していないので同じことですね。

それをさらに導いたことばが、絶対矛盾的自己同一ですが、『ことば』でそれを捉えることはできません。

ことばの領域を超えている『事態=領域』を合意する方法が「量子論的領域」なのでしょうかね。
返信する
なるほどね (はてな)
2016-08-31 08:02:26
仏教用語でかの有名な、「色即是空、空即是色」というのが、絶対矛盾的自己同一を説明するに足る(近い)『ことば』ですね。

これはもう、分かる者には分かるが、分からぬ者には分かりませんよ。

何故ならば、仏教用語でそれを説明しようとしているのであって、その『ことばの群』に、それは存在しておりませんよ。

以上が私の辿り着いた(他者に言える)ことですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-08-31 07:10:17
何故、「自己同一性」という言葉がトリガーして、「見性」迄の記事になったのか??

それはどちらも「自性」、「自性清浄心」の考え方を土台として出来上がっているので道元師の考え方と異なるからだ、という解釈でいいでしょうか??

要するに見性・自己同一性は性善説の立場であり、それは諸行無常・諸法無我の立場とそり合わない。
なぜなら人は(脳が)「善性」をそなえて生れて来る訳では無く、又、後から仏性が赤子の脳に移り住んだと言う事も無く、ただひたすらミラーニューロンを通しゼロから出発し、全てを他者から学んで行くもの(後天的に学ぶ智慧)だからだ・・・という事になるからなのでしょうか。

即ち、性善説・性悪説・原罪などは本来、仏教には似合わない。なぜなら人は善悪を刻印されて生れて来たわけではないからだ(=諸行無常・諸法無我)。

とすると、輪廻転生は成り立たない???道元さん的には・・・。
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Unknown (浅野)
2016-08-31 06:33:56
新刊の「禅と福音」出版されていました。分厚かった!
立ち読みでしたが、お弟子さんに、「簡単なことをくどく言うのは、師匠の癖ですね」、というところは、思わず失笑しました。
入院していた頃に、退屈、という概念がなくなってしまった、というところの話も、感情を言葉にするのは、鋭く、有り難いな、と読ませていただきました(だから、南さんは楽しむより、課題解決型?なんだなぁ、と)。
パラパラと読んだ感じ、白熱といいますか、これまで以上に闊達な対話のような気がしています(エラソーにすいません!)。
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Unknown (Unknown)
2016-08-31 05:41:05
>キリスト教vs仏教

根本的違いは独裁政権か民主主義か、
という事ではないだろうか。
孔子で言うと善王への「忠」は良き世を作るという思想。

民主主義は実にもたつく。しかし「自由の民は」自ら決定する事を好む・・・これは脳の基本原理でもある(脳は刺激を通しての発見・創造による快楽原理で動いている)。
今もたついている貴方はやがて、輝かしいアイデアに行きつく。[己]自らが主人公だ。

仏教は種々雑多な思想を含み多様性を提供している。水平飛行に便利だ。あなたのその時その時の感性にフィットした思考方式を採用すれば、あなたの心は自由になる。悩みが遠のく。

自灯明で、だれにも寄りかからないで気高く歩む。釈尊、祖師と共に自分の二本足で立って歩く!!!
明日、又、新たな思考であなたの人生は常に新しい春の若葉の様だ!!
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キログラム原器 (無分別)
2016-08-31 04:40:30
realとvirtual、senseとlogicで連想したのがキログラム原器です。プラチナ・イリジウム合金で出来た1キログラムの塊は感覚的には真にリアルなものですが、いまやキログラムの定義はプランク定数という脳内産物を使った方式で置き換えられようとしています。そのほうがより確実だからです。無常、無我について考える際に参考になることではないでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2016-08-31 02:46:53
梵我一如系仏教は、宇宙原理のブラフマンとアートマンの融合だから、信じられるのなら宇宙規模的に(矛盾の無い)自己同一性。これはこれで素晴らしい思想と思えますね。

キリスト教の神は絶対服従如何で懲罰を決める「ねたむ神」として人間が自己の正当性を代弁させた概念だから、
愛と鞭、イスラム教では「左手にコーラン右手に剣」という一神教の本質を携えている・・。絶対権力を持った頼りになる父がいるのは素晴らしい事だ。

そうなると単に自分にはどっちが似合うかという問題に過ぎないと思えますよね。


で南教では、無常無我、相依縁起の世界での「空」的自分(風の又三郎?」・・これも又、素晴らしい!!

