およそ古今東西ひろしと言えども、思想・哲学を説くと言われる書物で、歯磨きや洗面、風呂の入り方や排泄の仕方をテーマに自説を開陳しているものは、まず『正法眼蔵』以外にないでしょう。そこには、それら行為の理由たる、浄不浄、すなわち清潔/不潔、きれい/汚いの区別をめぐって、興味深い議論が展開されています。
普通に考えれば、汚れを除き、身ぎれいにするために、人は洗うわけしょう。つまり、不浄・不潔を厭い、浄・清潔なる我が身を確保しようとするわけです。
これに対して、一切は無常で無我だとする仏教の立場をとる者は、時としてその浄不浄の区別を批判します。つまり、そんな区別に根拠も実体もない。いたずらに不浄を嫌い、浄に拘るのは、無知ゆえの煩悩なのだと、主張します。
大体、体の表面、皮膚一枚洗ってきれいにしたところで、その下はどうなのだ。五臓六腑は汚くないのか。洗わなくてよいのか。さらに言えば、洗う水の浄不浄は問わなくていいのか。結局、浄も空、不浄も空、浄不浄の区別など、妄想に過ぎない。
というわけで、昔の禅者には、剃髪もせず顔も洗わず、歯も磨かず、爪も切らない猛者がいました。実際長髪長爪の頂相(禅僧の肖像画)も残っていますし、考えてみれば有名な一休禅師の肖像画も有髪で髭面です。
道元禅師は、このような考え方を真っ向から否定します。その議論の要は、我々が常識的に持っている浄不浄の概念的区別には根拠がなく、それは正に空であると認めたうえで、なお修行僧は作法通りに髪を剃り、顔を洗い、入浴して排泄すべきなのだと考えるところにあります。これを言い換えれば、汚いものを洗ってきれいにするのではなく、洗う行為とその方法が、きれい/汚いの意味を決めるのだということです。
洗う水の浄不浄について、『眼蔵』にはこうあります(筆者訳)。
「水がどうして本来清浄だと言えようか。あるいはまた、もともと不浄であろうか。本来清浄だとか不浄だとか、そんなことはその水をどこから持って来たかによって、清浄になるとも言えないし、不浄になるとも言えない。ただ諸仏諸祖師が伝えてきた仏法の修行と(その教えの)証明(『仏祖の修証』)を引き継いで護る時、そこに水を用いて洗い清め、水をもって身を浄めるという仏法があるのだ。この洗い清めによって仏法を修行し証明する時、日常の概念で理解している浄を超越し、不浄も脱却し、浄でも不浄でもないという判断も脱落しなければならない」
「浄でも不浄でもないという判断も脱落しなければならない」というのは、一切空だから浄も不浄もない、洗う必要などさらさらないという態度の否定でしょう。浄も不浄もないにもかかわらず、あえて洗うのが仏法の修行者なのです。
ここで言う「仏法」を縁起の教えと考えるなら、私にはこう解釈したいところです。
縁起の教えの核心に「他者に課された自己」「他者を根拠とする自己」を見るならば、汚れていようがいまいが、そんな判断とは無関係に、身を浄め清潔を保つのは、自らが相対する他者への敬意で在り、それを根拠とする自己の存在への敬意でしょう。この縁起の教えを尊重してただ「洗う」時、そこに仏教の「浄不浄」が現成するわけです。
マスクをしても手洗いをしても、外出や移動を自粛しても、ウイルスに感染する時はするでしょう。しかし、それでもマスクをし手洗いするのは、自分の安全(浄)だけを確保するのではなく、まずもって他者に感染させないためだと思うなら、それは縁起の教えの実践だろうと、私は思います。
普通に考えれば、汚れを除き、身ぎれいにするために、人は洗うわけしょう。つまり、不浄・不潔を厭い、浄・清潔なる我が身を確保しようとするわけです。
これに対して、一切は無常で無我だとする仏教の立場をとる者は、時としてその浄不浄の区別を批判します。つまり、そんな区別に根拠も実体もない。いたずらに不浄を嫌い、浄に拘るのは、無知ゆえの煩悩なのだと、主張します。
大体、体の表面、皮膚一枚洗ってきれいにしたところで、その下はどうなのだ。五臓六腑は汚くないのか。洗わなくてよいのか。さらに言えば、洗う水の浄不浄は問わなくていいのか。結局、浄も空、不浄も空、浄不浄の区別など、妄想に過ぎない。
というわけで、昔の禅者には、剃髪もせず顔も洗わず、歯も磨かず、爪も切らない猛者がいました。実際長髪長爪の頂相(禅僧の肖像画)も残っていますし、考えてみれば有名な一休禅師の肖像画も有髪で髭面です。
道元禅師は、このような考え方を真っ向から否定します。その議論の要は、我々が常識的に持っている浄不浄の概念的区別には根拠がなく、それは正に空であると認めたうえで、なお修行僧は作法通りに髪を剃り、顔を洗い、入浴して排泄すべきなのだと考えるところにあります。これを言い換えれば、汚いものを洗ってきれいにするのではなく、洗う行為とその方法が、きれい/汚いの意味を決めるのだということです。
洗う水の浄不浄について、『眼蔵』にはこうあります(筆者訳)。
「水がどうして本来清浄だと言えようか。あるいはまた、もともと不浄であろうか。本来清浄だとか不浄だとか、そんなことはその水をどこから持って来たかによって、清浄になるとも言えないし、不浄になるとも言えない。ただ諸仏諸祖師が伝えてきた仏法の修行と(その教えの)証明(『仏祖の修証』)を引き継いで護る時、そこに水を用いて洗い清め、水をもって身を浄めるという仏法があるのだ。この洗い清めによって仏法を修行し証明する時、日常の概念で理解している浄を超越し、不浄も脱却し、浄でも不浄でもないという判断も脱落しなければならない」
「浄でも不浄でもないという判断も脱落しなければならない」というのは、一切空だから浄も不浄もない、洗う必要などさらさらないという態度の否定でしょう。浄も不浄もないにもかかわらず、あえて洗うのが仏法の修行者なのです。
ここで言う「仏法」を縁起の教えと考えるなら、私にはこう解釈したいところです。
縁起の教えの核心に「他者に課された自己」「他者を根拠とする自己」を見るならば、汚れていようがいまいが、そんな判断とは無関係に、身を浄め清潔を保つのは、自らが相対する他者への敬意で在り、それを根拠とする自己の存在への敬意でしょう。この縁起の教えを尊重してただ「洗う」時、そこに仏教の「浄不浄」が現成するわけです。
マスクをしても手洗いをしても、外出や移動を自粛しても、ウイルスに感染する時はするでしょう。しかし、それでもマスクをし手洗いするのは、自分の安全(浄)だけを確保するのではなく、まずもって他者に感染させないためだと思うなら、それは縁起の教えの実践だろうと、私は思います。