恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「生む・生れる」問題

2020年12月20日 | 日記
 昨今、時折目にする言葉に「反出生主義」というものがあります。これは、簡単に言うと、自分が生まれてきたことと、子供を生むことを否定する思想です。

 代表的な主張者はアルトゥール・ショーペンハウアーでしょうが、ブッダも人によっては、反出生主義者の一人と目されることがあります。

 実際、ブッダのアイデアには、「生まれる」方面で、「一切皆苦」の考えがそう読み取られるきらい無きにしも非ずでしょうし、子供に関しては、初期経典につぎのような部分があります。

「パーピマント悪魔が〔言った〕『子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない』と。
世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない』と」

 一読すると、反出生主義に馴染みのよい言辞と思われるかもしれまん。ただ、私は反出生主義の主張は馬鹿げていると思います。

 まず「生む」ことに関して言えば、「喜ぶ」ほうにしても「憂う」ほうにしても、反出生主義の場合、子供は親となる側が自分の意志で「作る」ものだ、と考えていることが前提でしょう。そうでなければ、思想としての「主義」になりません。これは要するに、次世代の存在は、前世代の恣意だということです。

 この考え方は、近代以降の限られた時代状況でしかリアルではありません。それ以前には、子供は「作る」ものではなく「授かる」ものでした。「授かる」時代にあっては、反出生主義など、妄想以外の何ものでもありますまい。

 今後、生殖医療をはじめ、諸科学と科学技術が発展すると、子供は「作る」どころか「注文」するものになるかもしれません。

 反出生主義の論拠に、子供が生まれることに際して起こる、環境負荷、本人の社会生活上の困難、心身の条件に優劣などの問題がありますが、それらの不都合は、諸科学が「注文」可能なレベルにまで発展した未来社会の段階で、ほとんど取り除かれるかもしれません。「注文された」子どもが結構な人生を送る可能性も大いにあるでしょう。そのときには、反出生主義など大昔の戯言と片づけられるはずです。

 そもそも、上述の論拠は基本的に生む側の忖度で、生まれる方がどう思うかは別でしょう。忖度も過ぎると傲慢です。

 紹介したブッダの言は、あくまで子供は依存の対象となり、結果「憂い」の原因になると言っているだけであって、「生むべきでない」などと主張しているわけではありません。しかもそれは、自ら「出家」を標榜する立場からの物言いです。

 ブッダの主張はあくまでも、出家して修行すべきだということであり、だとすれば、子供がその妨げになる「可能性」があり、それを避ける結果として、子どもを持たないことになるにすぎず、これはどうみても反出生「主義」ではありません。

 もうひとつの「生まれ」てきた方面の話は、今更言っても繰り言にしかなりません。もはや「生まれてきてしまった」人間の主張する反出生主義など、愚痴以外の何なのでしょう。

 問題は、根拠も理由も不明なまま「生まれてきてしまった」事実(諸行無常)を正面から引き受け、それをどう認識して、どう扱うかです。これがブッダのアイデアの核心だと、私は考えます。事実を愚痴るのとはわけが違います。

 およそ存在することを肯定する根拠も、否定する根拠も主張しないのが仏教です(無記)。反出生主義ほどナイーブなアイデアではありません。

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