この世はすべて素晴らしい!!!
(この世は美しく人生は甘美だby釈迦)

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Unknown (Unknown)
2016-08-31 01:24:07
「毒舌」=正論=正語の一種。

単に毒舌では、おためごかし(=嘘っぱち、へつらい、自己卑下)の「敬語」は現れないという事かも??。
しかしその様な敬語は本来不要である。

場を和らげるギャグも必要となる。そこにもあまり敬語は登場しない。

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絶対矛盾と自己同一性 (Unknown)
2016-08-31 01:07:44
私もよく分かりませんが・・・、
和尚さんの云わんとしている事は、

「絶対矛盾的自己同一」とは、
「真に実在する」世界をベースにした、「其処に実存している自分‥矛盾した本質を持つ存在ではあるが・・」という概念を強く押し出した自己主張の強い思考法と成って仕舞う(たぶん??)。「絶対」&「同一」という言葉が「常」在を仮定している。
よって諸行無常と諸法無我の思想と合わない。


「自己同一的絶対矛盾」とは、
言葉自身には同一性がある(A=A)が、その言葉の存在故に「結局、その背後に何かがある=本質がある」筈だという論理に成って仕舞う。言葉という仮説が実像を錯覚させる。
これも仏教的には成立しないから、「成立しない=根源的矛盾が存在」している。

絶対矛盾的自己同一は私の人間性についての定義(自己=人)だが、

自己同一性絶対矛盾は、言葉から派出する定「常」の概念(自己=言葉)の本質性を論議している。

たぶんね???
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Unknown (Unknown)
2016-08-31 00:38:00
考えてみます。
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死ぬ覚悟 (Unknown)
2016-08-31 00:08:46
五木寛之『風の王国』より・・・。

勝つか負けるか、どちらかを選ばなければいけないとしたら、
負ける心、捨てる心、別れる心を選ぶ・・・それがケンシ(=世間師=彼岸の山と此岸の世との間をさすらうサンカの人)の魂だ。

負けてすべてを捨てる。人間として生きる事さえもだ。
我らは非「常」の民である。負けるを恐れぬ民なのだ。

我らは本来無一物の生き方を大切にしてきた民だ。振り出しに戻って最初からやり直せばいいのだ。大きくなりすぎた体を自分たちの手で切り捨てる。前進をやめて意図的に後退する。権力に頼る事を止めて無力の民として生きる。

取る事をでなく、捨てる事を知っている。土地を捨てる、家を捨てる、安住を捨てる。いつもそうして体一つで流れて生きて来た。

「私たちは風(しなど)なのよ。風は軽くなくちゃいけないわ。走らなくちゃいけないわ。同じ処に止まっちゃいけないわ。そうでしょ(風の王国409頁)」。
「速水卓は今はもう孤独な歩行者ではなかった。あの二上山の空に見た幻の群れと共に、彼は葛城の古道を疾歩していた。限りなく自由な、どこまでも国境の無い、もう一つの王国への道が速水卓の目にはハッキリ見えていた」。

「彼は全ての同胞と連なっている自分を感じていた。彼ははげしい歓喜の感情に身を震わせた」。
「風は見えなかった。だが確かに存在していた。『風の王国』は今、彼の行く手に在る」。
「『あれが風だ』と彼は感じ、鮮やかな葛城の朝の光の中をすばらしい速さで翔び続けた」(五木寛之『風の王国』結語)

注:釈迦の行脚に近いイメージなので引用しました。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 23:55:18
よくわかりませんが!
和尚さんの説明をみると、
「絶対矛盾的自己同一」は自我で、

「自己同一的絶対矛盾」は無我なのかなと。
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Unknown (お転馬)
2016-08-30 23:50:28
正語と敬語は、違うだべよな。

親分は、毒舌なことよく言うっぺ。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 23:48:32
仏教をけっこう勉強しましたが・・・

「絶対矛盾的自己同一」と「自己同一的絶対矛盾」の違いが分からない・・・

誰か教えて下さい。
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Unknown (苦しい人)
2016-08-30 23:32:01
キリスト教VS仏教拝読しました。
今回の記事と比較すると梵我一如系仏教のダメっぷりが際立ちますね。
キリスト教が個人(Independence)を大切にする理由は、愛が至上だからなのですね。
三位一体説の意義や教会が重要視される理由がようわかりました。
ふわふわぽわ~んのありのまま系仏教とは思考の深さが違うように感じました。
その分、ぶっ飛び過ぎててよく信じられるなとも思いますが。
(神の国(≠天国)には言語も社会があるってのは衝撃でした。論理的には当然ですが・・・)

翻って、最近の仏教のマインドフルネス瞑想を介してのビジネス界との繋がりにはめまいを禁じえません。
「あんたら坊さんは『金儲けなんざ虚妄だ』って一喝するのが役割なんじゃないの?」と素直に思います。
浅薄さが極まりすぎて、ただ薄いというより厚みそのものがない。内実がなくなりすぎてスピリチュアルなんだか自己啓発なんだか、訳の分からない代物になってしまいました。需要に答えすぎるのもいい加減にしたほうが良いと思います。もはや仏教どころか単なるニューソート。

「今ここ自己」ってのは金と承認のゲームのことで、それに標準を合わせれば、自己啓発だとかいんちき臭いビジネス本の世界に近づくのは、論理必然だと思うんですが、自覚的にやっていることを願うばかりです。まあ、99%の確率で無自覚どころか正しいと思ってやっているんでしょうが。

ニューソート系のキリスト教も確かにありますが、カソリックでもプロテスタントでも中核はしっかりしているように思います。仏教ではむしろニューソートこそが中核になっていて、もはやなにがなんだかワケワカメです。
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勝ち負け (Unknown)
2016-08-30 23:15:57
もし勝ち負けを問うならば、
自己にその焦点を当てるべきであろう。

少欲知足・・・なぜなら欲が多く常に不満の多い人は自らが幸福になれないのみならず、平穏な日々はなくなり、煩悩はますます深くなり健康さえも害して来る。

「足るを知る」という事は、自己に打ち勝つ事が必要であり、自分に打ち勝つ者が真の強者なのである。

真の強者のみが他者の対して負ける慈悲行を行える。これが無我という事だ。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 22:58:49
Identity=自己同一性。

自己同一性障害とは自分がどんな人か解らない症状をさす。自分の中で何が欠けているかわからない、もやもやとして不完全な感情に苛まれる。・・・・従ってアイデンティティーを持つことは人として必要であろうか。

しかしそれとハンネの有り無しを直結する事は理に合わない。
ハンネ擁護人(=強力推進派)は「対他的アイデンティティー」が「連携」に必須!!との趣旨と見た。

サンガを形成し同胞を成し相互扶助する事が「連携」なら、タメ口をきいたり、(固定)友人感情を持ち込んだり、なれ合う関係を持ち込んではならぬ。
心を浄める丁寧かつ上品な言葉遣い(=正語)のみが「連携」を生む。

釈迦はサンガを清く守るために、汚れた思考方式を持ち、汚れた言葉を用いる汚道沙門を排除された。

ハンネ人も天の声・地の声を語りうる。しかしハンネをつけたからその言葉が天の声・地の声になるという事では無い。

言葉それ自身に天の声・地の声が生れて来るのである。それが人を励ます正語という事だ。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 22:51:43
ミャンマーでも地震あって、仏教遺跡がかなり崩れたらしいね。

でも仏教遺跡って、仏教ではない仏教遺跡?
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 22:48:48
>乗客に日本人は居ませんでした。で安心するタイプ?

これ報道の仕方が、変だよね。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 22:05:48
は?どこまで御察しすりゃいいの?
乗客に日本人は居ませんでした。で安心するタイプ?
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台風お見舞い申し上げます。 (Unknown)
2016-08-30 21:43:51

「そこまで言う?」
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 21:00:34
青森県に25万人もの避難勧告が出てるのによく言えるね。そんなこと
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 20:44:56
台風は去ったみたいですね。。
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さらに (はてな)
2016-08-30 20:30:23
ことばの習得と共に得られた性質であり、言葉と同一性は両輪を形成します。

同一性がなければ、言葉は「ことば」として機能しません。 また、ことばがなければ、進化は得られません。

以上です。 おやすみなさい。

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最後に (はてな)
2016-08-30 19:50:07
一言で「それを」説明します。

『意識に内在しているもの』が同一性です。 

以上です。
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さらに (はてな)
2016-08-30 18:57:29
>「だって、無常だの無我だの縁起だのと仏教は言っているのに、『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』などと言い出して、『真実在』の領域を設定したら、ダメでしょう。無常の立場から言えば、『同一』は言語が仮設する概念だぜ。無常かつ無我という『矛盾』的実存に対して言語が『同一』性を仮設していると言う意味で、『自己同一的絶対矛盾』とでも言うなら、まだわかるがね」

私の考える「それと」全くもって、全然異なることから、違う可能性が高いですね。
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補足 (はてな)
2016-08-30 18:33:58
西田さんが言われた「絶対矛盾的自己同一」と私の考える「それと」同じであるとは言えません。

私が実感していたものが「そのことば」を知ることで「腑に落ちた、言語化に至った」というだけであって、西田さんの書物は一切読んでおりません。
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ひかげさんへ (はてな)
2016-08-30 17:46:00
差別や攻撃の意識はありませんよ。
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大人としてありえない「はてな」氏のコメント (ひかげ)
2016-08-30 17:10:11
自由闊達に議論を交わすのは大いに結構ですが、この世には最低限守らなければならないルールというものがあります。

遺伝子によって人を判断するかのような物言いは、絶対に慎むべきです。科学的根拠がどうこうという話ではなく、その発想がもたらした歴史的事件、そして今日の社会のありかたを考えれば、それは軽々しく口にする言葉ではない。

お気に入りの絶対矛盾なんじゃらを否定されて気に障ったのかもしれませんが、だからと言って、南和尚の人格を攻撃したり、「直哉さんには、分かり得ない」と見下したり、挙句の果てには、「遺伝的要素」を語り差別意識を丸出しにするなどとは、大人としてありない行為です。
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絶対矛盾的自己同一とは (はてな)
2016-08-30 15:59:03
他者の意思は記号(通常は言葉ですね)を介することで合意を得るのが一般的と思うかもしれません。 しかしながらリアルな領域では、感覚が主で情報が副です。 代表事例では、かの400mリレーが納得し易いでしょう。

絶対矛盾的自己同一という『ことば』に囚われてはいけません。 感性(それも実感)で分からなくてはいけません。

絶対矛盾的自己同一という『ことば』で表されたことが、実感で分かっている者は『自己が安定』します。 

直哉さんには、分かり得ない領域かもしれませんね。 遺伝的要素があるようなので、遺伝子を調べると分かるかもしれませんね。
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驕りではありませんね (はてな)
2016-08-30 12:04:25
直哉さんと奥さんの馴れ初めをyou tubeで知っておりましたが、今回の記事で奥さんが言われた言葉に納得しましたよ。

精神(人格性や人間性)の著しい不安定性さがより一層、仏教に取り組ませているのであって、単なる驕りではありませんね。 だからこそ、言葉に威力があるのでしょうが、永平寺の修行僧時代の後輩は大変な目にあったでしょうね。

余計なことついでに言えば、奥さんは如何なるお方かと、ふと思いましたね。
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感謝。「道元禅」と「白隠禅」との相違点を如実に示している。 (イエスちゃん)
2016-08-30 11:20:54

今から35年ぐらい前に、
(晩年の鈴木大拙に私塾した)秋月龍珉老師が
毎週日曜日に神楽坂の自宅で、真人会の老師として
「正法眼蔵」の提唱をなさっていた。

提唱の後では、弟子との禅問答、独参を受けていらっしゃった。

テキストは、旧岩波文庫「正法眼蔵」95巻本であり、
これは道元和尚の執筆の年代に並べたものであった。

(なお、旧版は、誤りが多いので絶版にした。現在の岩波本は、道元和尚自身の編纂による旧草75巻本+新草12巻の順となっている)

そこで、秋月老師は、
「海印三昧」の巻に至って、「大海が、屍骸を飲み込む、飲み込まない」の個所になったら、
「ここは何を言っているのか解らない」と解説した。

聞いていた私は、びっくりした。

こちらは禅には初心者であるから、適当に誤魔化して説明すれば何も気づかれずに済むところを、わざわざ「自分には解らない」と弟子に向って説明する。

偉い人は、自分が解らない時は、正直に、そのまま解らないという事ができるものだと、ただただ感心したものだ。

しかし、今から考えると、
鎌倉時代に成立した「道元禅」を、
江戸時代に完成した「白隠禅」
(道元和尚が徹底的に否定した、中国宋代の「看話禅」)
を用いて理解しようとしていたのであり、
そもそも原理的に不可能であったことであった。
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Unknown (院代)
2016-08-30 10:58:27
「無常かつ無我」の間違いです。失礼しました。
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Unknown (A)
2016-08-30 10:48:12
「無常かつ無常という『矛盾』的実存」の部分に「無常」が二個重複していますが、これは正しくは、「無常かつ無我」でしょうか?
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 09:44:46
いや、たとえ読めたからといって、満足するものでもなく、道元禅師に近付くことを、目的とするものでもない。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 09:39:03
眼蔵を正しく読めたら、道元禅師に一歩近付けるような気がする。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 09:34:39
『絶対矛盾的自己同一』は、アートマンの立場で

『自己同一的絶対矛盾』は、アナートマンの立場

ということでしょうか。
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じっくり考えますが (はてな)
2016-08-30 08:30:31
口調に、強烈な『驕り』を感じさせられますね。

番外:告知と批判 が、直哉さんの人物像を如実に反映しているのかもしれませんね。

もし、そうであれば『一変』しますね。
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そうであればこそ (はてな)
2016-08-30 08:25:25
>「だって、無常だの無我だの縁起だのと仏教は言っているのに、『純粋経験』だの『絶対矛盾的自己同一』などと言い出して、『真実在』の領域を設定したら、ダメでしょう。

『真実在』の領域もなにも、無常、無我、縁起という「ことば」を成立させているのが『絶対矛盾的自己同一』ですね。 その意味においては、『自己同一的絶対矛盾』という「ことば」では「不成立」になりますね。
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面白いが、それでまた始まる (はてな)
2016-08-30 08:01:46
『自己同一的絶対矛盾』というのは、『絶対矛盾的自己同一』からの展開(あるいは、派生)になるでしょうが、そうであっても「その『ことば』には」、一理あります。 

>もとももと形而上学を持たなかった『日本』においてしか現れなかったのじゃないかと、考えているけどね」

それはそうですよ。 「世は人につれ、人は『ことば』につれ」ですからね。

>・・・鈴木の話も西田の説も、・・・

その時代のその時のことですよ。 更に言えば、同じ時と場を共有していても「その時のこと」です。 がしかし『ことば』だけが時空を超えて存在しているということですね。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 06:36:38
とってもぶっちゃけ、眼蔵を正しく読めたらなんだというんだろう?みたいな。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 06:32:24
いや、むしろ、
「同じように考えている坊さんの文章を読んだことがあるが、完全な誤解」
この坊さんとお話しができるなら、してみればいいのに。
「あなた、完全に誤解してるよ」と言ってどういう展開があるか。どういう流れの中で「完全に誤解してるよ」って言えるか。
そういうのが見てみたいなあ。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 06:21:35
わからないわ~こういう話。

主体と客体が未分の状態が「即非」で「無」?
未分のものがあるんじゃないの?
「無常の立場から言えば、『同一』は言語が仮設する概念」
無常の立場ってなんだろう?無常に立場はあるんだろうか?っていうか、全部言語が仮設する概念の話ですよね?
…だったらなんなんだろう?
眼蔵の正しい読み方を知っているのは南さんだけってこと?なんだそりゃ。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 02:32:14
オヤジ付ける?
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 01:36:26
日本的=地震雷火事とオヤジの南さん
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 01:33:30
過去にも繰り返されて来た、3.11の津波の世界観が日本的思考を生んだ??
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 01:27:11
日本的思考とは、

形而上学を持たず・・・、
『諸行無常の響きあり、この世にはかなく散る桜』・・・としての悟り(諦念の美意識)の境地(=「無常」の受容、今この瞬間を訳も無くいつくしむ境地、今われは生きて此処に在るのみ「うたかたの世界」という刹那感)という事になるのでしょうか??

そこには同一性自己の存在は不要だ!!とか。
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Unknown (Unknown)
2016-08-30 01:00:45
よくぞ言われました!
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